【特別読み物】✍実録「これが科学捜査だ(ジャガーバックス)」21世紀版!?
「5年間」捜査中だった事件を「1週間」で解決!? 警視庁初の科学捜査官がもたらした“革命”とは…
文春オンライン 2021年3月25日(木)6時12分配信/服藤 恵三(ノンフィクションライター)
事件内容のデータベース化、防犯ビデオの画像解析、GPSの活用……。今やなくてはならない科学捜査技術も、はじめから警察組織に存在していたわけではない。かつての“画像解析”は、防犯ビデオをブラウン管のモニターに再生し、必要な場面が映ると一時停止。その前にカメラを構えて画面を撮影するというアナログな作業を指していたのだ。
そんな状況を変えたキーマンが、科学捜査官第一号となり、日本の科学捜査の基礎を築いた服藤恵三氏である。ここでは同氏の著書『 警視庁科学捜査官 難事件に科学で挑んだ男の極秘ファイル 』(文藝春秋)を引用。現代の警察捜査にもつながる環境を構築した際のエピソードを紹介する。(全2回/ 前編)
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捜査現場に役立つ機材を
この事件捜査と並行して、捜査支援の資機材開発にも取り掛かった。当時、刑事部長には、「カレー毒物混入事件」のときに和歌山県警本部長だった米田さんが警察庁会計課長を経て栄転していた。米田部長に、目指す組織作りと資機材の開発について説明すると、好きなように進めるようにと言われ、大変心強かった。
亀有警察署刑事課で目の当たりにした現場のニーズから、必要な資機材をピックアップして考えた。そして具体化した一つ目のシステムが、「DB‐Map(Database - Map System)」だ。詳細な住宅地図、データベース、各種解析機能を搭載し、初動捜査から事件の分析を支援する機能を備えている。管内の防犯カメラの位置を示す地図さえなくて驚いたことが頭にあったから、必要と思われる機能を考え付くだけ搭載した。新たに発生した事件内容を、データベースとして追加で登録することも可能だ。
コピー機の前で縮尺に苦労していた若い刑事の姿を思い出し、画面上の範囲を指定すればワンクリックで拡大・縮小が可能で、即座に印刷できるようにした。貼り合わせて掲示するために、のりしろも付けた。
解析機能は、パソコンを使い慣れた者にしかできなかった複雑な手順を初心者でも簡単にし、情報の共有も図れるようにした。さらに高度で専門的な解析が行なえる機能も追加した。DB‐Mapに搭載された地図情報・各種カテゴリーの基本情報と、分割印刷、経路や目標物検索などの初動捜査ツールを活用することで、捜査の迅速化が期待された。
二つ目は、捜査支援用画像解析システム「DAIS(Digital Assisted Investigation System)」だ。
亀有署の刑事たちは、押収してきた防犯ビデオをブラウン管のモニターに再生し、必要な場面が映ると一時停止して、その前にカメラを構えて画面を撮影していた。そのフィルムを暗室で紙焼きに引き延ばすから、画質は非常に粗い。「これが我々の画像解析ですよ」と真剣に言っていた。
警視庁本部の鑑識課や科捜研に画像の検査や鑑定を依頼できるのに、100件のうち1件も持って行かないという。理由を訊くと、亀有から桜田門まで往復3時間もかかるのに加え、結果が出るまで時間がかかる。しかも、こちらから問い合わせるまで、本部は連絡をくれないという。
「俺が本部に戻ったら、署で自由に画像解析できる資機材を開発して配ってやるから、待ってろ」
と、彼らに約束していたのだ。防犯ビデオ等の画像情報を迅速・的確に解析することは、特に初動捜査において欠かせない。簡便かつ短時間で処理できる高性能な画像解析システムを作り、各署に配布する必要があった。
操作は簡単で、画面の指示に従って作業するだけでいい。回収した防犯カメラの映像を取り込むとデジタル化され、毎秒30枚の静止画がたくさん並んだ状態になる。手動でも自動でも動画を再生でき、その中の欲しいカットを指定してボタンを押すだけで切り取れる。ノイズを除去して鮮明化もできる。あとは印刷ボタンを押せば、すべて終了だ。
