【民主先生】台湾の国父・李登輝さん(享年97歳)逝去。
李登輝元総統が死去…その業績に、台湾で批判、中国から称賛も
Record China 2020年7月30日21時30分配信
中華民国(台湾)の李登輝元総統が7月30日に、台北市内の台北栄民総医院(病院)で死去した。97歳だった。台湾に中華社会としての初の本格的な民主主義をもたらした指導者であった反面、台湾の独立を訴えた政治家だっただけに、中国大陸人や台湾人からのネットへの書き込みが相次いだ。
李元総統は2020年2月8日に牛乳を飲んだ際にむせ込み、咳が止まらなくなったことで病院に搬送された。病院では肺湿潤があることなども分かった。その後は入院生活を続け、7月28日にはネットで「死亡説」が広がったが、デマと分かった。29日午前には、蔡英文総統、頼清徳副総統、蘇貞昌行政院長(首相)が見舞いに訪れた。
李元総統の容体悪化が伝えられるとともに、台湾では元総統についてのネットへの書き込みが増えはじめた。最も目立つのは、李元総統を「台湾民主の父」と評価する意見だ。台湾では、戦後になってからの長期間、国民党の指導者だった蒋介石総統や息子の蒋経国総統による、強権・恐怖政治が続いていた。蒋経国総統は米国からの圧力を受けたなどで、民主化に向けた姿勢を見せていたが病気に倒れたため、李登輝氏が最初は総統代行として、次に総統として民主化を本格的に進めることになった。
台湾では、李元総統の支持者の評価として「総統在職中に台湾を権威主義から民主に向かわせ、万年国会の改選、総統の直接選挙、警備総司令部の権限縮小を行い、言論の自由を徐々に保障していった」などが挙げられている。
「万年国会」とは中華民国国民大会を指す。1948年までに中国各地の代表として選出された議員で構成されており、国民党が台湾に移ってからは改選されることもなく機能していなかった。「万年国会」は民主化を求める人々から強く批判され、李元総統が要求に応じる形で1991年末に議員全体が退任する方式で、歴史の幕を閉じた。警備総司令部は台湾の戒厳維持などのために設けられた機関で、やはり李元総統が主動することで1991年に廃止された。
李元総統への評価として、「台湾人意識の確立」を指摘する声もある。台湾出身者として初めての総統であり、「台湾意識」や「台湾の主体性」の価値観を確立したとの見方だ。
なお、李元総統には、「権力確保のために派閥政治や金権政治をもたらした」との批判があるとも指摘された。事実、李元総統の在任期間中には、台湾政界で多くの汚職が明るみに出でている。また、李元総統自身も2011年に公金横領や資金洗浄の罪で起訴された(13年に台湾地方裁で無罪判決)。
一方の大陸側では、李元総統を批判する声が圧倒的に多い。中国当局がこれまで、李元総統を「台湾独立運動の元凶」とみなして批判や非難を繰り返してきたことも影響しているが、中国人は庶民に至るまでほとんどの人が「台湾は中国の一部」と考えており、大陸側の「嫌・李登輝」の感情は多くの中国人の自然な気持ちと理解することができる。
中国大陸側からの書き込みとしては、「真の名は李登輝でなく、岩里政男だ」との主張もある。「岩里政男」とは日本が台湾を統治していた時代に李元総統が用いた日本名だ。李元総統は、「日本精神」を極めて高く評価する発言を繰り返しただけに、中国側では「植民地根性の持ち主」といった批判が定着していた。
上記主張は28日の「死亡説」がデマと分かった後に寄せられたもので、「岩里政男氏が健康を回復し、中国が台湾を取り戻すまで長生きすることを、心よりお祈りする」といった皮肉も追加されている。
