イイ話

2021年1月25日 (月)

【特別読み物】MMA“レジェンド”「完敗」後、勝者を称える振る舞い

 マクレガーお前見事だ勝者称える姿米称賛一流振る舞い 

THE ANSWER 2021年1月25日(月)12時03分配信

帰路につく前にポイエーと握手しまた戦おうと呼びかけ

 米最大の総合格闘技「UFC」のコナー・マクレガー(アイルランド)は23日(日本時間24日)、UAEで行われた「UFC257」ライト級マッチ(5回×5分)で元同級暫定王者ダスティン・ポイエー(米国)に2回2分32秒TKO負けした。ふくらはぎを蹴る「カーフキック」を多数被弾し、足を止められて敗北。松葉杖姿で帰路についていた。屈辱的ともいえる敗戦を喫したマクレガーだが、舞台裏ではポイエーとたたえ合う姿が「一流の振る舞い」だと話題を呼んでいる。米メディアが報じている。

 引退を撤回しての1年ぶりの復帰戦でまさかの結末を迎えたマクレガーだったが、試合後は実に紳士だった。カーフキックで受けたダメージは大きく、松葉杖を付き会場を離れようとするマクレガーだったが、ポイエーの前で足を止めて2人は再び対峙。そしてマクレガーは握手を求め、健闘をたたえ合った。

 米紙「USAトゥデー」のスポーツ専門サイト「フォー・ザ・ウィン」はこの舞台裏でのやり取りに注目。「試合後のコナー・マクレガーとダスティン・ポイエーの舞台裏での一流の振舞いがシェアされる」として、一部始終をレポートしている。

 記事では「がっかりする敗北をしたにも関わらず、マクレガーはポイエーにリスペクトを見せた。舞台裏でのマクレガーとポイエーが健闘を称え合っている映像がある。映像から、マクレガーがポイエーに賛辞の言葉を贈っていることが分かる」と記し、2人がやり取りする動画を公開。そこでマクレガーは素直にポイエーを称えている。

 マクレガーは「お前は俺の足を壊したよ。素晴らしかった。見事だよ」「兄弟よ、お前とオクタゴンで戦えたことを誇りに思っている」と拍手を送り、「また戦おう」と再戦を呼びかけている。

 破天荒な言動、挑発的な発言でも話題を呼ぶことが多いマクレガーだったが、完敗を受け止めた大人な姿が注目を浴びていた。

完敗マクレガーをメイウェザー酷評自分の競技でも勝てないのか

THE ANSWER 2021年1月25日(月)9時31分配信

マクレガーと2017年に対戦したメイウェザー自分の競技でも勝てなくなっている

 米最大の総合格闘技「UFC」のコナー・マクレガー(アイルランド)は23日(日本時間24日)、UAEで行われた「UFC257」ライト級マッチ(5回×5分)で元同級暫定王者ダスティン・ポイエー(米国)に2回2分32秒TKO負けした。昨年3度目の引退を表明しながら撤回し、1年ぶりの復帰戦。2014年9月に下した相手に再戦で敗れた。かつてマクレガーと拳を交えたボクシングの元5階級王者フロイド・メイウェザー(米国)は自身のインスタグラムを更新し、酷評している。

 マクレガーは初回から優位に進めながらも、相手が執拗に繰り出したカーフキックでダメージを蓄積。足を止められると、左右の連打を浴びて敗れた。試合後は松葉杖をつき、右足を引きずりながら帰路へ。痛々しい姿で会場を後にした。

 下馬評は有利だったが、まさかのTKO負け。この結果を受けて、メイウェザーは痛烈なメッセージを送っている。

 ボクシングYouTube「RingIQ TV」インスタグラムアカウントが投稿した「なぜフロイド・メイウェザーの立ち振る舞いは嫌われているのに、同じような立ち振る舞いをしているコナー・マクレガーは愛されているのですか?あなたの考えを聞いてみよう」という文面を引用しながら、メイウェザーは「コナーは自分の競技でも勝てなくなっているそれなのに、パッキャオとボクシングで戦うことを交渉している誰もそんなことを見たくない残り物が残り物を食べているようだ」などとバッサリと斬り捨てている。

 マクレガーは戦前から6階級王者マニー・パッキャオ(フィリピン)戦が取り沙汰されるなどしていたが、メイウェザーは厳しく分析していた。

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 敗戦マクレガー四面楚歌”、対戦要求のユーチューバーまでが酷評 

eFight 2021年1月25日(月)16時49分配信

 1月24日(日・日本時間)に開催された『UFC 257』のメインイベントのライト級ワンマッチで元UFC世界ライト級暫定王者ダスティン・ポイエー(31=米国)に2R TKO負けした元UFC二階級同時王者コナー・マクレガー(32=アイルランド)に対し、“ライバル”達から厳しい声が上がっている。

 約6年前の前戦でマクレガーが僅か74秒のKO勝利を飾ったこともあり、今回の2度目の対戦も同じような結果になるのではと大方の予想だったが、実際はマクレガーがポイエーにカーフキックを効かされパンチの連打で仕留められるという“番狂わせ”な結末で大きな衝撃が走った。

 この敗戦を受けて、マクレガーにボクシングマッチで対戦要求をしていた世界的人気のYouTuberジェイク・ポールがすぐさま反応。24日に自身のSNSでオマエなんて1万ドル約100万円レベルだでもキャッシュ払いだぞ!と、嘲笑しながらこき下ろした。

 ポールは昨年、マクレガーに対し5000万ドル(約52億円)のファイトマネーのオファーを出すなど桁違いの対戦要求をしていたが、今回は“死者に鞭を打つ”ような挑発スタイルでアピールしている。

 また、この試合の結果次第で現役復帰する可能性を匂わせていたUFC世界ライト級王者のハビブ・ヌルマゴメドフはマクレガーの試合直後に自業自得の結果だチームを変え、オマエを王者にしたスパーリングパートナーから離れ、若手連中とスパーをやっていたからだ“現実”から遠く離れていたのさと、対象の名前を出さないものの明らかにマクレガーに向けてのメッセージと思われる内容を自身のSNSに投稿した。

 さらに、17年8月のボクシングマッチでマクレガーにTKO勝利したフロイド・メイウェザー・ジュニアは、年内実現の噂が上がっているボクシングマッチの「マクレガーvs.マニー・パッキャオ」戦を引き合いに出し、コナーは自身の競技ですら勝つことができないにも関わらず、ボクシングでパッキャオと戦うことを口にしている。そんな試合、誰も観たがらないさと、24日に自身のSNSで厳しい言葉を並べた。

 試合後の会見で「悲痛な思いだ」と敗戦を振り返ったマクレガー。これまで“唯我独尊”のスタイルで世界の格闘技界のアイコン的存在にまで昇りつめたが、ここからの“巻き返し”が見れるのか、注目が集まる。

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 UFC人気スターカーフキックTKO負…再起戦プランは?

THE PAGE 2021年1月25日(月)6時26分配信

 総合格闘技の「UFC257」が23日(日本時間24日)、アラブ首長国連邦・アブダビのヤス島に特設された「UFCファイトアイランド」で約2000人の観客の前で行われ、メインのライト級5分5ラウンドでは、元2階級制覇王者のコナー・マクレガー(32、アイルランド)が元UFCライト級暫定王者で同級2位のダスティン・ポワリエ(32、米国)に2ラウンド2分32秒にTKO負けするという番狂わせが起きた。

 マクレガーはポワリエが繰り出すカーフキックで右足を破壊され左右のKOパンチを浴びてオクタゴンに沈んだ。ポワリエはRIZINバンタム級王者の堀口恭司(30)と同門のアメリカントップチーム(ATT)所属。堀口が大晦日に朝倉海(27、トライフォース赤坂)を倒したチーム直伝のカーフキックが勝負を決めた。

 マクレガーは試合後「カムバックしたい」と宣言したが、どんな再起プランが練られるのか。両者の総合での通算成績はマクレガーが22勝5敗、ポワリエが27勝6敗1無効試合となった。

衝撃的結末に会場は騒然

 マクレガーの右足のふくらはぎが赤く変色し始めていた。

 2ラウンドの2分を過ぎると、突然、マクレガーの動きが失速した。1ラウンドまでは圧倒していたパンチのスピードもパワーも消えて空振りが目立ち始めた。執拗に蹴られ続けたカーフキックが効いていたのだ。

 ステップインができなくなったせいか、マクレガーは距離をつめて起死回生の左フックを狙う。だが、パンチは空を切り、逆にそのタイミングで同時に至近距離からカーフキックを蹴られた。2ラウンドに入って9発目となるカーフキックがカウンターの役目を果たしたのか。マクレガーはガクっと膝を曲げてバランスを崩した。

 現ライト級王者のハビブ・ヌルマゴメドフ(ロシア)や、元ライト級王者のエディ・アルバレス(米国)、元フェザー級王者のマックス・ホロウェイ(米国)ら、数多くの強豪との試合をこなしてきたポワリエは、その隙を見逃さなかった。

「今日はテクニカルな試合をしようと考えていた。ショットに頼らずに相手をしっかりと見ることを頭に入れていた。ボクシングもキックボクシングもスキルとしてできるがやみくもに打つのはダメだと考えていた。彼のカウンターに気をつけなければならなかったからね」

 ここまでディフェンスに徹して、あえて殴り合いに応じることを控えていたポワリエは、体を入れ替え、マクレガーに金網を背負わせ、一気にパンチの猛ラッシュに出る。

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 防戦一方となったマクレガーは強烈な左フックを浴びて反応が鈍くなると、そこに追撃の右フックを打たれ腰から崩れ落ちた。そこにトドメの右のパウンドを一発。レフェリーが試合を止め、マクレガーは右手で頭を抱え大の字になった。

 まさかの衝撃的結末に場内は騒然。マクレガーにとってキャリア5敗目となるが、過去は、すべてグラップリングによる1本負けで、オクタゴンにのされるTKO負けは初めてである。セコンドの肩を借りてコーナーの椅子に座ったマクレガーは、カーフを蹴られた右足のダメージが酷くてしばらく立ち上がることができなかった。

 両手を突き上げてオクタゴンを一周したポワリエは、「ハッピーだが、サプライズではない。満足はしている。コナーは、プロ中のプロ。試合を受けてくれたことに感謝しているしリスペクトしている。だが、今日はオレのいいパンチが当たった。なんでもタイミングが大事なんだ。今日はオレの勝利だった」と、淡々と試合を振り返った。

 UFCのライト級では王者のヌルマゴメドフが引退を宣言しているためランキング2位のポワリエと4位のマクレガーのこの試合が事実上のライト級頂上決戦と言われていた。それゆえ、ポワリエも「これがタイトルマッチと言ってもおかしくないだろう。オレがチャンピオンだ」と吠えた。

 互いに健闘を称え合った後にマグレガーもオクタゴン内でインタビューに応じた。

「長く試合から離れていたからね。この結果は仕方がない。足に(カーフが)効いてしまった。スタンドで動ききれなくなった」

 やはりカーフキックが勝敗を分けたのだ。

 ポワリエのセコンドにはATTの“名参謀”マイク・ブラウン氏の姿があった。堀口が大晦日の「RIZIN.26」で朝倉海にリベンジを果たした際にも来日し、「カーフキックから崩す」という戦略を授けた名トレーナーである。

 堀口が朝倉の足を破壊したカーフキックは、通常のローキックとは違い、膝下のふくらはぎをピンポイントで狙ってダメージを与える特殊なキック

 この数年で、MMAの世界でトレンドになっている武器だが、マイク・ブラウン・トレーナーは、「カーフを総合で最初に使い始めたのはATTなんだ。うちがカーフの発祥の地だ」と自負していた。

 堀口もカーフの効用を「一度ダメージを与えると、それがラウンド中に回復しないのがカーフの特長」と説明していた。

 試合後の会見に松葉杖をついて現れたマクレガーは「防ぐ動きはしたが、私の足は完全に死んでいた。筋肉が破壊されてしまった。まるでアメリカンフットボールの試合後のようにだ。だから焦って勝負に出たんだ」とも語った。ATT直伝の“堀口カーフ”が大番狂わせを起こしたのである。

 ポワリエも、堀口同様、リベンジ戦だった。両者は2014年9月に「UFC178」でフェザー級で対戦していて、その時はマクレガーが左フックを炸裂させ、わずか1ラウンド1分46秒でTKO勝利を収めていた。

 今回は階級を上げて6年4か月ぶりの再戦になったが、戦略家のマイク・ブラウン氏が、カーフでダメージを与えながらの待機戦法を授けたのだろう。ポワリエは、1ラウンドには、片足タックルからテイクダウンを奪い、ケージ際で組み合い、マクレガーが得意とする打撃戦の時間を作らせなかった。

 一方のマクレガーは、パンチを見切り左ストレートからトリッキーな右アッパーを何発もヒットさせるなど1ラウンドは優位に運んでいたが、そこで仕留めきれなかったことが響いた。