解析の結果を報告書にまとめる作業が煩雑だったが、これも画像を取り込みながら、気が付けば出来上がっているようにした。どの場面でどのような解析を行なったか自動的に記載されるので、内容に関する証人出廷が発生した場合にも対応できる。
こうして、2つの資機材「DB‐Map」と「DAIS」が完成した。
捜査で得た情報・技術を組織で共有・蓄積するしくみを
そして平成14年9月、「情報・技術・科学を用いた捜査支援について」と題する、捜査支援業務に関する分厚い意見書をまとめた。
殺人などの大きな事件が発生すると、所轄に本部の捜査一課から部隊が入って、特別捜査本部ができる。警察内部では、帳場と呼んでいる。その事件に科学的に捜査する項目があった場合、学術的な解析を行なったり、大学の研究者や医者などの専門家から話を聞くことになる。ところが、得られた情報や新たな技術はその帳場だけで保有され、事件が解決したら終わりだ。科学の分野に長けた人間が個人の財産として保持するだけで、組織として共有したり蓄積する仕組みがなかった。
別の署で類似した事件が発生すれば、一から手探りか、経験のある捜査員に個人的に聞くしかない。そういう現実を誰もがわかっていた。しかし「現状はこうだ」と指摘するだけでは、文句を言うことと違わない。
ではどうしたらいいのかを整理し、必要な資機材のプロトタイプを開発するために、業者と話し合いを進めた。さらに、警視庁の中にどういう業務や係が新たに必要になるか、何人の人員が必要かという部分まで、作り込んでまとめたのが、この報告書だ。構想から1年が経っていた。
米田さんが刑事部長だったことは、本当に幸いだった。意見書を手渡して説明すると、
「これは面白い。重要だからすぐやろう」
と言ってくれた。次の週には刑事総務課から問い合わせがあり、担当者にプレゼンした。それを皮切りに、実務で関連する捜査三課、鑑識課や科捜研、ヒト・モノ・カネで関係する人事、企画、施設、装備、会計、用度など、あらゆる部署へ説明に奔走した。
警視庁で新しい係をひとつ作るだけでも大変だ。内部で根回しを重ね、いろいろな部署を説得し、警視庁の組織として合意ができてから、さらに東京都に説明して予算を取らなければならないからだ。実際に業務をスタートするには人を集めなければいけないから、ほかの部署の人員を剝がしてこなければならない。普通は5年かかると言われたのも、もっともだった。
性犯罪事件を解決
「服藤が、捜査一課から独立した組織を作ろうとしている」という噂は、あっという間に広がった。理解を示し応援してくれる人もいたが、反対する者も当然現れる。
しばらくして、ある管理官から、「服藤さん。あんたに頼むと何でも解決してしまうんだって? そしたら、これやってみてくれないかな」
皮肉交じりで渡されたのは、性犯罪の概要だった。
5年ほど前から杉並区と世田谷区で連続発生していた性犯罪で、捜査本部が設置されてしばらくすると犯行が途絶え、本部が一時閉鎖される。犯罪の再発生と共に、本部が再開される。それが5回も繰り返されていた。
内容を精査し、間違いなく同一犯と思われる犯行をピックアップした。プロファイリングの事件リンク分析である。開発したばかりのDB‐Mapを活用して解析を行なうと、事件が発生する日の現場近くに必ず現れる車があった。そこから、埼玉県在住の男が浮上する。
捜査本部はこの情報に基づいて捜査し、犯人を検挙した。わずか1週間しかかからなかった。私も驚いたが、捜査本部も驚いた。
しばらくして、別の管内で発生していた同種事件の依頼を受ける。こちらも数年にわたって、捜査本部が開設されたり閉鎖されたりしていた。しかし解析を進めてすぐ、葬儀屋に勤める容疑者に行き着いた。
「これからは科学捜査の時代だ。宇宙からの科学捜査をやろう」
この2件で一気に、新たなシステムは捜査員たちの信頼を得た。この後、各本部からさまざまな解析依頼が舞い込むようになる。