ただし一方では、「中華民族の歴史に、政権を平和的に交代させる1ページを築いた。その歴史的地位は、孫中山(孫文)と肩を並べる」と、極めて高い評価を示した大陸人もいる。
李登輝さん逝去 中共 習近平の野望を阻んだ“台湾人意識”
産経新聞 2020年7月30日(木)22時17分配信
中国の習近平国家主席は台湾に「一国二制度」の受け入れを迫っているが、その台湾統一の野望を阻む最大の砦(とりで)は、李登輝氏が総統時代に政治改革や教育政策などを通じて確立させた台湾人意識だ。台湾の主体性を重視するこの意識は今や党派を超えた台湾民意の主流となり、李氏の死去で揺らぐことはなく、習指導部に残された手段は限られている。
台湾統一は習氏が掲げる国家目標「中華民族の偉大な復興という中国の夢」の中核だ。だが2012年の習指導部発足以降、台湾独立志向の民主進歩党を率いる蔡英文氏に二度の総統選当選を許すなど台湾政策の成果は乏しい。特に今年1月の総統選は、香港への統制強化が台湾社会に一国二制度への不信感を募らせる結果となり、中国側の“オウンゴール”に終わった。
焦りを隠せない習指導部は5月、党序列3位の栗戦書政治局員が、台湾独立の動きがあった場合に武力行使することを規定した「反国家分裂法」に基づく軍事力の発動を示唆した。
中国が武力侵攻に踏み切る可能性はあるのか。李氏は18年10月、産経新聞の取材に「米国がどの程度関与してくるかは不明で(台湾も)過大な期待を持つべきではない」としつつ、中国側にもリスクは大きいとの見方を示した。北京の中国人ジャーナリストも「もし台湾側に三峡ダムを爆撃されたら下流の江蘇省や浙江省は水没する」と指摘し、習指導部が政治的賭けに出る可能性は低いとみる。
李氏は総統退任後、台湾を「正常な国家」とするための新憲法制定を掲げ、中国が領有権を主張する尖閣諸島(沖縄県石垣市)も「日本のものだ」と公言。中国の左派を「現代最大の漢奸(かんかん)だ」(中国紙・環球時報電子版)と逆上させた。中国ではこうした批判の声が大勢を占める一方、改革派の中には「台湾の民主改革を穏健に実現した」(北京の政治学者)と評価する声もある。
李登輝さん死去 京都帝大で学んだ元総統が語った京都の思い出
京都新聞 2020年7月30日(木)22時30分配信
7月30日に97歳で死去した李登輝(り・とうき)元総統は、京都帝国大学に1943年に入学した。李登輝氏は2006年、台北市内で京都新聞の取材に応じ、「台湾から京都に来たのは終戦の2年前。まず食べ物に困った。配給券を持ってあちこちの食堂を回ったが、お米は茶わん一杯もなく、野菜も足りない。困って台湾から豚の脂の缶詰と砂糖を送ってもらった」と、日本語で若き日の京都の思い出を語った。
京都帝大のキャンパスは閑散としていたという。日本統治下でも台湾・朝鮮出身の学生は召集されていなかったが「同級生が兵隊に行くのに自分だけのんびりはできない」と志願した。
李登輝氏は、大阪で兵役検査を受けた。「旧制高校のころから『死』とは何かを勉強した。今の人にはおかしいだろうが、検査官に『歩兵に行かせてくれ』と言った。一番苦労し、人間の生死の間をさまよい、死とは何かを理解するには歩兵がいいと」などと、戦争中の思い出を話していた。
李登輝さん死去「公に奉ずる日本精神」説き続けた“旧制高校生”
産経新聞 2020年7月30日(木)22時00分配信/河崎真澄(元台北支局長)
作家の司馬遼太郎は、1993年と94年の台湾取材で親しくなった元総統、李登輝を「旧制高校生」と評した。2人とも大正12(1923)年の生まれだ。
互いに70歳に手が届いていたが、「僕はね」と語りかけた口調に、司馬は懐かしき旧制高校生に再会したと感じたのだろう。李登輝は旧制台北高から、京都帝大(現京大)に進んだ。