「ポワリエは堅実でいいディフェンスをしていた。私がパンチで攻めたときも彼はよく守った」とマクレガー。カーフキックを腕でキャッチして反撃に転じるシーンもあったが対策は不十分だった。

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 マクレガーにとって昨年1月のドナルド・セラーニ(37、米国)戦で衝撃的な1ラウンド40秒TKO勝利を飾って以来1年ぶりの復帰戦だった。同6月にはSNSで通算3度目の引退表明をしていた。それだけに初のTKO負けのショックから4度目の引退宣言が口をつく可能性もあった。だが、ハッキリと再起を宣言した。

「またカムバックしたい。自分はアクティブでいたいんだ。ビジネスを続けるためには動きを止めてはダメだと思う。すぐにもやりたい。また立て直していく」

 そうなると気になるのは再起路線だ。

 ESPNや、米のMMA専門メディア、英サン紙なども、次に誰と対戦するかの予想記事を掲載している。マクレガーはUFCとの契約が4試合残っており、試合前には「1年半で7試合したい」とも語っていた。

 当初、ビッグマネーが期待されるプロボクシングの6階級制覇王者で現WBA世界ウェルター級スーパー王者のマニー・パッキャオ(42、フィリピン)とのボクシングルールによる異色マッチの話が水面下で具体化しているとも報じられていた。しかし、マクレガーが負けてその気運は一気に萎んでしまった。

 再起戦はオクタゴンでの試合になるだろう。

 ポワリエは、試合後、「マクレガーとの再戦に興味がある」と、再戦を受ける考えを明らかにした。だが、この試合を放映したESPNが、今後の見通しを伝える記事の中でリストアップした候補は、そのリベンジマッチではなく、過去1勝1敗のネイト・ディアス(35、米)との3度目対決、引退を宣言したままの現ライト級王者、ヌルマゴメドフとの再戦、UFC8連勝中のチャールズ・オリベイラ(31、ブラジル)、ライト級1位のジャスティン・ゲイジー(32、米)、同5位のトニー・ファーガソン(36、米)の5人の名前だ。

 UFCのダナ・ホワイト社長は試合後に「ディアスとの3試合目がマクレガーに空いている。3試合目はいつでもある」と語り、またマクレガーが、2018年に敗れ、ずっと再戦が噂されていたヌルマゴメドフもツイート。

おまえがチームを変更するから、こういうことが起きるんだおまえをチャンピオンにしたスパーリングパートナーから離れて、現実から離れたガキらとスパーリングしているからだと挑発的なコメントを出した。

 この発言にマクレガーは、試合後の会見で、すぐさま反応。

「彼は何がしたいんだ。復帰したいのか。失礼なコメントだな。復帰したいのなら再び戦おう。だからオレはここ(UFC)にいるんだ」

 ただヌルマゴメドフはまだ引退を撤回していない。マクレガーが勝っていれば、彼を再びオクタゴンに引っ張り出す可能性も高まっていただろうが、こうなっては現実的ではない。

 セミファイナルで、左フックからのパウンドの嵐で、ライト級6位のダン・フッカー(30、ニュージーランド)を2分30秒でTKOで下して鮮烈のUFCデビューを飾った元Bellator ライト級王者のマイケル・チャンドラー(34、米国)、オリベイラ、ポワリエの3つ巴で、ライト級の暫定王座、あるいは、王座を空位とすれば正規王座を争う可能性が高い。

 マクレガーの復帰戦も、この戦いの行方を見ながらになるだろう。

 5000万ドル(約52億円)のファイトマネーを提示してマクレガーに異色対決を呼びかけていたYouTuberのジェイク・ポールは、「おまえの価値は、もう10000ドル(約104万円)だ」と、痛烈にディスった。

 だが、ESPNは、番狂わせの敗戦でもマクレガーの市場価値が急落したとはとらえておらず「彼はダンスパートナーに困らない」と記している。

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 習主席そっくりさんというだけでプロフィール写真不許可とされる中国の特殊事情 

Yahoo!コラム 2020年5月18日(月)16時30分配信

 欧州在住の中国人オペラ歌手、劉克清氏の動画チャンネルがブロックされた問題で、劉克清氏が香港メディアの取材に対し「チャンネルの問題は解決された」と明らかにした。習近平・中国国家主席をほうふつさせるプロフィール写真を別のものに差し替えた結果、問題なしと判断されたという。中国で習主席の一強体制が続くなか、当局がそのイメージ管理に神経を尖らせている様子がうかがえる。

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その写真、使うべきではない

 劉克清氏は2019年9月、中国企業が開発・運営するショートビデオのプラットフォーム「抖音(TikTok)」にチャンネルを開設。美しい声で歌う方法を指導するビデオを公開し、37万人を超える賛同を得るほどに人気を博していた。ところがチャンネルが突然閉鎖された。(参考資料:「あなたは習近平主席にそっくりすぎる」――顔を問題視されてアカウントを閉じられた中国オペラ歌手)

 劉克清氏は5月10日、SNS上で視聴者に対し、「私の抖音チャンネルにあるプロフィール写真が『規則違反ではないか』と通報され、閉鎖されました」「現在、審査の結果を待っています」と状況を説明した。「画像違反とされたのは今回で3回目になる」とも付け加えた。

 ただ、ほどなくしてチャンネルは復活したようだ。

 香港ケーブルテレビは5月13日、ウェブサイト上で、劉克清氏へのインタビュー動画を配信した。その中で劉克清氏は次のような見解を示している。

「(通報者が)私の写真を他の人のものと勘違いして『このプロフィール写真は使うべきではない』と考えたのだと思います。彼ら(抖音側)も私に『使えない』と言ってきました。“これは、勘違いされたな”と感じましたね」

 プロフィール写真を、“習主席似”のものからコンサート時に撮影されたものに変更したところ「問題なし」と判断されたという。

 ただインタビューの際、ケーブルテレビ側が「あなたの写真はいったい誰に似ているのか」と改めて確認を求めたが、劉克清氏はその問いに答えようとしなかったそうだ。

 劉克清氏は1989年以来、欧州で活動し、最近はドイツに住んでいる。新型コロナウイルスの集団感染が最初に起きた中国湖北省武漢の市民らを励ますため、今年1月下旬に曲を作った。

 香港ケーブルテレビの取材を受けた際、劉克清氏は「体は海外にあっても、心は依然、祖国とつながっています。我々はいつも祖国のためにあります。すべての力を使って、あなた方のために歌います」と言って、その曲をピアノで弾き語りした。「ああ、武漢! 私たちはあなたのために歌う ああ、武漢! あなたは私たちの希望だ」

イメージを傷つける恐れ徹底排除

 中国では習主席の「神聖化」が進む。共産党最高指導部の中でも習主席だけは「核心」と呼ばれ、別格の指導者であることが強調されている。新型コロナウイルス感染に関連した記者会見でも、発言者はほぼ「習近平同志を核心とする党中央」という表現を使い、忠誠の気持ちを前面に押し出している。

 一方で、尊厳を傷つける情報や行為は徹底的に排除される。

 今回の件でも、仮に、習主席を思わせるプロフィール写真を野放しにして、それが原因で習主席のイメージが損ねられるようなことになれば、抖音側にも処分が及ぶ恐れがある。抖音側がチャンネル閉鎖に踏み切ったのも、こうした事態を避けるために事前に手を打ったのではないか。

 ちなみに、中国のネット上で今回の件に関する書き込みは見当たらず、中国最大の検索エンジン「百度」で検索してもヒットしない。劉克清氏の件を伝えた香港ケーブルテレビの報道も、閉鎖の事実は伝えたものの「習近平国家主席」という固有名詞は扱われていない。このため筆者はこの件に関する情報を主に、中国政府に批判的な論調で知られる香港紙「リンゴ日報」や台湾メディアから得ている。

 習主席の一強支配の裏で、それに対する不満もくすぶる。

 上海で2018年7月、30歳前後の女性が、立て看板に描かれていた習主席の顔に墨をかけて「習近平の暴政に反対する」と声を荒げ、その様子を撮影した動画をSNS上にアップする“事件”が起きた。

 中国本土で習主席を公然と批判するのは極めてまれであり、そのイメージを汚す行為は中国社会に強い衝撃を与えた。このあと、各地で類似の行為が相次いだようで、当局は習主席の看板を一時的に撤去するよう指示したとも伝えられた。

 動画をアップした女性はその数時間後、行方がわからなくなった。中国の人権問題支援情報サイト「維権網」などによると、女性は法的根拠を示されないまま当局に事実上監禁され、昨年11月に解放された際には失語状態で全身がむくんでいたという。親族は「全く別人になった」といい、何らかの薬を過剰に投与された可能性も指摘されている。

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関連エントリ 2019/01/01 ⇒ 【平成31年元旦】平成は4月30日まで✍「新元号」は4月1日発表予定

 

2020年12月28日 (月)

【特別読み物】追悼・なかにし礼(享年82歳)満州から逃げる列車の中で・・・・

追悼・なかにし礼毒蝮三太夫男が惚れるような男

スポニチアネックス 2020年12月26日(土)13時54分配信

立川談志さんが付けたの芸名も

 タレントの毒蝮三太夫(84)が26日、TBSラジオ「ナイツのちゃきちゃき大放送」(土曜前9・00)にゲスト出演。23日に心筋梗塞のため82歳で亡くなった作詞家で直木賞作家のなかにし礼さんのエピソードを語った。

 毒蝮は「なかにし礼さんよく存じ上げてるの。礼さん礼さんって言ってね。いい男だよ、二枚目。女性からも人気あるよね」としみじみ。「男がほれるようないい男だった」とその生きざまを表現した。

 さらに「なんとなく話が合ってね、よく食ったり飲んだりしたこともある」として、なかにしさんは「(立川)談志の弟子だったんだよ。落語が大好きだった」と回顧。談志さんがつけた芸名は立川礼談房(れいだんぼう)」だったと明かし、「礼さんが嫌がって…名乗らなかったんで、世間で知られないで終わっちゃった」と語った。

 「落語が好きで粋なところがあったのよ。歌の歌詞とは全く正反対のユーモアとか諧謔(かいぎゃく)とか洒落っ気があった」と思い出を述懐。「惜しい方、素晴らしいセンスを…生きていてほしかった」となかにしさんをしのんだ。

 追悼・なかにし礼こだわり作詩家作詞家 

日刊スポーツ 2020年12月26日(土)8時01分配信

「北酒場」「石狩挽歌」などの作詞家で、直木賞作家のなかにし礼(なかにし・れい)さん(本名中西礼三=なかにし・れいぞう)が23日午前4時24分、心筋梗塞のため都内の病院で死去した。82歳だった。

 なかにし礼さんとは90年代半ばに、テレビ朝日系の情報番組「ワイド! スクランブル」で、一緒にコメンテーターを務めたことがあった。控室で新聞用語の話になったことがあった。

 なかにしさんに「新聞は作詩家ではなく、作詞家と書きますよね。いつからですか」と問われたことがあった。明確な時期は答えられなかったが「歌の場合は詞で、ポエムの場合は詩と使い分けています」と説明した。会話はそれで終わったが、その後、なかにしさんが詩と詞にとてもこだわっていることを知った。

 なかにしさんはインタビューで「詩は限りなく音楽に近いけど、音楽なしでもひとり歩きできるもの。詞は限りなく言葉に近い音楽」と話しているのを知った。自分の答えがなんと稚拙だったか恥じた。

 そして歌詞に何を求めるかに関しては「自己表現です。作品は作者に一番似ている。作品そのものが作者の肖像画であり、似顔絵なんです」。日本屈指の表現者の隣に、コメンテーター然として座っていた自分自身を恥ずかしく思う。

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 追悼・なかにし礼満州から逃げる列車で母は自分で逃げ生きなさい」… 過酷な人生を襲う心臓発作と食道がん「書き残すべきことを次の世に 

yomiDr. 2020年12月25日(金)11時10分配信/斉藤勝久(ジャーナリスト)

一病息災

 「港町ブルース」「北酒場」など多くのヒット曲を世に送り出した作詞家で直木賞作家のなかにし礼さん(82)が23日、死去しました。若い頃からの心疾患、2012年には食道がんが見つかるなど、病と向き合い続けた人生を、6年前の取材に語っています。

 「天使の誘惑」「今日でお別れ」「北酒場」。レコード大賞を3回受賞した売れっ子の作詩家だった。

 作家に転身して直木賞を受賞。執筆やコメンテーターとしての活躍を続ける。根底には、浮き沈みの激しい過酷な人生体験があった。その苦労から、心臓は発作を繰り返す。食道がんが見つかると、心臓の負担を考え、手術をしないで治す選択をして病魔と闘った。