平成8年に科学捜査官に転任した直後から、東海大学の情報技術センターへ画像解析を依頼することがよくあった。技術力が高く、科捜研などで鑑定不能の案件も持ち込んで、結果を出してもらっていた。東海大学は人工衛星データの受信施設である宇宙情報センターも所有していて、坂田俊文教授が両方の所長を兼任されていた。
「これからは科学捜査の時代だ。宇宙からの科学捜査をやろう」
と、坂田教授はいろいろなことを親しく教えてくれた。大学を退官された後もお付き合いは続いた。平成14年春にお目にかかったときは、宇宙開発事業団(現・宇宙航空研究開発機構=JAXA)の技術参与と、地球科学技術総合推進機構の理事長に就かれていた。
ご自身のこれまでの活動や研究から、米田刑事部長に参考になるプレゼンをしたいと言われ、1時間ほどの面会をセットした。その席で、坂田先生は突然、
「今度、内閣府からの委託で調査研究委員会を実施するので、ぜひとも服藤さんを委員にしたい。ご許可願いたい」
と申し出られた。何も聞いていなかった私は、面食らった。
米田刑事部長の了解が得られたので、宇宙開発事業団と東海大学が主催した「宇宙システムによる社会安全のための調査研究委員会」の委員として、平成17年まで活動した。坂田先生を委員長として、委員は各省庁・独立行政法人・民間研究所・大学教授や自衛隊OBなど、20名以上の錚々たるメンバーで構成されていた。日本が所有する宇宙インフラを、社会安全のためにどのように活用できるかがテーマだった。
坂田先生は、私を委員に選んだ理由をこう話してくれた。
「警察には、有事のときのホットラインが必要だ。でもたいてい、現場を知らない人が担当になってしまう。服藤さんは現場も科学もわかっている。だから声をかけたんだよ。有事のときは、衛星からの科学捜査を好きなようにやってもらうからね」
通信や放送への活用目的である「成層圏プラットフォーム」の一環で、飛行船を成層圏に6機打ち上げ、カメラを積んで気象や防災等のために日本列島を常時写す。たとえば山中から遺棄された死体が見つかったら、令状を請求して録画の中からその場所へ行った車を見つけ出し、帰り道をたどって犯人の家を割り出す。防犯カメラの映像やGPSを超えた宇宙からの科学捜査が、いずれ可能になるかもしれない。
女性を眠らせて性行為に及ぶ鬼畜…男の有罪を決定づけた“警視庁初”の科学捜査方法とは…
文春オンライン 2021年4月2日(金)17時12分配信/服藤 恵三(ノンフィクションライター)
今や事件の捜査になくてはならない「科学捜査」。その礎は、警視庁で科学捜査官第一号として尽力した服藤恵三氏によって築かれたといっても過言ではない。
ここでは同氏の著書『 警視庁科学捜査官 難事件に科学で挑んだ男の極秘ファイル 』(文藝春秋)を引用。女性たちを眠らせて性行為に及ぶという、鬼畜の所業といって過言ではない行為を行っていた犯人を「科学捜査」で追い込んだ際のエピソードを紹介する。(全2回/ 後編 )
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六本木で働く外国人ホステスの失踪が続く
後に「外国人女性等に対する薬物使用連続暴行事件(*1)」として特別捜査本部が設けられるが、この時点では「イギリス人女性ルーシー・ブラックマンさん失踪事件」として、マスコミが取り上げていた。
*1 薬物を用いて10人の女性(日本人4人と外国人6人)を準強姦し、2人を死亡させたとして、不動産会社社長の織原城二が無期懲役となった。起訴された10件のうち、ルーシーさんの事件だけは準強姦致死罪を認めず、わいせつ目的誘拐・準強姦未遂・死体損壊・死体遺棄を有罪と認定した。
事件の端緒は、7月4日に麻布警察署の生活安全課に出された「家出人捜索願」だ。元ブリティッシュエアウェイズの客室乗務員で、六本木でホステスとして働いていた21歳のルーシーさんは、その2日前から連絡が取れなくなっていた。署長報告の段階で目に止まり、捜査一課経験もある松本房敬署長が、生活安全部長になっていた寺尾さん宛てに「特異家出人」として、所見を求めたことに始まる。
寺尾部長は直感的に事件性を感じ、有働理事官を呼び寄せ、捜査一課で対応するよう話したのだ。