本紙連載「李登輝秘録」の取材で台北郊外の自宅を訪れたとき、李登輝は右手を首まで水平に持ち上げ、「僕はここまで、22歳まで日本人だったんだ」と言った。
李登輝は高校時代に新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)の「武士道」を読み込んだ。自著「『武士道』解題」(小学館)で「日本の伝統的価値観の尊さ」を訴え、戦後日本の「自虐的歴史観は誤り」と書いた。
台湾民主化の父と呼ばれた李登輝が「日本精神」にこだわったのはなぜか。
2002年11月、慶応大で学生向けに話すはずだったが、訪日ビザ(査証)を日本政府に拒まれ“幻の講演原稿”となった「日本人の精神」にこう綴った。
「いま、私たちの住む人類社会は未曽有の危機に直面している。危機竿頭(かんとう)に面したとき、日本人に対する国際社会の期待と希望はますます大きくなる。数千年にわたり積み重ねてきた日本人が、最も誇りと思うべき普遍的価値である日本精神が、必要不可欠な精神的な指針なのではないか」
その実例として李登輝は戦前の台湾で、東洋一とされた「烏山頭(うさんとう)ダム」を作った日本人技師、八田與一(はった・よいち)を挙げた。工事は苦難の連続だったが、灌漑(かんがい)用水路も整備し、干魃(かんばつ)や洪水に苦しんだ不毛の地を広大な農地に変えた。台湾農民のために八田は生涯をささげた。
李登輝は、「人間いかに生きるべきか」「公に奉ずる精神」を実践躬行(じっせんきゅうこう)したとたたえた。八田は台湾でいまも尊敬を集めている。
李登輝は講演原稿をこう締めくくった。「皆さんの偉大な先輩、八田與一のような方々をもう一度、思い出し、勉強し、われわれの生活に取り入れよう」。私心ではなく「公」のために誠意をもって行動する。戦後の日本人が失った「日本精神」をいまこそ取り戻すよう、李登輝は事あるごとに日本人に説いたのだ。
台湾における教育改革にも心を砕いた。「(国民党政権の)反日教育をやめさせ、台湾の子供たちに正しく日本と日本人を理解させなければ」と考え、96年に新たな中学の教科書「認識台湾」を作らせた。それ以前の教育では、大中華主義の歴史観で台湾の歴史や地理は教えず、日本統治時代は一律に否定していた。
だが李登輝は戦前に普及した教育の制度やインフラ建設など、日本の功績も認める客観的な記述を取り入れて再評価させた。その結果、若い世代が公平な目で日本を見て判断し、親しみを感じる傾向が強まったという。反日教育を90年代から加速させた中国や韓国と台湾の差がここにある。
「僕はね、戦後の日本人が失ってしまった純粋な日本精神を、今も持ち続けているんだ。だから政治の苦難も乗り越えられた」。そう話した李登輝の生き方こそ、今を生きる日本人が手本とすべきものだった。
李登輝さんの2つの遺産“民主化”と“本土化”
産経新聞 2020年7月31日(金)7時46分配信/矢板明夫(台北支局長)
知人の台湾の大学教授は李登輝元総統の写真入りのキーホルダーを大事に20年以上も使っている。1996年に台湾で初めて直接総統選挙が実施されたとき、候補だった李氏の陣営が作った記念品だという。それを見ると、当時の幸せな気持ちを思い出せるからだと説明している。
この教授は青年期に米国に留学したが、中国人とよく間違えられて肩身の狭い思いをしたという。李氏が95年に米国を訪問し、大学で講演したことで台湾の存在が米国に広く知られ、その翌年に李氏が主導した民主化が世界から高く評価された。「台湾人であることを初めて誇らしく思った」といい、その年の李氏の就任演説を聞いたとき、涙が自然とこぼれたという。