 満州(現中国東北部)の旧ソ連国境に近い牡丹江で1938年(昭和13年)に生まれた。北海道・小樽から4年前に渡ってきた一家は造り酒屋を始め、裕福になっていた。「中国語やロシア語なども使って、他国の子供たちと遊んでいました。日本とは違って、軍国少年にはならなかった」

 45年8月、ソ連軍の侵攻で、生活は一変。母、姉との逃避行が始まった。現地を出る最後の軍用列車にまぎれ込んだが、ソ連戦闘機が迫ってきた。

 家族で逃げようとすると、母は「ここに隠れていなさい」と座席の下に潜り込ませ、自分は別に逃げた。列車は機銃掃射に襲われ、車内で多数の軍人が死んだ。戻ってきた母は惨状を見て、幼い息子に「これからは母さんの言うことも信じてはいけない。自分で逃げ、生きなさい」と諭した。

 「母のあの言葉に目覚めて以来、自分で考え、決断していくようになった。今も変わりありません」

27歳で激しい心臓発作

 母、姉と恐怖の逃避行。行けども行けども、日本人の死体が転がっていた。終戦後の1年余、ハルビンで物売りをして暮らした。

 再会した父はソ連軍に連行され、2か月後に帰ってきた時は健康を害し、間もなく死亡。満州(現中国東北部)で資産家だった父の全てを失い、1946年(昭和21年)秋、引き揚げ船で帰国した。

 北海道・小樽の父の実家で、新しい生活を始めた。学徒出陣して戦死したと思われていた兄が、復員。次々と無鉄砲なことを始め、一家を何度も混乱させる。

 兄は借金してニシン漁に手を出し、失敗。担保の実家を失った。この悲しい体験は、後に作詩した「石狩挽歌」の元となる。

 親類を頼って青森市に移り住んだ。小学校では「満州、満州」といじめられた。7年後、兄の住む東京に。しかし、兄とけんかして家を飛び出し、アルバイトをして食いつないだ。

 19歳の時、シャンソン喫茶で働いた。フランスの流行歌が好きになり、フランス語学校に通い、歌手に頼まれて訳詞を始めた。

 4年遅れで大学に入り、最初の結婚。新婚旅行先のホテルで偶然、声をかけられた俳優の石原裕次郎さんから、人生を変えるアドバイスを受けた。「日本の歌を書きなよ」

 2年後、27歳で作詩家活動に入る矢先、突然の激しい心臓発作に襲われた。

誤診に遭い心筋梗塞に

 27歳の心臓発作には、原因があった。「これからの人生をどうはばたいていくか、悩んでいたのです」。歌謡曲の作詩を始めようとしていたが、妻は夫が翻訳家や大学教授への道に進むことを希望した。この溝は離婚に発展していった。

 45日間入院した病院で誤診にあった。「若者が心臓発作を起こすはずがない。これは自律神経失調症だ」と。心臓の薬は与えられず、効かない薬ばかり飲まされた。その結果、後でわかったが左心室が壊死えしし、心筋梗塞になってしまった。

 作詩家としてデビューし「知りたくないの」「恋のフーガ」などヒット曲を連発した。しかし、心臓発作が続き、何度も救急車で運ばれた。

 ようやく、心臓病の主治医が見つかった。しかし、ヒットメーカーの弟を食い物にする兄の借金の肩代わりに、何度も苦しめられた。評判を落とし、再起不能とまで言われた。そのたびに心臓の薬をなめながら、「時には娼婦しょうふのように」など起死回生の名曲を発表していった。

 人生の恩師、石原裕次郎さんの生前最後の歌「わが人生に悔いなし」など、訳詞を含め約4000曲を作詩。だが、昭和が終わると作詩への意欲が消えた。

 1992年(平成4年)、54歳で再び大きな心臓発作に襲われた。意識を失い、目覚めるまでの8時間に臨死体験もした。

赤くただれた腫瘍 転移も

 激しい心臓発作で、死ぬと思ったが、生き返ることが出来た。これを機に、人生でやり残していた「作家」になることを決意した。

 書いてみたいことが、たくさんあった。「まず、満州(現中国東北部)体験。100万人を超える満州からの引き揚げ者がいたのに、その実情を伝える本格的な小説はほとんどなかった」

 しかし、作詩家から作家への転身は、簡単ではなかった。「100メートル走のランナーがマラソンを走る感じ。7年ほど世間との連絡を絶ち、多くの小説を読み直して懸命に勉強しました」

 2作目の「長崎ぶらぶら節」が、2000年に直木賞を受賞。翌年には満州からの引き揚げ体験を描いた「赤い月」を出版した。「満州の語り部」ならではの作品だった。

 心臓病の方は、信頼できる医師とも巡り合えて、大きな発作はなかった。しかし、12年2月、のどの不快感と、むかつき、嘔吐(おうと)感に悩まされるようになった。

 胃カメラ検査の結果、食道がんが見つかった。4センチぐらいの赤くただれた腫瘍で、初期ではなく、ステージ2の後半と診断された。食道近くのリンパ節への転移が始まっていた。

 自覚症状はあった。2、3か月前からの、のどの違和感に加え、口臭や声のかすれを感じることがあった。「自分だけは、がんにならないと思っていたが……」

 「死」が頭をよぎった。

「陽子線治療」自分でたどり着く

 見つかった食道がんは、発症1年3か月と推定された。精密検査を毎年3月に受けてきたが、前年は東日本大震災があった。大きな被害を見て、自分の健康に一喜一憂する後ろめたさも感じ、検査を受けなかった。早期発見の機会を逃した。

 コメンテーターをしていたワイドショーで、病名を公表し降板した。4人の医師が異口同音に手術を勧めた。しかし、持病がある心臓は健常者の約半分の能力しかない。手術には耐えられそうになかった。

 手術を促す医師に、手術をしないと「余命半年」だと示唆された。手術も仕方ないか、と思うこともあった。だが、満州(現中国東北部)逃避行での母の言葉がよみがえる。「だれも信じてはいけない。自分で生きなさい」

 自問した。「自分の命の問題なのに、いつから聞き分けのいい大人になったのか。自己主張して、すべて自分で決め、新しい世界を切り開いてきたのに」。がん治療の“常識”に抵抗して、自分で治療法を見つけると決意した。

 夫婦でインターネットで調べ、たどり着いたのが先進医療の「陽子線治療」だった。放射線治療の一種だが、エックス線と違い、病巣に効率よく照射できるので、副作用が少ない。患部以外のダメージを抑えることができるので、心臓に不安があっても治療はできる。

 「これだ」と確信した。

「夢の治療」で腫瘍が消えた

 聞き慣れない「陽子線治療」の病院に朝一番で電話した。食道がんはこの治療の適用対象に明記されていなかったが、面談した主治医は「完治をめざしましょう」と言ってくれた。

 まず、心臓病の主治医の病院と連携して抗がん剤治療を行い、食道の腫瘍を半分に縮めた。この後の陽子線治療は1回30分。初めの25分は食道の動きなどの計測が行われ、最後の5分間、患部に陽子線が照射された。これを6週間で計30回。

 全工程が終わり、1か月後の検査で腫瘍が消えたのが確認された。2012年秋、半年ぶりに仕事を再開、コメンテーターを務めるテレビ番組にも復帰した。

 「夢の治療」といわれるが、実施施設は全国で約10施設。普及しないのは理由がある。医療機器が1基約80億円で、健康保険の対象にならない先進医療のため、患者の自己負担が約300万円かかる。欧米ではこの倍近い負担だという。

 「多くの人が高いと言うが、自分の命に値段をつける気にはなれない。この治療を早く健保適用にして、実施病院を増やすよう、国が努力すべきです」

 がんから生還し、我が国の行く末がいっそう気になってきた。言うべきこと、書き残すべきことを、きちんと次の世に伝えていこうと誓っている。

評伝 なかにし礼 心臓病と闘いながら、多彩な分野でヒット作品連発

nippon.com 2020年12月28日(月)18時10分配信/斉藤勝久(ジャーナリスト)

「天使の誘惑」「今日でお別れ」「北酒場」で作詩家としてレコード大賞を3回受賞し、直木賞作家でもあった、なかにし礼さんが2020年12月23日に亡くなった。82歳。多彩な分野でヒット作品を連発したが、その根底には浮き沈みの激しい人生体験があり、その苦労で20代から心臓の病とも闘い続けていた。

満州で逃避行中、母の諭しで目覚める

 筆者は6年前の2014年5月、なかにしさんを取材した。聞きたかった少年時代の満州(現中国東北部)の話を詳しく語ってくれた。インタビューは闘病記を書くために2時間程度という予定だったが、「どうぞ、なんでも聞いてください」と1時間の延長を許してくれた。

 なかにしさんは1938年(昭和13年)、旧ソ連国境に近い牡丹江で生まれた。一家は北海道・小樽から4年前に移り住み、造り酒屋として裕福になっていた。「中国語やロシア語なども使って、他国の子供たちと遊んでいた。日本とは違って、軍国少年にはならなかった」

 しかし、45年8月、ソ連軍の侵攻で、生活は一変し、母、姉との逃避行が始まった。ソ連戦闘機が迫ってきたので母と別れて逃げた。「これからは母さんの言うことも信じてはいけない。自分で逃げ、生きなさい」と諭す母の言葉で、なかにし少年は目覚めたという。この言葉は生涯、何度も思い出すことになる。

 ハルビンまで逃げ、避難民として1年余、まだ7、8歳の少年は物売りを続けた。父は亡くなり、資産をすべて失って、引き揚げ船で日本に帰国。貧しい生活から解放され、空は晴れ、見知らぬ祖国に帰れる喜びが、後に「恋のハレルヤ」の歌になる。

 北海道の父の実家で暮らしたが、復員した兄が一家を何度も混乱させた。借金をしてニシン漁の投機に手を出した兄が、失敗して担保の実家を失う。この辛い体験が、後のヒット曲「石狩挽歌」の元となった。

 親類を頼って移り住んだが、小学校では「満州、満州」といじめられた。兄が住む東京に来たものの、兄とけんかして家を飛び出し、シャンソン喫茶で働いた。フランス語学校に通い、歌手に頼まれた訳詞をした。それでお金を貯め、4年遅れで大学に入った。

 最初の結婚で新婚旅行中に、ホテルで偶然、俳優の石原裕次郎から声を掛けられ、「外国の歌より、日本の歌を書きなよ」と勧められたのが転機となった。

27歳で誤診のため心臓に病魔

 だが、27歳で作詩家活動に入る矢先、突然、激しい心臓発作に襲われた。これからの人生に悩んでいたのが原因だ。入院した病院の医師が「自律神経失調症」と誤診したため、効かない薬ばかり飲まされ、左心室が壊死して心筋梗塞になった。それ以後、長い間、心臓に病魔を抱えることになった。

 デビュー曲は「知りたくないの」。有名な歌い出しの「あなたの過去など知りたくないの」について、なかにしさんは「周りから、歌詞に『過去』という言葉は聞いたことがない。変更しろ、と迫られたが、絶対に譲らなかった」と語っていた。なかにし流のユニークでしゃれた歌詞はその後、持ち味になっていく。

「恋のフーガ」「今日でお別れ」「グッド・バイ・マイ・ラブ」などヒット曲を連発したが、心臓発作で何度も救急車で運ばれた。人気が出た弟を食い物にする兄の借金の肩代わりにも苦しめられ、評判を落とし、再起不能とさえ言われた。心臓薬をなめながら、起死回生となる「時には娼婦のように」、恩師、石原裕次郎の生前最後の歌「わが人生に悔いなし」を発表した。

 訳詞を含め約4000曲を手掛けたが、昭和が終わると作詩への意欲が消えてきた。1992年、54歳で再び大きな心臓発作に襲われた。目覚めるまでの8時間に臨死体験もした。生き返ったことを機に、人生でやり残した「作家」になることを決意した。

「作詩家の仕事が短距離の100メートル走なら、マラソンを走るのが作家」と覚悟した。7年ほど世間との連絡を絶ち、多くの小説を読み直して懸命に勉強した。98年の第1作は兄との確執を描いた自伝小説「兄弟」。いきなり直木賞候補となり、翌年の「長崎ぶらぶら節」で直木賞を受賞した。

 2001年には、満州からの引き揚げ体験を元にした「赤い月」を出版した。「100万人を超える満州からの引き揚げ者がいたのに、その実情を伝える本格的な小説はなかった。守ってくれると信じていた関東軍は一足先に逃げ出し、本土が食糧難だから帰ってくるなと言われ、苦労して帰国したら引き揚げ者と差別された『棄民』(政府によって切り捨てられた自国民)がいたことを、作家として書きたかった」と力を込めて語っていた。

自分で見つけたがんの治療法

 その後も順調に著作を続け、テレビのコメンテーターとしても活躍したが、12年に、のどの不快感などから食道がんが見つかった。医師は手術を勧めたが、持病がある心臓は手術に耐えられないと直感した。

 医師からは、もし手術をしないと「余命半年」と言われた。迷う中で、満州での逃避行の時の母の言葉がよみがえった。「誰も信じてはいけない。自分で生きなさい」

 がん治療の“常識”に抵抗して、自分で治療法を見つけることにした。インターネットで調べ、先進医療の「陽子線治療」にたどり着いた。放射線治療の一種だが、病巣だけに照射できるので、患部以外のダメージを抑えることができる。これなら、心臓に不安があっても大丈夫と判断した。健康保険の対象外だったので高額負担となったが、治療がうまく進み、半年後に仕事が再開できるまでに回復することができた。

 がんからの生還後は、「我が国の行く末がいっそう気になってきた。言うべきこと、書き残すべきことを、次の世に伝えていく」と誓い、精力的に活動を続けた。しかし、15年にがんの再発を公表。20年に入り、持病の心臓疾患が悪化して、入退院を繰り返していた。死因は心筋梗塞だった。

多才にして気遣いの人

 筆者は6年前に取材して別れ際、なかにしさんから「この本も、記事を書くのに役立つかも」と、自著「兄弟」をいただいた。大変、参考になったことは言うまでもない。6回の新聞連載を読んだなかにしさんから「大変素晴らしい記事にして下さって ありがとうございます。」というファクスもいただいた。

 また、取材の前日には、なかにしさんの方から確認と、「あすはよろしく」という趣旨の丁重な連絡をいただいた。なかにしさんは大ヒットメーカーにして直木賞作家のおごりがない、気遣いの人だった。筆者はこれが多くの人に好かれ、「いい男」だと言われる理由だと思ったのを覚えている。

 コロナ禍で、将来の針路を語ってほしかった一人が逝ってしまったことが悲しい。

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関連エントリ 2020/12/24 ⇒ 【羽生結弦】Xmas参戦<全日本フィギュア>SP&FS✍新プロ投入!!