このとき有働さんから聞かされた被害者は、やはり六本木の外国人ホステスだった。意識を失っている間に、客の男から乱暴されたという。その男に、捜索中のルーシーさんとの接点があった。48歳の不動産管理会社社長・織原(おばら)城二だ。
被害者の状況から考えられる薬物や麻酔剤を調べた。飲ませるという行為からは、やはりベンゾジアゼピン系の薬物が有力だったが、麻酔前投与剤なども考えられた。当時はGHB(γ-ヒドロキシ酪酸)など、多くの脱法ドラッグも流行っていた。
遺体の解体やコンクリート詰めを行ったと思われる飛沫
有働理事官からの下命はその後も続き、着手が近づいていると感じた。ルーシーさん以外に、被害にあった女性が複数いることもわかっていた。
「いよいよやるぞ。ハラさん(編集部注:筆者の愛称)の力が必要だ。現場に付いてきてくれ」
10月12日。逮捕と同時に、神奈川県三浦市などに織原が所有していた複数のマンションで、家宅捜索が始まる。私は当初「逗子マリーナ4号棟」へ向かった。そこは明らかに、織原が女性を誘い込む場所と見て取れた。その後、転進要請を受けて「ブルーシー油壺」に移動した。ここの床面には、よく観察しないと見逃してしまうほどのコンクリートの飛沫が円筒形に立っていた。大きさは1mm程度で、全てが同じ方向を向いている。その方向が一致する場所で、コンクリートをこねるなどしたのだろう。遺体の解体やコンクリート詰めを行なった現場と思われた。
大量に見つかる薬物
捜索は十数カ所に及んだ。それらの場所から、予想していたベンゾジアゼピン系の薬物はもちろん、バルビツール酸系睡眠薬、ブロムワレリル尿素系催眠剤、エーテルのほか、危険性のある抱水クロラールやクロロホルム、GHBなどの脱法ドラッグなどが、箱単位で見つかった。その量は想像を絶するもので、まるで薬問屋のようだった。
女性たちを眠らせてからさまざまな性行為に及ぶ犯行の状況を克明に記録した、5000本に達するビデオテープも押収された。それ以外にメモや録音など、証拠品は多種多様を極めた。
映像から薬物を特定する
有働理事官から、「相談したいことがある」と再び呼ばれた。
「押収したビデオなぁ、被害者が全部映ってるだろう。あれから、使ってる薬物わからないかなぁ」
「えっ。映像からですか」
これには戸惑った。映像の内容から使用薬物を特定したという話など、聞いたこともない。そもそも、公判に耐えられる証拠になるのか。使用薬物の特定は、その代謝物や胃の内容物を調べて行なうのが普通だが、犯行直後でなければ使用された薬物は代謝されてしまう。証明が不可能なのだ。
少しでも可能性があればやってみるし、頼られたら引き受けて全力を尽くすのが私の生き方だ。よく考えてみると、そういう観点から映像を見たことがなかったので、何かわかるかもしれないと思った。
「検討してみます」
捜査本部から大量のビデオテープが持ち込まれ、一部の解析を始めていたところだった。映像は、意識が薄れていく女性の様子をハンディカメラで収めた場面から始まる。次第に女性のろれつが回らなくなり、意識がなくなると、場面はベッドで横たわる女性を映し出す固定カメラに切り替わる。そこに、仮面やマスクなどを被った男が登場し、執拗な性行為が繰り広げられていった。
その中で、被害者の女性の皮膚が発赤している場面を発見した。映像を巻き戻して調べると、最初の場面では発赤が認められない。精査すると、照明ライトが倒れて被害者に当たったあと、その部分に発赤が生じていることが見て取れた。
被害者が強制的に意識を失わされていることは明白
「これ、火傷じゃないかな。準強姦だと3年以上の有期刑だけど、準強姦に傷害が付けば、最高刑は無期懲役だ」
この日からしばらくは、モニターとにらめっこになった。辛い光景の連続だった。おぞましい映像を見ていると、心苦しささえ感じてしまう。被害者が強制的に意識を失わされていることは、明白だった。
まず疑問に感じたのは、被害者の顔に常にタオルが掛けてあることだ。しかし、映像を進めるとすぐ解けた。行為の途中で、被害者が首を振るなど覚醒の予兆を見せると、織原はベッド脇のテーブルから褐色の薬品瓶を手に取り、中の液体をタオルにかけて、再び被害者の顔に被せるのだ。