李氏が台湾に残した大きな業績は2つあるといわれている。1つは民主化を実現させたこと、もう1つは、本土化政策を推進して台湾人意識を広げたことである。
李氏の後任として台湾の総統に就任した陳水扁氏によれば、この2つによって、台湾はその後の中国の激しい統一工作に抵抗し、中国に併合されずに済んだ大きな原因となった。
一方、この2つのことは中国を強く刺激し、中国が李氏を「台湾独立運動の父」と決めつけ、激しく批判し続ける理由となった。李氏は現役時代から両岸対応に追われたため、残念ながら中国からの軍事的、外交的な圧力に対して有効な対策をとれなかったことも事実だ。
李氏が総統を退任した直前の99年に打ち出した「二国論」(中国と台湾は特殊な国と国の関係にある)は、李氏の対中政策の集大成といわれている。それを憲法に盛り込むことは李氏にとっての悲願だったが、中国の猛反発で実現できなかった。当時、李氏のブレーンで、現在の総統の蔡英文氏は「二国論」の原案作りから深く関わっていたとされる。
今の蔡英文政権は基本的に李氏の対中路線を継承しているが、当時の李氏と同じように、中国とどう向き合うのか、いまだに頭を悩ませている。
しかし、ここへきて、国際情勢は大きく変化し、台湾への追い風が吹き始めたことも事実だ。今年初めに発生した新型コロナウイルス禍で、台湾は「先手防疫」といわれる対応によって被害を小さく抑え、世界から称賛された。蔡氏は6月にデンマークで行われた国際会議で「台湾の経験が示すように、民主主義を犠牲にしなくても感染対策は成功できる」と誇らしく宣言した。
中国のような高圧的なやり方ではなく、台湾の民主的な感染症対応は国際社会から注目された。
同時に、今年になってから本格化した米中対立によって、台湾の戦略的な地位が高くなり、米国をはじめ世界は台湾を重視するようになった。米議会で最近、議論されている「台湾防衛法」は、台湾にとって最大な課題である中国からの軍事的脅威に対抗できることがこれから可能になることを示唆している。
ある元政治家は「約30年前に、(総統だった)蒋経国が死去したとき、リーダーを失った私たちは台湾の将来に対し大きな不安を感じていたが、今そのような不安は全くない。李氏が示してきた道を突き進めばよいと考えている。この道こそ、彼が残してくれた最大の財産だ」と話した。
李登輝時代以上に、米国との関係を親密化させた蔡政権にとって、いまこそ、台湾の民主主義と台湾人意識を再び国際社会に示すチャンスかもしれない。
安倍首相「日台親善に多大な貢献」李登輝元総統死去
FNNプライムオンライン 2020年7月31日(金)10時12分配信
安倍首相は31日午前、台湾の李登輝元総統が30日に亡くなったことを受けて、次のように述べた。
(台湾の李登輝元総統が亡くなられましたが、総理の受け止めをお聞かせください)
安倍首相「李登輝元総統のご逝去の報に接し誠に痛惜の念に堪えません。李登輝総統は日本と台湾の親善関係、友好増進のために多大なご貢献をされた方であります。そしてまた同時に、李登輝総統は常に日本に対し特別な思いで接してこられた方でもあり、また台湾に自由と民主主義人権そして普遍的な価値を、また同時に日台関係の礎を築かれた方として多くの日本国民は格別の親しみを持っています。李登輝総統のご逝去、誠に残念でありますが、あらためて心からご冥福をお祈りいたします」
米ポンペオ長官「台湾との絆を強化し続ける」…李登輝氏追悼の声明
読売新聞オンライン 2020年7月31日(金)10時33分配信