 羽生結弦を支えるパワースポット「長田神社特製お守り身につけ、いざ全日本選手権へ出陣  

東スポWeb 2020年12月25日(金)5時15分配信

 パワースポットが幸運をもたらすか――。フィギュアスケート男子で五輪2連覇を達成した羽生結弦(26=ANA)が、今季初戦となる全日本選手権(25日開幕、長野・ビッグハット)へ必勝態勢で臨む。新型コロナウイルス禍で開催される今大会、羽生は葛藤の末に出場を決めたという。歴戦の王者にとっても全てが未知数だが、今回は力強い援軍がある。どんな時も支えてくれた〝神様〟が近くで見守っているのだ。

 久々に公の場に姿を見せた王者は、銀盤で汗を流すと「僕にとって久しぶりのことだったので、楽しい感覚もありました」とかすかな笑みを見せた。新プログラムには注目を集める人類初のクワッドアクセル(4回転半ジャンプ)は入れず、来年3月開催予定の世界選手権(スウェーデン・ストックホルム)の代表枠を意識。「この試合を必須として、出なくてはいけない。僕自身の希望を何とかつなぐために出させていただいた」と決断に至った経緯を明かした。

 とはいえ、出場には苦悩がつきまとった。今季は新型コロナウイルス禍のリスクを回避して、グランプリ(GP)シリーズを欠場。「現状、いわゆる第3波と言われる波が来ている状況で僕が出ていいものか。かなり葛藤がありました」。さらには「悩み始めると、どうしても自分の負のスパイラルに入りやすい」と自己分析しつつ「その中でうまくコントロールするすべだとか、一人だからこそ深く分析したりとか」と考えを巡らしてきたという。

 そんな羽生にとって、今大会は絶好の開催地となった。会場のビッグハットから南東へ約6キロ。長野市若穂川田には強力なパワースポット「長田神社」がある。縁もゆかりもない土地柄の神社に出会ったのは2014年ソチ五輪の前のこと。知人を介して同神社のお守りをもらうと金メダルを獲得した。その後も定期的にお守りを作ってもらい、練習や遠征、試合の時はいつも身につけてきた。以来、羽生の栄光と挫折をすべて見守ってきたのだ。

 湯本正通宮司(70)は「彼は常に自分の力を信じているが、勝負には運も必要。自分が100を出しても、相手が110を出せば負ける世界。だから彼は運も強く信じるのです」と話す。湯本宮司によると、羽生は神様が見える脳に入ってくると口にしてるようで、自分を見失いかけた15年GPファイナルスペイン・バルセロナでは長田神社のご神木の神様が『大丈夫』って言う声が聞こえたと不思議なパワーを受けて優勝したという

 いまやファンの間でも「聖地」として知られるほど有名になったが、今回はその〝お膝元〟での開催。長田神社に出合ってから長野で行われた大会は2戦2勝だから心強い。

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 今大会前、羽生は現在の願いを神社に伝え、それをもとに特製のお守りを作ってもらったという。「自分を信じて、楽しく滑れば必ず金が取れると伝えました」(湯本宮司)。運を引き寄せ、ライバルだけでなくコロナという強敵にも打ち勝つ。

 

2020年12月 6日 (日)

【タイソン54歳】✍なぜ「彼は世界を熱狂させる」のか・・・・

54歳マイク・タイソン何故世界を熱狂させるのか『栄光』と『転落』にみるボクシング人生 

J-CASTニュース 2020年11月30日(月)19時46分配信

 ボクシングの元統一ヘビー級王者マイク・タイソン氏(54)=米国=が2020年11月28日(日本時間29日)、元世界4階級王者ロイ・ジョーンズJr氏(51)=米国=とエキシビションマッチを行った。エキシビションマッチは2分8ラウンドの特別ルールで行われ、結果は引き分けに終わったが、レジェンドの約15年ぶりのリング復帰に世界中のボクシングファンが熱狂した。

復帰のきっかけはSNSの練習動画

 タイソン氏のトレードマークである黒色のトランクスに黒色のリングシューズ。さすがにスピード、スタミナは現役時代のものとは比べものにならなかったが、体を小刻みに左右に振りながら相手の懐に飛び込む姿にかつてのタイソン氏を重ねたファンも多いだろう。このエキシビションマッチに向けて45キロ絞ったという肉体は、リタイアしたボクサーのものとは思えぬほど引き締まり、かつての「鉄人」は54歳になっても「鉄人」だった。

 エキシビションマッチとはいえ、タイソン氏の約15年ぶりとなるリング復帰は世界中から注目された。その注目度の高さはタイソン氏のファイトマネーの額に表れている。米国メディアの報道によると、このエキシビションマッチでタイソン氏は10億円以上の報酬を受け取るという。井上尚弥(大橋)がジェイソン・モロニー(オーストラリア)戦で得たファイトマネーが約1億円だったことを考えれば、引退してもなおタイソン氏のボクシング界における商品価値が破格であることが分かる。

 タイソン氏のリング復帰のきっかけは、タイソン氏が自身のSNSに投稿した練習動画だった。今春、タイソン氏がSNS上で練習動画をアップすると世界中のファンが反応。迫力満点のミット打ちにファンは熱狂し、練習動画が世界中に拡散した。これに格闘技プロモーターが黙っておらず、タイソン氏に数々のオファーが舞い込んだという。タイソン氏自身、リング復帰を願っていたところもあったようで、SNS上でのファンの後押しもあってリング復帰が実現した。

ヘビー級の迫力に打ちのめされた日本のファン

 世界中のボクシングファンは、54歳になったタイソン氏の背中に何を求め、何を見ているのか。そして、なぜここまでタイソン氏に惹かれるのか。

 1980年代後半、タイソン氏は「世界最強」の称号をほしいままにした。86年11月に史上最年少の20歳5カ月でWBC世界ヘビー級王座を獲得し、その後WBA、IBFのベルトを奪い3団体の王座を統一。88年3月には東京ドームで防衛戦を行い、トニー・タッブス(米国)を2回TKOで破り防衛に成功。本場ラスベガスのリングを東京ドームに移して行われた一戦でタイソン氏が見せたパワー、スピード、テクニックは衝撃的なもので、日本のボクシングファンはヘビー級の迫力に打ちのめされた。

 タッブス戦から2年を経て、東京ドームに再び衝撃が走った。90年2月、ジェームス・ダグラス(米国)との防衛戦。そこに2年前のタイソン氏の姿はなかった。試合前のスパーリングでパートナーを相手にダウンを喫するなど調整不足が指摘されており実際、試合当日は主武器であるスピードはなく、パンチにもキレが見られなかった。ダグラスから一度はダウンを奪うも仕留めきれず、タイソン氏はKO負けで3本のベルトを失った。プロキャリアで初の黒星だった。

 この2年の間にタイソン氏のボクシングキャリアに大きな影響を与える出来事が起こっている。世界的なプロモーターであるドン・キング氏と手を組むようになり、トレーナーのケビン・ルーニー氏と決別した。ルーニー氏は長年にわたりタイソン氏を指導し、私生活でも家族同然の間柄だった。タイソン氏の師であるカス・ダマト氏亡き後、タイソン氏の後見人としてともにキャリアを歩んできた人物であり、そのルーニー氏がチームから外れたことでタイソン氏のボクシングが荒れ始めたといわれている。

トラブルメーカーとしてダーティーなイメージが...

 ダグラス戦での敗戦後、タイソン氏がリングで再び輝きを放ったのはほんのわずかな時間だった。96年3月にフランク・ブルーノ(英国)を破りWBC王座を獲得し9月にWBA王座を獲得。その後、イベンダー・ホリフィールド(米国)にタイトルを奪われ、ホリフィールドとの再戦で失格負け。この再戦でタイソンはホリフィールドの耳を噛みちぎり、「耳噛み事件」としてボクシング史に刻まれている。

 「耳噛み事件」以降もリングの内外で自身をコントロールすることが出来ずトラブルが絶えなかった。トラブルメーカーとしてダーティーなイメージがつきまとい、その後は世界のベルトを巻くことはなかった。「栄光」と「転落」。タイソン氏のボクシング人生は波乱続きだったが、ボクシングの技術に目を向けると、洗練された防御技術、相手の急所を的確に打ち抜く技術は歴代のヘビー級王者のなかでもトップクラスだろう。

 タイソン氏は完成されたファイターだった。アマチュアでしっかりとキャリアを積み、米国五輪予選の決勝まで進んだ実績を持つ。トップアマからプロに転向するも世界王座に初挑戦するまで27試合をこなしている。天性のパンチ力に加え、卓越した防御技術とステップワークは実践で培ったもので、これら豊富なキャリアがタイソン氏のボクシングの「完成度」を裏付けている。パワーだけでない世界最高峰の防御技術。そして巨漢ボクサーをなぎ倒す強烈なダウンシーン。全盛期のタイソン氏は何もかもが異次元だった。

 SNS上での動画配信から始まった今回のタイソン氏の復活劇。海外の専門メディアには批判的なものもみられるが、海外メディアの論調はおおむね好意的である。54歳にしてなお「鉄人」であり続けるタイソン氏は、リングに復帰した理由について「人々を励ますため」と語っている。新型コロナウイルス関連の暗いニュースが続くなか、世界のボクシングファンが待ちわびたレジェンドの復帰。タイソン氏のパンチひとつひとつが強いメッセージとなって世界中に届けられたことだろう。

 54歳のタイソン本物の世界戦よりも人気を集めた!有料放送の視聴契約数120万で売り上げ63億 

THE PAGE 2020年12月3日(木)7時32分配信

 プロボクシングの元世界ヘビー級3団体統一王者のマイク・タイソン(54、米国)対元4階級制覇王者、ロイ・ジョーンズ・ジュニア(51、米国)のエキシビションマッチ(11月28日・米国ロスアンゼルス)のPPV(有料テレビ放送)の視聴契約数が約120万件だったことが3日、明らかになった。

 複数の海外メディアが報じたもので売り上げは約63億円にのぼるという。ファイトマネーとしてタイソンは約10億円、ジョーンズは約3億円が最低保証されていたが、この売り上げからの歩合でプラスアルファされる方向だ。

 タイソンとの次のエキシビションマッチの対戦相手として“耳噛み事件”があったイベンダー・ホリフィールド(58、米国)や、東京ドームで、タイソンを倒す“世紀の番狂わせ”を起こしたジェームス・ダグラス(60、米国)らが名乗りを上げているが、これだけの銭を稼ぐのだから次期対戦相手に行列ができるのも無理はないのかもしれない。

フューリーvsワイルダー戦を35万件上回る

 タイソン人気は不滅だった。15年ぶりのリング復帰となった54歳のタイソンは、51歳のジョーンズと2分8ラウンドの特別ルールのエキシビションマッチで対戦。WBCが用意した3人の元世界王者の非公式採点は、忖度がありドローとなったが、45キロの減量に成功した鍛えられた肉体から繰り出されたタイソンのパワフルなパンチと俊敏な動きはファンやメディアの喝采を受けた。現役時代を彷彿とさせる、ダッキングなどのテクニックや高速コンビネーションも披露していた。