すると被害者が意識のない状態に戻ることから、液体は麻酔系のものと推定できた。エーテルかクロロホルムと考えたが、エーテルは揮発性が高くて自ら吸い込んでしまう危険性や爆発のリスクがあるため、クロロホルムだと思われた。
褐色の薬品瓶は、一見して薬品と判るラベルが付いているものと、ラベルが剥がされたものなど、いくつかの種類が映っていた。ラベルが付いている瓶は、その部分の静止画を切り取って各種画像解析を試みた。しかし文字までは読み取れなかった。撮影したカメラの解像度が低く、文字も小さく、当時の技術ではどうしようもなかった。
「このラベルを剥がした跡……」
ラベルが剝がされた瓶については「これは無理だな」と思っていたが、ぼんやり見つめているうち、あることに気が付いた。「このラベルを剥がした跡……」剥がしたあとの糊の跡がラベルの紙と一緒に固まって、筋状に残っている。「この糊の付き方は、世界にひとつしかない。これ、指紋と同じじゃないのか」
この薬品瓶が証拠品として押収されていれば、内容物の鑑定に持ち込まれているかもしれない。特捜本部に問い合わせると科捜研で鑑定中だとわかったので、すぐに向かった。鑑定はすでに終了し、内容物は99%クロロホルムだと判明していた。この瓶の返却を受け、科学捜査官室に戻って画像解析に取りかかる。
捜査で初めて活用された3D画像
この頃の科学捜査官室は、画像分野を中心として分析資機材やソフトなども充実途上にあり、各種解析手法も開発し始めていた。大学や部外の研究室との連携も取りながら技術を習得し、作業していた。
ラベルが剥がされた褐色の薬品瓶の画像をいろいろな角度から撮影し、静止画として取り込んでから360度の立体映像にする。それを回転させながら、押収したビデオテープの映像から切り取った静止画と、重ね合わせていく。ピッタリ重なった。「これだ!」手元にある瓶と、画像に映っている瓶の、ラベルを剥がした跡が一致したのだ。3D画像の活用は、これが初めてだった。
しかし公判対策を考えると、科捜研の鑑定書が必要だと考えた。早速、特捜本部に手続きを取ってもらった。最初は「やったことがない」と渋っていた研究員も、最終的には結果を出してくれた。いまなら、3Dの立体画像で処理すれば簡単に済んでしまう作業だ。
織原がタオルにかけていた瓶の中身は、やはりクロロホルムだった。
類似する事件でもクロロホルムの使用が疑われた
「カリタの件なんだけど、どうやら劇症肝炎で死んだらしいんだよ。どう思う?」
また私を呼び出した有働理事官は、そう切り出した。
オーストラリア人のカリタ・シモン・リジウェイさんという21歳の女性が、8年前に亡くなっていた。織原の別荘から病院へ運ばれ、劇症肝炎から肝性脳症を併発して、数日後に死亡していたのだ。
警察も検察も、この死亡と織原の行為との因果関係が見えずに困っていた。その後のルーシー事件捜査を見据えてのことだと感じた。
「クロロホルムには、急性・慢性を含めて肝臓毒性がありますよ」
「本当かぁ!」
有働理事官は椅子から飛び上がった。
「クロロホルムの肝臓毒性は有名です。以前は麻酔薬として使用されていたんですが、肝臓毒性が発見されてから、使われなくなっているはずです。劇症化するかどうかは調べてみますが、たぶん間違いないと思います」
「いける。これで逮捕状が取れる。ハラさん、ありがとう」
いきなり私の手を両手で強く握ってきた有働理事官は、涙目になっていた。
特捜本部事件の終結
平成13年2月9日、ルーシーさんの遺体が発見される。織原のマンションから近い海岸の洞窟に、切断された状態で埋められていた。
その後もさまざまな質問や関連文献の調べに追われ、意見書は合計5通作成し、証人として公判に出廷した。織原の弁護士からの最初の質問は、「肝炎はA型からD型が知られていますが、実はE型というのがあるんです。証人はご存じですか」
だった。私は、こう答えた。
「はい。知っています。それ以外にも、F型、G型、TTV型などが存在します」
「えっ。そうなの」
と慌てた様子が見えたので、「この弁護士は、私の意見書をあまり理解していないかもしれない」と直感した。