米国のポンペオ国務長官は30日、台湾の李登輝・元総統を追悼する声明を発表し、「数十年間の権威主義に終止符を打つ手助けをし、経済的繁栄や開放、法の支配による新たな時代の先駆けとなった」と評価し、民主化を進めた功績をたたえた。「我々は台湾との絆を強化し続けることで、李氏のレガシー(遺産)に敬意を表していく」とも指摘し、台湾との関係を今後も重視していく姿勢を示した。
香港政府、台湾窓口機関トップ“事実上”追放「一つの中国」踏み絵に
読売新聞オンライン 2020年7月20日(月)22時19分配信
20日付の台湾紙「聯合報」などによると、香港政府が、在香港の台湾窓口機関である台北経済文化弁事処で実質的なトップを務める代理処長に対し、滞在査証(ビザ)の更新を拒否し、代理処長は16日、台湾に戻った。中国と台湾が同じ国に属するとの「一つの中国」原則を認める書類に、代理処長が署名することを拒んだためだという。
「一つの中国」を踏み絵にした事実上の追放と言える。国家安全維持法の施行を受け、香港の自由や民主主義を求める台湾に対し、香港政府は締め付けを強めている。
代理処長のほかにも部門責任者ら3人が最近、同じ理由で香港を去ったという。
台湾は報復措置を取った。在台湾の香港経済貿易文化弁事処のスタッフが査証の延長を認められず、台湾を離れた。
台湾紙「自由時報」によると、台湾で2016年に蔡英文ツァイインウェン政権が発足した後、香港政府は台北弁事処の本来のトップである処長に対し、「一つの中国」を認める書類の提出を求めるようになり、処長が香港に赴任できなくなっていた。
李登輝・傑出したアジアの政治家、殺されかねず身を潜めた日々も…
西日本新聞 2020年7月31日(金)10時48分配信
「あのころ、少ない味方と話すときは、他には分からぬよう日本語でしゃべったもんだよ」。30日死去した李登輝氏がニヤリと笑いながら述懐したのを覚えている。1988年、思いがけず台湾総統となったころの話だ。
当時、台湾政界の中枢は中国大陸出身の外省人が固めていた。李氏は日本統治時代の台湾に育った土着の本省人。京都帝大(現京大)で学び、学徒出陣もした経歴は、戦後の国民党による恐怖政治の下では敵として殺されかねず、身を潜めた日々もある。蒋経国氏に農政の手腕を買われて出世し、蒋氏の突然の病死で副総統から総統となったものの、実態は「孤立無援」。外省人エリートたちは政争が決着するまでの“つなぎ”と李氏を軽視した。
ところが民主化を求める本省人の民意が李氏を後押しした。李氏は非改選の議員が特権をむさぼる議会を改め、中国との戦時体制を敷く法を廃止して政治犯を釈放するなど、「静かな革命」は徐々に加速した。学生運動さえ味方に付け、ついに総統ポストそのものも民選に転換。李氏自らが圧勝して台湾民主制の基礎を固めた。
外交面では、中台の統一を掲げる中国をけん制し、現状維持の立場を徐々に強化。これは中国の猛反発を招くが、日米による台湾海峡有事をにらむ安保体制の見直しを引き出し、各国世論にも台湾への親近感を培うなど、したたかな外交巧者ぶりを発揮した。
総統を退いた後、政権交代が続いたが、李氏の針路は今も引き継がれている。政略の深みと意志の強さは、常に外来政権に支配されてきた「台湾人に生まれた悲哀」を身をもってなめてきたからに他ならない。
その思いは親近感を抱き続けた日本の政治に対する苦言として表れた。「東京でばかりものを考え、視野も狭いし、信念もない」。傑出したアジアの政治家を惜しむ声は、日本にも広くある。
李登輝元総統、母国の主体性守るため活動
47NEWS 2020年7月31日(金)17時32分配信
台湾の民主化を推進したことから「台湾民主化の父」と呼ばれた元総統の李登輝氏が30日、多臓器不全のため死去した。97歳だった。台湾出身者(本省人)として初の総統として「台湾人の新国家」を目指した。台湾の独立性を守るため、退任後も精力的に政治活動を行った生涯を共同通信の記事を基にまとめ、写真で振り返る。(47NEWS編集部)