 この試合はPPV放送され、視聴価格は44.99ドル(約4600円)に設定されていたが、なんと視聴契約数が約120万件に達したというのだ。英国のザ・サン紙は、「タイソン対ジョーンズ戦は、米国で120万件以上のPPVを売り上げ、驚きの4500万ポンド(約63億円)を荒稼ぎした」との見出しを取って報じている。

 同紙が比較したのは、2月に行われたタイソン・フューリー(英国)とデオンテイ・ワイルダー(米国)のWBC世界ヘビー級戦の数字。この試合は注目の再戦でフューリーが劇的なTKO勝利を収め、PVVの視聴契約数は、約85万件あったが、今回の試合はエキシビションでありながら、35万件あまり、それを上回ったのである。

 ただ同紙によると、タイソン・フューリーvsワイルダーの試合の視聴価格は、タイソンvsジョーンズ戦よりも3000円ほど高く設定されていたため、売り上げ自体は約71億円ありタイソンのエキシビションマッチよりも上だったという。

 同紙は「54歳のタイソンは、土曜日の夜に16分間で約10億5000万円を手にしたと理解されている。これは1ラウンドで約1億3000万円、1分あたりで約6500万円、1秒あたり約109万円となる。またジョーンズが手にする金額もタイソンのそれを大きく下回ったわけではない」とも伝えた。ファイトマネーの最低保証からの逆算だ。

 英国のスポーツ専門ラジオ局のトークスポーツも、この試合の視聴契約数がフューリー対ワイルダーの再戦よりも35万件も上だったことに注目。

「試合前には失望に終わるのではないかと疑念のあった試合だが、成功した試合として知れ渡ることに疑いはない。視聴者はリング内での展開に満足し、この試合は金銭的な成功を収めた」と評価している。

 ちなみにボクシングのPPVの過去最高記録は、2015年5月に行われたフロイド・メイウエザー・ジュニア(米国)対マニー・パッキャオ(フィリピン)の“史上最大の決戦“で約460万件。売り上げは、約500億円に達したと言われている。

 タイソンの現役時代の最高視聴件数は、1997年に行われたホリフィールド(米国)との再戦の199万件。いわゆる“耳噛み事件”が起きた因縁のWBA世界ヘビー級戦である。

 その58歳になるホリフィールドが「誰もが望む試合。俺とやらない理由はないだろう」とタイソンとの3度目の対戦を要望するプレスリリースを発表。1990年に東京ドームでタイソンにKO勝利する“世紀の番狂わせ”を演じた“バスター”ダグラスも、もう60歳になるが、USAトゥデイ紙のインタビューに「もう一度対戦したい」と語るなど、次から次へと対戦希望者が出ている。エキシビションマッチで、これだけの金額を稼げるのだから、彼らがタイソン戦を熱望するのも当然なのかもしれない。

 タイソンは、「これからはもっと良くなる。次も戦う」と、エキシビションマッチの継続の意向を明かした。だが、同時に「もうエゴはない」と、あくまでも今回のリング復帰はチャリティーが目的であり、これらの収益を慈善事業団体に寄付する考えであることを表明している。

 リング戻ってきたマイクタイソン全米どう見たか 

Forbes JAPAN 2020年12月2日(水)8時00分配信/長野 慶太(ジャーナリスト)

 引退後、14年ものあいだ試合から遠ざかっていた「地上最強の男」マイク・タイソン(54歳)がリングに帰ってきた。 

 11月28日、ロサンゼルスのステープルズ・センターで、2人の元ヘビー級世界チャンピオンが闘った。エキシビションマッチという建前だが、カリフォルニア州の管理・許認可団体であるアスレチック・コミッションの裁定を受けている試合だ。

難航したタイソンの闘う相手

 不幸な幼少時代と、12歳までに51回も逮捕された少年院時代を経てプロボクサーとなったマイク・タイソン。2005年に引退したあとも、離婚やアルコール中毒症に苦しむなど、絶えない人気とは裏腹に、私生活では苦闘を続けてきた。

 しかし、2011年に国際ボクシング殿堂に殿堂入りをして以降は、俳優業やライブのコメディショーなどに挑戦し、総再生回数約1億回の視聴を稼ぐユーチューバーとして若い世代からも人気を博している。

 今回の対戦相手は、ボクシング史上最高の身体能力を持つと言われるロイ・ジョーンズ・ジュニア(51歳)。重量パンチを武器に、2003年には、106年ぶりとなるミドル級出身者によるヘビー級世界王座獲得を果たした選手だ。

 フットワークが軽快で、攻撃の幅が広い。通算66勝を収め、そのうち47試合がノックアウト勝ちというレジェンドで、なによりたった2年前まで現役だったということで、タイソンの対戦相手としても文句なしと前評判が高かった。

 コロナ禍のなか、無観客のリングとはいえ、ペイパービュー(見たい番組に課金する)方式で放映されたこの試合は、視聴料だけで1億円を稼いだとされ、まさに今年の全米のスポーツで最大の話題の1つとなった。

 タイソンは引退した翌年の2006年に、このようなエキシビションマッチをやると宣言していたが、最初の試合が不評に終わり、それ以降やることはなかった。

 しかし、新型コロナウイルスの感染拡大によってアメリカが世界一の死者を出し、ほとんどの州でロックダウンの緊急宣言下にあった今年の4月、タイソンはチャリティ・ボクシングをやろうと思っているとユーチューブ上で発表していた。

 今年54歳になるタイソンに対して、スパーリングならともかく、本気の試合などできるはずがないという専門家の指摘も多かった。が、それとは裏腹に、全米のスポーツファンの間では、噂が噂を呼び、本当にやったらどうなるかという、まるで映画「ロッキー・ザ・ファイナル」(シリーズ第6作でロッキーがエキシビションで再びリングに戻ってくる)のような盛り上がりを見せていた。

 ところが、なかなかいい対戦相手が見つからなかった。オーストラリアのボクシングプロモーターがラグビー選手と対戦させるアイデアを出したこともあったが、タイソンは、ボクシングに対する不敬になる恐れがあると拒絶し、やるのなら本物のボクサーとやると断じていた。

 また一時は、タイソンに試合中に耳をかじられた因縁の相手、イベンダー・ホリフィールドもリング復帰に興味を示し、両サイドが契約に向かうかと思われていたが、これもなかなか進行せず、結局7月23日に、今回のジョーンズと契約を交わすこととなった。

 当初試合は9月12日に行われる予定だったが、チャリティ・イベントとしての収益を上げるために、場所も屋外サッカースタジアムからロサンゼルスの象徴とも言うべき屋内イベントセンター、ステープルズ・センターにして、試合日も11月28日とした。

メディアではタイソン勝利の声が…

 当の試合の結果は、引き分けだった。しかし、ニューヨーク・タイムズのベテランスポーツ記者ケビン・ドレイパーが指摘しているように、誰の目から見ても、スタミナをなくし、全身で息をしていたジョーンズと比べ、タイソンは往年のオーラを放ち、スタミナもスピードもパンチ力も現役の頃と比べても見劣りがしなかった。

 ジョーンズはクリンチを繰り返すことに専念するしかない防戦だったが、タイソンは放ったパンチの数も有効打数も圧倒的で、「タイソンが間違いなく勝っていた」との評が大方だった。

 ドレイパー記者は、「2人の健闘は想像以上だった」と試合のクオリティを誉める一方、引き分けという試合のジャッジは「まるでジョークだ」と苦言も呈していた。

 また、ジョーンズは試合後に、タイソンのボディブローに相当なダメージを受けたことを告白している。確かに、最終ラウンドが終わった後も、まだやれると意欲を見せたタイソンに比べて、ジョーンズはそこが限界という感じだった。

 CBSスポーツのジャーナリスト、ブライアン・キャンベルも、タイソンの勝利は明らかだったと分析。無観客でも十分であった盛り上がりを讃えながらも、ジャッジだけが本気を出さなかったことが唯一の難点だと手厳しいコメントを残した。

 いずれにせよ、この試合には、54歳と51歳が闘い、多くのスポーツファンに勇気と希望を与えたと賞賛の声ばかりが集まった。特筆すべき点は、2分間8ラウンドという16分を、この2人が最後まで本気で闘い抜いたことだった。

 このファイトマネーで3億円をジョーンズが稼ぎ、タイソンは10億円を稼いだと言われているが、タイソンはすべてのファイトマネーをチャリティに献じると公式発表している。

 試合直後のインタビューでタイソンは、現役選手との公式試合への復帰についても質問を向けられると、笑顔でかわしてコメントを避けたが、このエキシビションマッチを今後ももっとやっていきたいと意欲を示した。

 またタイソンがチャリティの大義のなかで、本気のボクシングをやることのほうが、若い時の自分がやってきたことよりもずっと意味があるとまで言って、ファンを沸かせていたのが実に印象的だった。

 レジェンドボクサー達が復帰を目指す「お金だけじゃない」理由 

NumberWeb 2020年12月6日(日)17時05分配信/「ボクシングPRESS」杉浦大介

 マイク・タイソン復帰戦の前後、米国内の盛り上がりは随分と凄いものがあった。

 11月28日、54歳になった元世界ヘビー級王者がロサンジェルスのステイプルスセンターで51歳の元4階級制覇王者ロイ・ジョーンズ・ジュニアと対戦。もちろん正式試合ではなく、2分8ラウンドのエキジビションマッチである。それでも、他にも多くの競技が行われた土曜日の夜、米スポーツ界で最大の話題は間違いなくこの一戦だった。普段はボクシングに見向きもしないニューヨークタイムズまでが特集を組み、ソーシャルメディアもタイソンのニュースで持ちきりだった。

往年の武器だったボディ打ちとアッパーも……

「何年もの時が流れても、タイソン戦はやはり特別だ」

 ヤフースポーツの大ベテラン記者、ケビン・アイオリがそうツイートしていた通り、すべてはタイソンのカリスマ性ゆえだろう。現役時代同様、ガウンなし、漆黒のトランクスという懐かしのスタイルで登場したタイソンは、ゴングが鳴るとかつてのように頭を振って前に出た。往年の武器だったボディ打ちとアッパーで、ジョーンズを追い込んでいく。ラウンドが進んでもタイソンのスタミナは意外なほどに衰えず、クリンチで時間を稼ぐのは3歳も若いジョーンズの方だった。

 2人のレジェンドは8回をフルに戦い抜き、タイソン優勢に見えたが、WBCによってあてがわれた3人の特別ジャッジによる採点は三者三様のドロー。普段は微妙な判定が出ると騒ぎになるが、あくまでエキジビションのこの日はその必要もない。

「なんで誰も俺のことを心配してくれないんだ? 15年ぶりの戦いだったのに。(ジョーンズは)2年前まで現役だったのに、みんな彼の方を心配しているよ!」

 試合後のインタビュー時、テレビのアナウンサーがジョーンズの体調を懸念する質問をした際、タイソンはそんなふうに言葉を挟んで笑いを誘った。

 ユーモアと余裕たっぷりのやりとりからも、主役が誰であったかは明らか。タイソンの知名度を考えれば無観客での開催は残念ではあったが、全米のお茶の間は沸き返っただろう。かつての英雄が久々に主役に戻った異色のファイトは、何が起こるかわからないパンデミック下に相応しいイベントにすら思えたのだ。

元スーパースターたちの復帰ブーム

 ボクシング界では元スーパースターの復帰が軽いブームになっている感がある。メキシコの英雄フリオ・セサール・チャベス(58歳)は、同国人の元5階級制覇王者ホルヘ・アルセ(41歳)とチャリティーマッチシリーズを開催。2021年にはマルコ・アントニオ・バレラ(46歳)対エリック・モラレス(44歳)というかつてのメキシカン中量級ライバル同士が、似たような形で拳を交えると伝えられている。

 公式試合のリングに戻ってきた選手もいる。45歳になった元世界スーパーウェルター、ミドル級王者セルヒオ・マルチネス(アルゼンチン)は8月に復帰戦を行い、無名選手相手に7回KO勝ち。最近では“ゴールデンボーイ”のニックネームで親しまれた元6階級制覇王者オスカー・デラホーヤまでもが47歳にして復帰を宣言した。デラホーヤは2008年にマニー・パッキャオ(フィリピン)に敗れて引退以降、何度も再起の噂が立ち消えになってきただけに、今回も実現するかは定かではないが、少なくとも練習を積んでいるのは事実のようである。

 次々とリングに舞い戻る元スーパースターたちに対して、通常、冷ややかな視線が多くなるものだ。なぜかといえば、復帰の理由が金銭面であることが多いから。現役時代の栄光が忘れられず、大金の魅力に惹かれてカムバックを望み、失敗するアスリートはボクサーに限らず枚挙にいとまがないのが現実である。