重ねて、
「証人は、クロロホルムを用いた研究などしたことがありますか」
と尋ねられた。私の専門である薬毒物の最新研究では使わないはずだと考えた、よい質問だと思った。すなわち「あなたはクロロホルムの毒性を論じているが、自分で毒性の実験をやった経験はないんでしょ?」という意味で、裁判官に対して、専門家としての資質の心証を下げることが目的だ。
「はい。毒性などはすでに確立した分野ですので、毒性の研究目的に使用したことはありませんが、動物実験でマウスなどを使用したときの安楽死のために、クロロホルムを使用していました」
と答えた。証人出廷では落ち着いて質問を聴きながら、どんな回答がいいか考え、瞬時にまとめなければならない。このときは別の答え方も頭をよぎったが、こちらのほうがクロロホルムの毒性を強調できると思った。
弁護士は「しまった」という顔をして、次の質問に移った。
特捜本部事件が終結し、起訴祝いで打ち上げ会が催された。嬉しかったのは、新妻管理官が横に来て、顔を寄せながら言ってくれた一言だった。
「あんたは、ほんもんだ」
平成22年12月8日、織原に無期懲役が確定した。
史上最悪の獣害「三毛別羆事件」現場復元地を訪ねると…
文春オンライン 2021年4月2日(金)6時12分配信
ヒグマによる人身被害は、春と秋に特に多く発生している。これは、山菜やキノコを採りに来る人間と、冬眠前後に餌を求めて活動するヒグマが、山野で遭遇する確率が高まるためと考えられている。
大正4年の11月下旬……。北海道苫前郡苫前村三毛別にある家々では、軒下に吊るされていたトウキビがヒグマに荒らされる被害にあっていた。当時、クマの出没は珍しいことではなかったため、住民たちはあまり気に留めないでいたという。
窓から屋内に侵入してくるヒグマ
12月9日午前11時半ごろ、開拓者である太田家には当主の妻と、養子として預かっていた子供がいた。そこに、冬眠をしそこなった1頭のヒグマが、窓を破って屋内に侵入し、2人を殺害した。
12月10日夜、2人の通夜を太田宅で行っていると、大きな物音とともにヒグマが乱入。狂乱の中、ひとりが銃を放つとヒグマは逃げていった。
しかし、ヒグマがそのまま山中へ帰ることはなかった。その足で太田宅から500m離れた明景宅を襲ったのだ。ここには大人3人と、子供7人が避難していた。激しい物音と地響きがすると、ヒグマが窓を打ち破り、いろりを飛び越えなだれこんできた。大鍋はひっくり返りランプは消え、たき火は蹴散らされ、逃げまどう人々に次々と襲いかかる……。結果的にこの襲撃で5人が殺害され、3人が重傷を負った。
事件発生後6日目、討伐に加わっていた猟師によってヒグマは射殺された。重さ340kg、体長2.7m、立ち上がった高さは3.5m、推定7~8歳のオスだった。死骸をソリに乗せて運んでいると、それまで晴天だった空が一転して大暴風雪となった。この天候の急変は「羆嵐(くまあらし)」と名付けられ、いまも当地で語り継がれている。
史上最悪の獣害の現場へ
時は変わって2019年夏、私は北海道を旅していた。夕張、赤平などの炭鉱跡がある空知地方と、旭川、美瑛などの観光スポットが多い上川地方を回る予定だ。時間に余裕をもたせ、その日の天気と気分次第で行く場所を当日まで迷っていた。
旭川周辺のスポットを調べていると、苫前町の資料館に、三毛別羆事件の詳しい解説があるらしい。しかも中には、私の好きな剥製やマネキンもあるようだ。
ちょっと行ってみようか。
ちょっととはいえ、旭川から苫前町まで120kmはあるのだが。
どこまでも広がる大地、まっすぐに続く道路、この開放的な景色と爽やかな空気は、何度訪れても感動する。
留萌まで来ると国道232号線、オロロンラインに入る。オロロンラインは小樽から稚内まで日本海の海岸線に沿って走る国道である。壮大な水平線に沈む夕日や、海岸に連なる岬、延々と続く草原地帯など、絶景を眺望できるドライブコースとして有名だ。
ヒグマだらけの町
苫前町に入ると苫前町役場の前に大きなヒグマのオブジェが、訪れる者を歓迎していた。交通安全を訴える旗にもヒグマが描かれており、ヒグマがかなり身近な存在だと思わせる。