李氏は日本統治下の1923年、現在の新北市で生まれた。「岩里政男(いわさと・まさお)」という日本名で日本の教育を受け、京都帝国大(現京都大)に入学。在学中に志願兵で軍に入隊し、陸軍少尉として名古屋で終戦を迎えた。
その後、台湾に戻り台湾大を卒業。さらに、米コーネル大で農業経済学博士号を取得した。蔣介石の長男で元総統の蔣経国に見いだされ、農業経済学者から政界入りした。
当時の台湾は、日本による50年間の植民地統治後に中国共産党との内戦に敗れた国民党の蔣介石ら大陸出身者(外省人)が支配する「外来政権」であった。そのあおりを受けて、本省人は人口の大半を占めているにもかかわらず政治上の主役になれずにいた。
李氏は作家の司馬遼太郎氏との対談で「台湾人として生まれ(ながら)台湾のために何もできない悲哀があった」と口にしている。李氏の原点を象徴している言葉だ。
78年には蔣経国により台北市長に任命される。84年に副総統に就任。88年1月、蔣元総統の死去に伴い副総統から総統に昇格し、同年7月には国民党主席に選出される。すると、本省人総統への期待を追い風に改革を精力的に進めた。
91年には中国共産党を反乱団体と規定した憲法の臨時条項を廃止した。このことで、長らく続いていた中国との内戦状態に事実上の終了を宣言した。
そして、96年に初の総統直接選挙を実現した。このことは「民主国家」として世界の脚光を集めた。
この時の選挙は、李氏の当選阻止を狙う中国がミサイル発射を含む軍事演習を台湾近海で展開するなど異常とも言える状況下で行われた。李氏は見事に当選し、初の民選総統になった。このことから、台湾では「ミスター民主主義」と呼ばれていた。
99年、「中台は特殊な国と国の関係」だとする「二国論」を提起する。すると、中国は「独立派」と批判した。同時に軍事的威嚇をエスカレートさせたが譲らなかった。
改革は教育面にも及んだ。主に中国本土で起きたことを教えていた歴史の授業を、台湾の歴史を中心に据えたものに変えた。このように台湾の歴史や文化を重視する教育は、若者たちの間に「台湾人意識」を醸成、今では社会の主流に育っている。
17年の共同通信とのインタビューでは、当時を振り返って次のように語った。「総統在任中には、それまで中国教育に染まっていた台湾人の精神改革を進めました。ベースになったのは、私や家内が身をもって学んだリップンチェンシン、『日本精神』です。誠実、勤勉、奉仕、責任などの美徳をまとめて指す言葉として今でも台湾で使われています」
2000年に総統を退任。「22歳まで日本人だった」と公言する親日家で、退任後も9回訪日した。07年には松尾芭蕉の「奥の細道」にゆかりがある場所を巡った。15年には東日本大震災の被災地を訪れている。
ここ数年は自ら進めた民主化が「限界に達している」として、憲法改正を含む「第2次民主改革」を進めるべきだと提言していた。亡くなる直前まで「台湾の主体性を、もっと強化しなければならない」と訴えていた。
李登輝氏が強化した対米関係、蔡英文総統が引き継ぐ
産経新聞 2020年7月31日(金)23時42分配信/田中靖人(前台北支局長)
中国からの統一圧力に直面する台湾にとり、安全保障を依存する米国は最大の後ろ盾だ。台湾の民主化を進めた李登輝元総統は、「自由と民主主義」を旗印に米国との関係強化に取り組んだ。李氏が切り開いた米台関係の道筋は、現在の蔡英文政権にも引き継がれている。