なぜレジェンドたちは温かく迎え入れられるのか

 しかし――。現在までに復帰したか、あるいはカムバックを考えているレジェンドたちのモチベーションは少々違う印象がある。チャベスとアルセはチャリティーマッチの売り上げをパンデミックの中で奮闘する医療関係者に寄付したと伝えられている。マルチネスに関しても、アメリカでのプロモーターだったルー・ディベラは「リング内外で成功を収めたマルチネスは金銭的には問題がない」と述べていた。

 デラホーヤの再起には自前のプロモーション会社、ゴールデンボーイ・プロモーションズを活気づけるためという意図もあるように感じられるが、本人が経済的に厳しくなっているという話は聞かない。

 そんな中で、彼らがリングを目指す理由はどこにあるのか。もちろんそれぞれ状況、事情は違うものの、新型コロナウイルスによるパンデミックが少なからずレジェンドたちの復帰のモチベーションに影響しているのは間違いないのだろう。

 メキシコの英雄たちの例にとどまらず、困っている人々のためにお金を生み出したい、助けになりたいといった慈善活動的な動機はもちろんあるはずだ。また、自粛期間中に自分に向き合った上で、あるいはトレーニングに費やす時間が増えた結果として、リングに戻りたくなった元名選手もいるに違いない。真打ちのタイソンも例外ではなく、今回のエキジビション登場はお金のためではないことを繰り返し強調していた。

「人々を励ますためにこの試合をやったんだ。この年齢でも頑張っていて、体調も戻した。そこを見てほしかった」

 ジョーンズ戦後のそんな言葉を聞いて、「Almost too good to be true(素晴らしすぎて嘘みたい)」と感じたファンもいたかもしれない。今回の試合でタイソンは1000万ドル以上を保証されたと伝えられており、大半を寄付にあてるとしても、復帰の背景にビッグマネーの魅力がまったくなかったと言われたら疑わしく思える。

 ただ……その一方で、オンラインで公開されたファイトウィークイベント中の姿を見ていても、試合前後の表情を思い出しても、今回のタイソンは確かにお金だけを追い求めているオールドファイターには見えなかったのも事実である。

 リング内外でトラブルに見舞われた元王者の晩年は厳しいものだったが、最後の試合から約14年を経て、見違えるように生き生きとしていた。「(引退時は)リングを去れてハッピーだった。ただ、今の私には意欲がある。どれだけ良いファイトができるか世界に示したい」という言葉も偽りには聞こえなかった。

 リング上で戦う姿も貫禄たっぷり。そのパフォーマンスは人々の予想以上に上質なもので、おかげでイベント全体が引き締まった。だからこそ、視聴に49.99ドルが必要なPPVシステムで放送された今回のエキジビションマッチ後、アメリカでも不満の声はほとんど出なかったのである。

コロナ禍が生んだユニークなカムバックは続くか

「この試合を終えられてハッピー。また先に進んでいくよ」

 久々のリング登場を終え、タイソンは気持ちよさそうにそう述べていた。イベンダー・ホリフィールド、レノックス・ルイスらもタイソンが提唱する「レジェンド・オンリー・リーグ」への参加に興味を示しており、名選手のカムバックブームが今後も続く可能性はある。ただ、これから誰がリングに立とうと、やはりタイソンの復帰戦以上に人々の心を揺り動かすことはあるまい。

 おそらくパンデミックの中だからこそ実現したタイソンのユニークなカムバック。様々なことがうまくいかない2020年の中で、「人々を励ますため」のファイトは、“コロナ禍の産物”としてボクシングファンの心に刻まれていくのかもしれない。

 ディスレクシア読字障害闘ってきた海外セレブ達 

BAZAAR 2020年11月25日(水)18時22分配信

 ディスレクシアとは、文字の読み書き学習に困難を抱える障がいのこと(読字障害)。英語話者の1~2割に何らかの程度でこの障がいを抱えていると言われていて、海外セレブの中でも闘ってきた人が多い。文字が読めないことによる学校退学やいじめなどの苦しみを乗り越え、華やかに活躍するセレブたちをここでチェック!

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トム・クルーズ

 ディスレクシアを世の中に広めたと言われているのがトム。子どものころ、ディスレクシアのためにいくつもの学校を転々とし、いじめにもあい、つらい思いをしてきたことを、これまでたびたび告白してきた。

 俳優になってからも脚本の文章が理解できず、テープに録音してもらってセリフを覚えていたのは有名な話。トップスターの仲間入りを果たすことになった『トップガン』の撮影時にも、実は操縦理論が理解できなくて、レッスンを投げ出してしまったことも...。

 その後、努力の甲斐もあり障がいを克服したトムは、同じようにディスレクシアに苦しむ子どもたちを支援する活動を続けている。

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キーラ・ナイトレイ

 キーラも6歳の時にディスレクシアの診断を受けた。雑誌『GQ』のインタビューの中で、『ドクター・ドリトル』や『ラスト・クリスマス』などの映画脚本家として知られるエマ・トンプソンの脚本を、ディスレクシアを克服するために使ったことを明らかにした。エマと一緒に仕事をしていた母親に脚本の一部を渡され、「もしもエマ・トンプソンが字を読めなかったら、絶対に克服している。だからあなたもエマのように読む練習をはじめなさい」と言われたそう。

 今でも録音読書で学習したり、色付きの眼鏡をかけて文章の文字が混じって見えないように工夫するなどの努力を続けている。

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オーランド・ブルーム

 全世界で大ヒットを記録した『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズでキーラと共演したオーランドも、キーラと同じくディスレクシアに長年悩んできた1人。

 幼少期は本を読むのも文字を書くのも大変で、俳優の道に進んでからもセリフを覚えられないためオーディションに落ちたり、自ら出演を辞退したりしたこともあったそう。

 聖書の朗読などで現在は改善されていて、自分自身の存在が同じように苦しむ子どもたちの励みになればとカミングアウト。恵まれた容姿の裏側では、努力でハンディに立ち向かっている。

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ジェニファー・アニストン

 20代前半のころ、たまたま行った眼科検診でディスレクシアであることが判明したジェニファー。2015年に、『ハリウッド・レポーター』のインタビューの中で「それまでは自分は頭がよくなくて何も覚えられない人間だと思っていたの。診断されたことで子ども時代に経験したいろんなトラウマが理解できたわ」と告白している。

 また斜視の傾向があるため、写真を撮影するたびに修正が必要なことも同時に明らかにしている。

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キアヌ・リーブス

 ハリウッドのトップスターとして華やかな人生を送っているように見えるキアヌも、実はディスレクシアに長年苦しんできた。

 ディスレクシアのため高校を退学せざるを得なくなり、「私は多くの生徒のようにできなかった」と辛い過去についてたびたび語っている。しかしシェークスピアなどの演劇への強い関心があり、そのことが舞台芸術学校に入学することにつながり、ハリウッドへの道を切り開いてくれたと語っている。

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 資産520億 ジョージクルーニー25自分で髪を切ってる 

女子SPA! 2020年12月2日(水)8時45分配信

 2018年度「世界で最も稼いだ俳優」に選ばれた超大物俳優のジョージ・クルーニー(59)。下積み時代には極貧生活も経験したというが、売れっ子になった今では、推定資産は5億ドル(約520億円)とも言われている。過去には友人たちにそれぞれ1億円ずつ贈り話題になったが、そんな羽振りの良いジョージが「髪は自分でカットしている」と明かし、反響を呼んでいる。

25年間自分で髪を切っている

 このたび、米対談番組『CBSサンデー・モーニング』に出演したジョージ。新型コロナウィルスの感染が拡大するなか、どのような生活を送っているかについて話題が及んだ際、だいぶ前からセルフカットしていることを明かした。

「25年間自分で髪を切っている。見てよ、僕の髪って藁(わら)みたいなんだ。だから簡単にカットできる。ミスもあまりしない。『フロービー』っていう商品を何年も前に購入してね。子供の頃に見た掃除機とバリカンが一体化したあれさ。まだ、持ってるよ。だって本当に使えるから!」

『フロービー』は米カリフォルニア州で大工をしていた男性Rick Hunts氏が開発した商品で、1980年代にテレビショッピングで紹介されたことをきっかけに人気に火が付いた。

 価格は99米ドル~140米ドルで、日本円にすると約1万円~1万5000円。ジョージのように、1度購入したら長い間使い続ける人も多いようだ。実際、ジョージが出演した対談番組の放送後には、多くの『フロービー』ユーザーたちがSNSにコメントを投稿。「ジョージのおかげで、自分もフロービーでヘアカットしていることをおおっぴらに言えるぞ」「うちの父親もずっと使い続けてる」などと書き込んでいる。

 さらに、放送後には一時公式サイトにアクセスできない状態に。

 ヘアカットするのはあくまで自分の髪だけで、妻アマル・クルーニーの髪を切れるほどの腕前はないとも明かしているジョージ。そんな大スターのちょっとした告白が、大反響を呼んだ。

極貧時代を助けてくれた友人に感謝の1億円

 ジョージは今回、駆け出しの俳優として故郷のケンタッキー州からロサンゼルスへ移った頃のエピソードも披露している。

「あれはロサンゼルスへ引っ越すことにした1982年。かなり使い古された76年製のモンテカルロ(車)を持っていたんだ、サビだらけだった。ガソリンを入れて、エンジンをチェックし、3日間ドライブし続けた。エンジンはかけっぱなし、切ったら戻らなくなると思って。 でここに到着するや壊れた。そして自転車を買って、1年半の間、街中どこのオーディションに行くにも、それに乗って行っていたよ」

 この話を聞いてもわかるように、ジョージは下積み時代に極貧生活を経験。住む家もなく、友人の家を渡り歩いていたという。そんな苦難の時期を乗り越え、売れっ子俳優となったジョージは、これまで支えてくれた友人14人に約1億円をプレゼント。大金の入ったスーツケースをそれぞれの友人に渡し、感謝の気持ちを伝えたという。

 この驚きの出来事について、ジョージはのちにこう語っている。

「成功できたのは、35年間、自分を助けてくれた友人たちのおかげ。貧乏で金がなかった頃、家のソファーで寝かせてくれたり、お金を貸してくれたりした。みんなは、助けが必要だった時に助けてくれた。だから生きているうちに、恩返しがしたいと思った」

 また社会活動も積極的に行っており、犬の保護施設への寄付や、コロナ対策支援として世界各地にある6団体に合計100万ドル(約1億900万円)以上を寄付したと報じられている。

 有名人になっても、セルフカットして散髪代を節約しつつ、必要なところには大金を惜しみなく使うジョージ。そんなところも、「顔だけでなく心もイケメン!」と言われる所以かもしれない。

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ジョージクルーニー、スーダン大使館前デモ身柄拘束

 AFPBB News 2012年3月17日(土)13時40分配信 

 米俳優ジョージ・クルーニー(George Clooney)さんが16日、米首都ワシントンD.C.(Washington D.C.)のスーダン大使館前で抗議活動中に身柄を一時拘束された。クルーニーさんは他の参加者とともに、スーダンでの人権問題についての抗議活動を行っていた。

 大勢の取材陣のカメラが取り囲む中、父親でジャーナリストのニック・クルーニーさん(Nick Clooney、78)を含む10数人のメンバーらを率いて抗議活動を行っていたクルーニーさんは、退去を命じる警官の3度にわたる警告を無視した。

 その後警察はクルーニーさんと他の抗議活動参加者らにプラスチック製の手錠をかけ、警察車両へ誘導した。現場では何百人もの支持者らが「スーダンは食糧を武器に使うのをやめろ」と書かれたプラカードを掲げて取り囲み、スーダンのオマル・ハッサン・アハメド・バシル(Omar Hassan Ahmed al-Bashir)大統領を非難するスローガンを叫んでいた。

 クルーニーさんは3時間身柄を拘束された後、立ち入り禁止区域へ侵入した罰金として100ドル(約8300円)を支払い釈放された。

 長らくスーダンの人権擁護活動を展開してきたクルーニーさんは数日前、ひそかにスーダンの南コルドファン(South Kordofan)州を訪れていた。支援団体らによると、同州では少なくとも25万人が深刻な食糧不足に陥っているという。

 クルーニーさんは釈放後、記者団に対し「人災によって何万人もが亡くなる可能性が高い。これは飢饉ではなく、スーダン政府が引き起こす悲劇だ」と述べた。

 拘置所での扱いは「非常に乱暴」だったとクルーニーさんは冗談を言い、自分の知名度で南コルドファン州に注目が集まることを期待すると語った。

 同国では6週間後に雨期に突入し道路事情が悪化するため、支援物資の運搬が難しくなる。

 身柄拘束の直前、クルーニーさんは集まった支持者らに「世界最悪の人道危機を招かないために、今すぐスーダンに支援物資を届けられるようにさせなければなりません」と訴えた。

 クルーニーさんは、「2つ目の要求はごくシンプルなこと。スーダン政府は女性や子どもなど、罪のない自国民の無差別な殺害や強姦をやめるように。それと、国民を飢えさせないようにしろという事だけです」と語った。

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 ジョージ・クルーニー、プロポーズ時💕20分も片膝ついていた ! 