苫前町郷土資料館は、昭和3年に建てられた旧村役場を利用した、雰囲気のある建物だ。入り口ではここでも、ヒグマが案内してくれている。
館内に入ると今度は、巨大なヒグマの剥製が出迎えてくれた。館内の展示は、苫前のくらしにまつわるもの、ヒグマの習性と生活、そして三毛別羆事件に関する解説に大きく分けられている。展示の周りには、ヒグマや野生生物の剥製が並び、雰囲気を盛り上げていた。
特に注目したいのはやはり、三毛別羆事件のことだ。ここでは実際に襲撃が起こった現地の写真と地図を使って、時系列や距離感、ヒグマの足取りや位置関係など、どこでなにが起こったのかが、より鮮明に詳しく解説されていた。
大正4年12月9日、ここからおよそ20km山奥へ入った三毛別六線沢に、体長2.7mの巨大なヒグマが出現。冬眠をし損ね空腹だったヒグマは数度に渡り人家を襲い、7名が死亡、3名が重傷を負った。
その中のひとりは、ヒグマに襲われたまま連れ去られ、150m離れた林の中で片足の膝下と、頭の一部が見つかった。また別のひとりは、上半身から食われ始めると、臨月の腹を破られ胎児が引きずり出されたことなど、被害の状況とともに実際に起こった地獄絵図の様子も事細かに記録され、背筋が凍った。
館内に作られた人家の中では、窓から侵入するヒグマと、それに驚く人間の様子を再現。こうして剥製とマネキンを使って解説されていると、より立体的に恐ろしさが伝わってくる。
事件を後世に残すための「三毛別羆事件復元地」
館内を回っていると、目を引くチラシが。1990年7月、不屈の開拓精神と先人の偉業を後世に伝えようと、六線沢の現場付近に周辺住民らの強い熱意によって、「三毛別羆事件復元地」が作られたようだ。
どんなところだろう?と怖いもの見たさの好奇心に駆られ、一路、現地へ向かうことにした。詳しい住所が記されておらず、受付の方に場所を聞く。
「国道の来た道を戻って、橋を渡ったら信号を左、次の信号を右、あとはその道をまっすぐ行けば着きますよ。」
なんて簡単な説明、本当に着くのだろうか。
だいたいの位置をナビに入れて出発。たしかにナビは、橋を渡った信号を左、次の信号を右に案内した。
途中、何度も大きな看板に「ベアーロード 復元地まであと○km」と書かれ、疑念が確信に変わる。
北海道らしい牧歌的な風景を眺めながら、爽快な直線道路をひた走る。前にも後ろにも、対向車線にも車がいない。窓を全開にし、思わずアクセルを踏み込みたくなる。
復元地までの道を示すベアーロードは、迷う隙を与えない一本道なのだが、走っても走ってもなかなかたどり着かず、変わらない景色に時折不安になる。しかしそんな頃、たびたび道路脇の倉庫や建物の壁に、ベアーロードと書かれたかわいいクマのイラストを見つけてはホッとする。その繰り返しだ。
急に表情が変わるクマのイラスト
しかし復元地まで残り10kmほどになったころ、あれだけかわいかったクマのイラストが急に恐ろしくなった。
しかも、正確に道を案内してきたカーナビが、ここに来て突然迷走し始めたのだ。
なんだこれ、怖い。帰りたくなってきた。しかしここまで来たらいまさら引き返すわけにもいかない。
ベアーロードのクマと終わらない道路だけを信じて走ると、残り5km地点に「射止橋」という、ヒグマ射殺の際に最初の被弾地点であった場所を記念して名付けられた橋を通過。いよいよ現地が近くなってきたことを実感し、不安と緊張でハンドルを握る手に力が入る。
ついに復元地まで200m。すると今までキレイに舗装されていた道路が砂利道になり、あたりは鬱蒼とした森へと変化。看板のクマも凶暴化し、牙をむいている。
バタン。
「この付近でヒグマの目撃情報が寄せられております」
車から降りると聞こえてくるのは、鳥のさえずりと草木を揺らす風の音のみ。空は木々に覆われ、昼間だというのに薄暗く、なんとなく気味が悪い。目の前に広がる大自然に圧倒され、畏怖の念を感じた。
ふと、注意喚起の看板が目に入った。
「この付近でヒグマの目撃情報が寄せられております。見学される方は、十分注意されるようお願いします。」