後に「ミスター・デモクラシー(民主化の父)」と称される李氏の政界進出も、米国の存在と無縁ではなかった。1979年の米台断交とそれに伴う米華相互防衛条約の失効は、独裁体制の蒋経国(しょう・けいこく)政権に衝撃を与えた。外憂を抱えた蒋経国は足下の体制安定のため、人口で多数を占める李氏ら「本省人」を政権に登用、李氏の総統就任に道を開いた。
また、米議会などから批判を受け、38年間続いた戒厳令の解除や野党・民主進歩党の結党容認など、民主化の基礎となる自由化を進めた。
蒋経国の死去で総統に昇格した李氏は民主化を進める一方、社会主義の中国と対峙する上で、米国との関係強化に「民主主義」を利用した。95年6月には、対中融和的なクリントン政権を窓口とせず、自由と民主主義という理念への共感を得やすい米議会から支持を取り付け、現職総統として初の訪米を実現した。
初の政権交代を実現した民進党の陳水扁(ちん・すいへん)氏は、2期目に「台湾独立」志向を強めて米国に「トラブルメーカー」とみなされ、国民党の馬英九(ば・えいきゅう)氏に政権奪還を許す一因となった。
馬氏も政権発足当初は「親米・和中」路線が米国に歓迎されたが、対中傾斜を強めて米国との距離感が目立つようになった。特に南シナ海問題で中国と歩調を合わせたことで、欧米から批判を招いた。
現在の民進党の蔡総統は、陳、馬両政権の反省から、中国と距離を保つ一方で、中国を挑発せず低姿勢を取る「優等生」的な対応で、米国の支持を得ている。李氏を彷彿させる「理念の近い民主主義国家との連携」を強調する姿勢は、米議会、トランプ政権の双方から支持されている。
李登輝氏死去、“弔問外交”見据える台湾 コロナが懸念材料
産経新聞 2020年8月1日(土)0時04分配信
台湾の李登輝元総統の死去から一夜明けた31日、台湾の総統府は李氏の葬儀に関する会議を開いた。蔡英文総統は多くの海外要人を招いて、台湾への圧力を高める中国を牽制したい考えとみられるが、新型コロナウイルス流行の中では困難が伴う。一方、中国側は「民主化の父」をめぐる台湾の弔問外交を警戒しているようだ。
葬儀に関する会議には李氏の家族代表や外交部(外務省に相当)、国防部(防衛省)の関係者らが出席した。キリスト教式で行う方針はほぼ固まったが、葬儀に海外の要人を招くか否かについては結論が出なかったもようだ。
台湾当局の関係者によれば、李氏の台湾に対する貢献と国際社会における影響力を考慮し、蔡政権は当局主催の公式な形で葬儀を盛大に執り行いたいとしている。その際、多くの海外要人に参列してもらうことで、台湾の存在感を国際社会にアピールしたい考えもあるという。
中国の圧力で、これまでに台湾を訪問した外国の首脳は少ない。台湾メディアによれば、李氏の前任の総統で1988年に死去した蒋経国の葬儀には、当時のシンガポール首相のリー・クアンユー氏、日本の灘尾弘吉・元衆議院議長ら14カ国の要人のみが参列した。
ただ最近では、香港国家安全維持法の施行により、欧米で中国への警戒が高まる一方、コロナ流行への効果的な対応などで民主主義の台湾が注目もされた。台湾当局が招待すれば欧米や日本から現役の要人が訪れるとの期待もあるという。
一方、コロナの流行が世界で続く中で、各国から多くの要人を招くことに対して慎重な意見もある。5月20日に行われた蔡氏の2期目の就任式では海外の客を招待せず、各国要人からのビデオメッセージを放映する形をとった。李氏の葬儀も同じく各国首脳にビデオ出演してもらう可能性もないとは言い切れない。与党、民主進歩党の関係者は「どんな形でも中国は必ず抗議する。ビデオの方が参加しやすいかもしれない」と話している。
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