BAZAAR 2020年12月11日(金)18時55分配信

 ジョージ・クルーニーが、国際人権弁護士の妻アマルと、3歳になる双子のアレクサンダーとエラとの生活についてシェアした。
『ET Canada』の最新インタビューで、ジョージは双子がどちらの親の方が好きかなど、それぞれの子どもの性格について明かしている。また、子どもたちの将来の職業については、なりたいものになってほしいと断言した。

「娘は妻の方に似ているような気がする。ちゃんと整理するし、とても賢い。息子はとにかく人にイタズラするのが好きなんだ。どこから来ているのかわからないけど、たぶん母親に似たんだろうね」とジョークも。

 ジョージとアマルは2013年に出会い、熱烈な恋愛期間を経て1年後に結婚。ジョージは最近、CBSの『Sunday Morning』で「アマルと一緒になったことで僕の人生がすっかり変わったのは間違いない。彼女のすることや彼女のすべてが自分のことより限りなく重要だと思ったのは初めてのことだった」とシェアした。

 さらに婚約したときのことを振り返り、なんと約20分間も片膝をついていたことを明かした。「付き合っていたときに結婚について話したことはなかったけれど、彼女に突然尋ねたんだ。彼女がイエスと言うまで、私は20分ほど片膝をついていた。そしてついに言ったよ。『見て、腰が砕けそうだ』ってね」

 そして、結婚後これほどすぐ父親になるとは予想していなかったが、父親であることを受け入れ、楽しんでいると語った。

「2人のおチビちゃんたちが生まれて、とても充足感がある。こんなふうになるとは思っていなかったよ」

 ジョージは最新映画『ミッドナイト・スカイ』の役作りのための減量によって、膵炎になってしまい、入院したとも報じられた。「体重を減らすのに必死になってしまって、自分の身体に気を遣えていなかったんだ」

 それでも妻のアマルと元気な双子に支えられて、幸せな生活を送っているに違いない。

 

2020年11月13日 (金)

【日経平均】9日ぶり反落<コロナ“第3波”✍列島襲来>再々拡大に警戒感

 東京株〕9日ぶり反落=コロナ再拡大警戒感 

時事通信 2020年11月13日(金)15時30分配信

 前日まで続伸し過熱感が漂う中、欧米で新型コロナウイルスの感染が再び拡大したことで警戒感が強まり、売りが優勢となった。日経平均株価は前日比135円01銭安の2万5385円87銭と9営業日ぶりに反落。東証株価指数(TOPIX)は23.01ポイント安の1703.22と続落した。

 銘柄の82%が値下がりし、値上がりは16%だった。出来高は13億3373万株、売買代金は2兆7215億円。

 業種別株価指数(全33業種)はゴム製品、不動産業、空運業の下落が目立った。

 週末で手じまい

 13日の東京株式市場は終日軟調だった。12日の欧米株式市場で新型コロナウイルスの感染拡大に対する警戒感が強まり、リスク回避の動きが鮮明になった。東京市場でもこの流れが続き、利益確定売りが優勢。週末を控え、断続的に手じまい売りが出た。ワクチン開発期待で上昇が続いた後とあって「コロナへの警戒感がスピード調整のきっかけとなった」(銀行系証券)。

 日経平均株価は下落して始まり、午後には下落幅が約300円に拡大した。その後、値がさ株であるファーストリテ株が堅調だったため日経平均の下げ幅は縮小したが、地合いは弱く、約8割の銘柄が値下がりした。

 コロナの感染拡大の悪影響が大きい不動産株や空運株、陸運株などが売られた。一方で、ゲームなど「巣ごもり関連」と呼ばれる銘柄がにぎわった。

 東京外為〕ドル104円台後半=材料難揉み合い 

時事通信 2020年11月13日(金)15時30分配信

 13日午後の東京外国為替市場のドルの対円相場(気配値)は、新規材料が乏しい中、1ドル=104円台後半でもみ合っている。午後3時現在は104円88~88銭と前日(午後5時、105円27~28銭)比39銭のドル安・円高。

 前日の海外市場では、新型コロナウイルスの感染再拡大への警戒感から欧米株式が下落。東京時間ではリスク回避ムードや米長期金利の低下を受けて、午前9時台に105円を割り込んだ。その後は実需勢のドル買いが入って104円80~90銭台で下げ渋り、もみ合っている。

「市場では104円80銭を割ろうとする動きが続いているが、新たな材料がなければ105円台前半に戻り、居心地のいい水準に落ち着くのではないか」(FX会社)との声があった。

 新型コロナウイルスの感染再拡大による経済停滞の懸念からドルは上値が重い展開が続いている。

「米大統領選が終わり材料が乏しい中、市場はコロナ関係に反応しやすくなっている」(国内銀行)との指摘があり、ワクチンをめぐっては「楽観ムードから今後はあら探しをする展開となりネガティブ材料が出やすいのではないか」(先のFX会社)との見方があった。

 ユーロは対円で小幅安、対ドルで上昇。午後3時現在、1ユーロ=123円82~83銭(前日午後5時、123円92~93銭)、対ドルでは1.1806~1806ドル(同1.1771~1771ドル)。

 全国コロナ新規感染者1700超、2日連続最多 

毎日新聞 2020年11月13日(金)21時06分配信

 新型コロナウイルスの感染者は13日、全国で新たに1709人が確認され、初めて1700人を超えた。1日当たりの感染者数は12日の1653人を上回り、2日連続で過去最多を更新。クルーズ船の乗客乗員を合わせた国内の感染者数は11万6125人、死者は12人増えて1898人となった。

 東京都は374人で、3日連続で300人を超えた。大阪府は過去最多となる263人の感染を確認。北海道は235人で、前日に続き200人を超えた。また愛知県は148人、神奈川県は146人で、依然として大都市圏や北海道を中心に感染拡大が深刻化している。

 一方、長野県は過去最多の23人の感染を確認。茨城県も最多だった前日と同数の26人だった。山口県では繁華街のクラスター(感染者集団)の発生が確認されるなど、地方でも感染が広がりつつある。

岩手県盛岡市飲食店クラスター医師ら6人コロナ感染

岩手日日新聞 2020年11月13日(金)23時06分配信

 盛岡市と県は13日、新型コロナウイルスのクラスター(感染者集団)が同市大通の飲食店「ヌッフ・デュ・パプ」で発生し、新たに岩手医科大附属(矢巾町)、盛岡赤十字(盛岡市)、県立宮古(宮古市)各病院の医師5人を含む6人の感染が確認されたと発表した。現時点で院内感染は発生していないという。県内の感染は、12日夜発表の9人を含め計57人となり、相次ぐクラスターの発生により感染が拡大している。

 市などによると、感染が確認されたのは、岩手医大のいずれも医師の50代男性、20代女性(以上盛岡市)、20代男性(矢巾町)と事務職員の30代女性(盛岡市)、盛岡赤十字病院の40代医師男性(盛岡市)、宮古病院の20代医師男性(宮古市)。発熱や倦怠感などの症状があり、いずれも感染症指定医療機関に入院している。

 県内外の医師を含む医療関係者約20人が7日、同店でプライベートの会食をし、県外の医師1人を含む7人の感染が確認された。

 岩手医大では、関連する職員111人を検査し、不検出だったことから今後は通常通りの診療を行う。盛岡赤十字は、114人を検査し現時点で74人が不検出。今後患者38人の検査を予定している。感染した医師が担当していた血液内科外来は、当面休診とする。宮古は、感染した医師が派遣先の医療機関に勤務し、7日以降勤務実績がないことから、院内での濃厚接触者はおらず休診はしない。

 4件目のクラスター発生を受け県は、医療体制について、現在のフェーズ1(発生初期)から、フェーズ2(発生拡大期)の引き上げを検討していることも明らかにした。

 医師少数の本県で、複数の医師が感染したことによる地域医療への影響について、野原勝県保健福祉部長は「さらに感染が増えれば医療体制が逼迫する可能性はあるが、現時点では重大な影響を及ぼすものではないと考えている」との認識を示した。

 市では感染の可能性がある飲食店利用者の特定が難しいとして店名を公表した。従業員2人も感染が確認されているとし、今後詳細を発表する予定。10月24日~11月11日の利用者を最大で1日100人程度の約2000人と想定しており、市保健所や管轄の保健所へ相談するよう呼び掛けている。

滝沢女児ら9人

 12日夜には10歳未満~50代の計9人の感染が確認された。

 盛岡市などによると、感染が確認されたのはクラスター(感染者集団)関連で、同市菜園の飲食店「海鮮季節料理おおいし」で感染した経営者の家族で60代看護師女性のほか、店舗を利用したいずれも滝沢市の50代自営業男性と40代無職女性、10歳未満女児の家族の計3人。

 盛岡中央消防署葛巻分署関連では、職員の家族でいずれも滝沢市の50代会社員男性、50代教職員女性の計2人。

 10日に感染が確認された久慈市の県北広域振興局の職員関連では、県庁に勤務する県農林水産部の20代女性、同局農政部の20代女性と20代男性の計3人。県職員の4人はクラスターが発生した盛岡市大通の飲食店「ヌッフ・デュ・パプ」で7日に会食し、感染したとみられる。

 滝沢市では、教職員と女児の感染確認を受け、市内の小学校2校について、15日まで休校の措置を取った。対象は1500人程度で、今後濃厚接触者の状況などを踏まえ対応する。

 株で2億円稼いだ現役サラリーマンの教え「底値買い天井売りの罠 

ダイヤモンドオンライン 2020年11月14日(土)6時01分配信/弐億貯男

 大卒入社3年目のこと。貯金100万円を元手に、
40歳をちょっと過ぎるまでに株式投資で生涯賃金2億円を稼ぐことを決意した。
でも、投資はまったくの素人。完全に知識ゼロの状態だった。
そこで、日中はサラリーマンとして忙しく働きながら、
株式投資の入門書を買って勉強するところから始めた。
最初は短期売買を繰り返して失敗したが、
より落ち着いて取引できる中長期投資に方向転換したところ、“勝ちパターン”が見つかった。
どんどん資産を増やし、当初の計画前倒しで資産2億円達成!
サラリーマンにして株式投資で月400万、500万円の利益を出すことはざら。
多い月には1000万円を軽く超える含み益を得ている。
その投資手法は、堅実で着実。
『10万円から始める! 割安成長株で2億円』の著者・弐億貯男が、
すべてのサラリーマンにおすすめの投資スタイルを手取り足取り伝授する。
「会社の人は誰も知らないけれど、実はボク、いつ会社を辞めても大丈夫なんです!」――弐億貯男

底値も天井も後から ふり返ってわかるもの

 「株式投資は、底値で買って天井で売れば最大限儲かる」

 こう聞くと、株式投資で儲けるのは簡単に思えます。

 しかし、実際に株式投資をやってみると、それは難しいことがわかります。

 底値と思って買った株がさらに下がり続けたり、天井だと思って売った株がさらに上がり続けたりすることがあるからです。

 底値も天井も神のみぞ知るようなもので、あくまでも後からふり返って、「あのときが底だったのか」とか「あのときが天井だったのか」とわかるものなのです。

 株価は景気(経済動向)と密接に関連していますが、底値で買おうとしても、現在進行系で「いまが景気の底だ!」とはわからないものです。

 今年は新型コロナウイルスの蔓延により、景気が悪化して株価が急落し、いまでは「コロナ・ショック」と呼ばれるようになっています。

 コロナ・ショックでは、日経平均株価が2月下旬から急落し、3月19日に1万6552円83銭と約3年半ぶりの安値を付けましたが、あの日に「いまが底値だ!」と判断できた人が果たしていたでしょうか?