復元しているのは家だけじゃなく、ヒグマまでもリアルに現れるのか。
緊張が走る。
携帯は圏外。
私以外誰もいない。
なにかがあっても助からない。
入り口には、三毛別羆事件についての解説が書かれていた。ヒグマが描かれている横には、明景宅の間取りと被害者の位置関係とともに、ヒグマの足取りが示されている。
解説を読む。
「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」
臨月の婦人は「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と絶叫し続けついに意識を失ったのです。
郷土資料館よりさらに細かい描写やリアルな声が追記されていた。
一刻も早くこの場を立ち去りたい。
復元地には手描きされた案内図もあった。石碑や復元された小屋のほか、クマのひっかき傷、クマの穴、クマの足跡まであるようだ。
まずはメインである、明景宅をモデルに復元された小屋を見る。実際の事件現場はここよりさらに100mほど山の中へ入った場所にあるそうだ。
小屋の横には、ものすごい迫力で襲いかかっている巨大なヒグマの像が作られている。実物大だそうだ。想像を遥かに超える大きさに息を呑んだ。こんなヒグマに襲われたら、人間になすすべは無い。いくら像とはいえ、誰もいない自然の中にいると、身震いするほど怖くなる。
小屋の中に入ると、随分簡素な作りに驚く。ここで極寒の冬を耐え忍ぶのか…… ここでヒグマに遭遇したら…… 現地で実際に体感することで、想像が膨らみ、開拓者たちの苦労が偲ばれ、自然と生物への恐怖をより生々しく実感する。
事件の概要を記すパネルや記念スタンプなどが置かれ、落ち着いてじっくり見たいのだが、あたりには蚊やハチも多く、なによりなんらかの生物に遭遇しそうで、気が気でない。
続いて、小屋の周りにあるとされるクマの穴やひっかき傷、足跡を見て回る。とはいえ、クマの穴もひっかき傷も観光客向けに人工的に作られたもので、足跡に至っては落ち葉に埋もれて見つけられず、ゆるい雰囲気に心が和む。
ひと通り見終えると、逃げるように帰路についた。
クマの祟り
三毛別羆事件には後日談がある。
ヒグマは射殺後、解体され村の人々によって煮て食われた。
参加したうちのひとり、鍛冶屋の息子は、その夜から家人に噛み付くなどの乱暴が始まり、その凶暴性は日に日に増していった。彼を寺に連れて行くと、クマの祟りであると告げられた。近親縁者が集まり、一心に祈りを捧げたところ、症状は治まったという。
また別の話も語り継がれている。
三毛別羆事件の際に、自宅が事件対策本部となっていたことから、この事件の一部始終を見聞きしていた少年がいた。
少年は犠牲者のかたきをとるため、のちに猟師となり、生涯にヒグマを100頭以上仕留め、北海道内の獣害防止に大きく貢献した。
1985年12月9日、三毛別羆事件の70回忌の法要が行われた。
その猟師は小学校の講演の壇上に立ち、「えー、みなさん……」と話し始めると同時に倒れ、同日に死去した。酒もたばこもやらず、健康そのもののはずであった。事件の仇討ちとしてヒグマを狩り続けた末、事件同日に急死したことに、周囲の人々はヒグマの因縁を感じずにはいられなかったという。
人間と動物が共生するために
北海道の先住民族、アイヌの人々は古くから、自然界のさまざまなものにカムイ(神)の存在を見出し、ヒグマをキムンカムイ(山の神)と呼び、大切にしてきた。我々には計り知れない力があるのかもしれない。
クマの被害に馴染みのない人にとっては、三毛別羆事件の話を聞いてもなかなか実感がわかないだろう。
しかしこの話は紛れもない実話だ。
事件のヒグマは例外だとしても、ほんの少し、山菜採りに入った登山道で、国道沿いの藪の中で、あるいは市街地でクマに遭遇する可能性はある。
大切なのは、無用な接触を事前に避ける努力をすることと、生態を正しく理解することだ。感謝や尊敬の念を抱きながら、よりよい形で共生していかなければならない。
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