 底値というものは、やはり後からふり返ってわかることであって、その時点では、いまが底なのか、さらなる株価の下落が待ち構えているのかは判断がつきません。

景気が悪くなったときに 投資を始めるのは正解

 景気が悪化しているときに株式投資をはじめるという考え方は、目の付け所が良くて正しいと思います。

 実際、株価が下落した今年2月後半から、多くの証券会社で新規口座開設数が増加したそうですから、「今が投資のチャンスだ」と考えて株式投資をはじめた人が多かったのでしょう。

 ただし、景気の底に達してから反転するまで1~2年かかる可能性もあります。

 そうなれば、景気の底から反転するまでに膨らむ保有株の含み損に耐えかねて損切りしてしまい、相場から退場しかねません。

 そうならないように、少なくとも余裕資金を一度に全額投入することは、手控えたほうがいいと思います。

 一方、保有株を天井でピンポイントに売るというのも至難の業です。

 私は2008年のリーマンショックの際、非正規雇用の労働者の雇い止めが発生しているのを見て、株価が大幅下落していた業務請負の銘柄を買いました。

 その後の景気回復の過程で、その銘柄の株価は50倍くらいまで上昇したのですが、私は底値から株価が2倍くらい上昇したところで利益確定してしまいました。

 底値と同じく天井の株価も事前に予測することはできませんし、その時点で「いまが天井だ」とわかるものでもありません。

 結局、底値も天井も、後からふり返ってわかるものなのです。

 だからこそ、株価が上昇して、ある程度含み益が膨らんだところで、利益確定したいという誘惑に駆られるのです。

 やはり、底値で買って天井で売り、最大限に儲けようというのは難しい。

 言うは易し、行うは難し、なのです……。

 刺激を与えない”ほうが人は創造性が高まる 

ダイヤモンドオンライン 2020年11月14日(土)6時01分配信/ブルース・デイズリー

 イギリスからの翻訳書『Google・YouTube・Twitterで働いた僕がまとめたワークハック大全』が本年9月に発売された。コロナ禍で働き方が見直される中で、有益なアドバイスが満載な1冊だ。著者のブルース・デイズリー氏は、Google、YouTube、Twitterなどで要職を歴任し、「メディアの中で最も才能のある人物の1人」とも称されている。本書は、ダニエル・ピンク、ジャック・ドーシーなど著名人からの絶賛もあって注目を集め、現在18ヵ国での刊行がすでに決定している世界的なベストセラー。イギリスでは、「マネジメント・ブック・オブ・ザ・イヤー 2020」の最終候補作にノミネートされるなど、内容面での評価も非常に高い。本連載では、そんな大注目の1冊のエッセンスをお伝えしていく。

なぜ、僕たちは”せっかち病”に陥っているのか?

 最近、ある人から興味深い話を聞いた。その人が子どもの頃、仕事から帰ってきた父親が、ただ椅子に座っていることが多かったというのだ。

 テレビも見ないし、ラジオも聞かない。本も読まないし、誰かと話をするわけでもない。ただ、椅子に座り、静かにじっとしていた。何を考えているの、と尋ねても、「別に」としか答えない。

 積極的に何かを思考しているのではなくて、ただ穏やかに心の中を見つめているだけだからだ。

 現代では、こんなふうに何もしないことは、風変わりで非生産的な行為だと思われている。世の中には刺激が満ちあふれ、すべきこともたくさんあり、行動的であることがよしとされている。

 そんな時代では、何もしていないことは野蛮であり、時間の無駄だと見なされる。こうして僕たちはみんな、”せっかち病”にかかっているのだ。

 それは、必ずしも悪いことではない。忙しく動き回っているからこそ、僕たちには多くのことを成し遂げられる可能性がある。

 「仕事を頼むのなら、忙しい人に頼め」というビジネスの世界の格言もある。僕たちは、行動こそが生産性を向上させると信じているのだ。

 ニューヨーク・タイムズ紙は2004年の記事で、街中の交通量の多い交差点の横断歩道の歩行者用ボタンが、ピーク時には青信号までの時間を短縮する仕組みにはなっていないことを報じている。

 歩行者はボタンを押したことで目の前の信号が早く青になったような感覚を得るが、これはプラセーボ効果にすぎない。

 細かく調整された交通システムは、通勤で急いでいる歩行者ではなく、大量の自動車をうまく捌くことを主眼にしてつくられている。

 世の中にはこんなふうに、”早く何かを終わらせなければならない”という思いに駆り立てられているせっかちな僕たちの気を紛らわせるためにつくられた、ダミーのシステムがいくつもある。

 なぜ、僕たちは”せっかち病”に陥っているのか?

 絶えず過剰な刺激にさらされている現代人は、”すべきことを全部終わらせられない”という絶え間ない不安につきまとわれている。

 インターネットが普及したことで仕事量も増えた。米カリフォルニア州の市場調査会社ラディカティ・グループによれば、現代人は1日当たり平均で約130件のメールを送受信している。

 この数字は世界中のメールユーザー全28億人を対象にしたもので、先進国のオフィスワーカーは毎日200件近くのメッセージを送受信していると考えられている。

 そして、会議だ。

 企業の大半は、社員が会議に費やしている時間の正確な記録をとっていない(たぶん、世間にそれを知られるのを恥ずかしいと思っているからだ)が、最近の調査によれば、イギリスの平均的な会社員は週に16時間を会議に費やしている。

 アメリカの管理職は週に23時間を会議室で過ごしているという調査結果もある。

急かされている気分になったら本当に急ぐべきかと自問する

 問題はメールや会議だけではない。現代人が毎日処理している情報の量は、めまいがするほど膨大だ。

 情報化時代への対処方法を脳科学の視点から解き明かした『The Organized Mind』の著者ダニエル・J・レヴィティンはこう述べている。

 「2011年にアメリカ人が1日に処理している情報の量は1986年の5倍だ。そのデータ量は新聞175紙分に相当する。仕事以外の余暇の時間にも、毎日34ギガバイトまたは10万ワードの情報を処理している」。

 その結果、人々は常に不安な気持ちにさせられている。僕たちの親の世代なら、手書きの「やることリスト」のいくつかが残っていたら、不安になったかもしれない。

 僕たちは受信トレイを空にしたときにちょっとした喜びを感じることはあるが、それすらもどこか他の場所でやり残したことがあるのを忘れているかもしれないという不安で打ち消されてしまう。

 ”せっかち病”は深刻な症状だ。常に仕事から離れられないと考えている人の不安レベルが高いという調査結果が出ているのもそのためだ。

 イギリスでは、従業員が会社を休む理由の半分が、仕事上のストレスから生じた病気によるものだ。仕事の多さやプレッシャーは、僕たちを病気にしているのだ。

 この切迫感に抗うために、何ができるか。

 まずは、”いつも忙しくしているからといって、良い仕事ができるわけではない”と自覚することから始めよう。

 ロンドンの有名な建築家グループの1人から、こんな愚痴を聞かされたことがある。

 「会議は、以前は週に1回だけだった。必要なことはその会議ですべて話しあい、あとは仕事に打ち込めばよかった。それが、いまは会議だらけだ。会議についての会議をしているといった有様だ」。

 その結果、業績は良くなったのだろうか。

 「会社が手がけている建物の数は、以前と変わらない。違いは会議が増えて、仕事がキツくなったことだけさ」。

 次に考えるべきは、その仕事の緊急度を見極めることだ。「ASAP」(as soon as possible
=できるだけ早く)という仕事の世界でお馴染みの頭文字は、僕たちの職場に不要な不安を引き起こしている。

 ソフトウェア企業ベースキャンプ社の創業者は言う。

 「ASAPという言葉は膨張する。いつのまにか、ASAPというラベルを貼ることが、仕事を片づけるための唯一の手段になってしまう」。

 急かされているような気分になったときは、本当にそれがASAPでしなければならないものなのかを自問してみよう。

 急ぐ必要があるものとそうでないものをうまく分別できるようになれば、自分の心を冷静に見つめられるようにもなるし、周りにも良い影響を与えられる。それは、良い労働環境をつくることへの貢献にもなる。

 じっくりと自分と向きあう時間や、あえて何もしない時間も必要だ。心の平穏や静寂を感じる瞬間はストレスレベルを下げるし、創造性も高まる。

 「退屈」の研究で知られる英セントラルランカシャー大学のサンディ・マン博士は、デフォルトネットワークの力を利用すべきだと主張している。

 「ぼんやりと考えごとをして、心をさまよわせていると、人の思考は意識を超えて、潜在意識に入り始める。それは、さまざまな結びつきを可能にし、極めて大きな価値をもたらす」。

 つまりデフォルトモードに入ると、脳の中にある異なるアイデア同士が意外な形でつながり始める。エネルギーは、急いで何かをすることではなく、楽しい夢の状態を歩き回ることへと向けられる。

 ただしこの状態に入るには、退屈さとじっくりと向きあう必要がある。携帯電話で遊んだり、オーディオブックを聴いたりしてはいけない。心を刺激から解放しなければならないのだ。

 逆に、せっかち病に陥るときは、悪循環に嵌まっていることが多い

 「人はストレスを感じると、注意の対象を素早く切り替えるようになることがわかっている」。この分野の研究者であるグロリア・マーク博士は言う。

 当然ながら、落ち着きなく注意の対象を切り替えるほど、さらにストレスは高まる。こうした状態が続くと、長期的に甚大な悪影響も生じ得る。

 毎日夜になると、スマートフォンで次々に画面を切り替えながらSNSやネットサーフィンなどをして過ごしている10代の若者を長期的に調べた研究がある。

 その結果、2年後、自分の将来や社会問題の解決策を考える際、これらの子どもたちの想像力や創造性が低下していたことがわかった。

 冒頭の仕事を終えて帰宅するとしばらくじっと椅子に座っていた父親は、何もしていないわけではなかった。

 それは、自由に心をさまよわせるための時間だったのだ。

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2020年10月24日 (土)

【耳学】ノーベル経済学賞2020受賞<オークション理論>とは何ぞや!?

 ノーベル経済学賞に電波オークション日本のTVは説明できない? 

J-CASTニュース 2020年10月22日(木)17時00分配信/高橋洋一(内閣官房参与)

 今年(2020年)のノーベル経済学賞は、アメリカのスタンフォード大学のポール・ミルグロム氏とロバート・ウィルソン氏の2人が受賞した。

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 その受賞理由を、スウェーデン王立科学アカデミーは「電波の周波数の割り当てなど、従来の方法では売ることが難しかったモノやサービスに使われる新たなオークションの制度設計を行い、世界中の納税者などの利益につながった」としている。

導入議論は以前からあったが...

 かつては世界各国とも、電波について誰に割り当てるべきかは政府が判断する「比較審査」方式がとられていた。しかし、政府がそれを適切に行える能力もないし、せいぜい既得権を作るのが関の山だ。

 というわけで、実務でオークション(入札)がとられてきたし、それとともに、学会での研究も進み、今回受賞したミルグロム氏やウィルソン氏も制度設計を行い、2G周波数オークションを成功させた。それは、3G以降に多くの国でのオークション導入につながったわけで、たしかに多くの国の納税者の利益になった。

 ところが、この受賞理由を、日本の地上波テレビはまともに説明できない。というのは、先進国で電波オークションを導入していないのは日本だけだ。今では、インド、タイ、台湾、パキスタン、バングラディッシュ等にも広がっている。

 もちろん、日本でも、議論は以前からあった。例えば、1995年行政改革委員会規制緩和小委員会などだ。筆者は、総務大臣補佐官として総務省に出向したこともあるが、そのとき、通信と放送の融合の研究会での議論を間近で見た。研究会の内外において総務省(郵政省)、携帯事業者・放送事業者など既得権者が強力に反対していた。

 もっとも、世界各国でオークションが導入されているのは、基本的に携帯電話の周波数帯への新たな割当だ。本来は放送事業者の周波数帯はあまり関係ないはずだが、なぜか放送関係者は、「電波オークション」と聞くと、条件反射し過剰反応する。「電波オークション」という言葉は、地上波では事実上禁句だ。

 国民共有財産を売るときには会計法では入札を原則としている。なのに、電波になると、その入札の要素が一切に無視されて割当が続けられてきたのは不思議だった。

ようやく法改正も、今後の設計制度次第に

 しかし、ようやく2019年に電波法改正で「価格競争の要素を含む新たな割当方式」が創設された。先進各国から20~30年以上遅れて、やっと電波オークションができうる制度になった。ただ、この改正で、入札の要素を入れられるようになったものの、その割合が1%なのか99%なのかは、今後の制度設計次第である。

 現状では、放送は、地上波テレビ用だけで470-710MHzで40チャンネル分も占めていて、貴重資源の利用方法としてはあまりにもったいない。

 いまさら放送のために電波オークションをしても、インターネット技術が進み安価に放送ができるようになったので、それほどのニーズはないだろう。むしろ、現時点では、5G導入に際して転用ニーズのほうが高いだろう。5Gの次の6Gも技術は似ているので、転用ニーズは今後10年程度もあるだろう。アメリカ、中国などではそうした動きになっているので日本もそれに対応していかなければならない。

++ 高橋洋一プロフィール高橋洋一(たかはし よういち) 内閣官房参与、元内閣参事官、現「政策工房」会長 1955年生まれ。80年に大蔵省に入省、2006年からは内閣参事官も務めた。07年、いわゆる「埋蔵金」を指摘し注目された。08年に退官。10年から嘉悦大学教授。20年から内閣官房参与(経済・財政政策担当)。著書に「さらば財務省!」(講談社)、「FACTを基に日本を正しく読み解く方法」(扶桑社新書)、「国家の怠慢」(新潮新書、共著)など。

 日本でされた電波オークション」がノーベル経済学賞受賞 

ニッポン放送 2020年10月24日(土)13時50分配信

 ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」(10月20日放送)に数量政策学者の高橋洋一が出演。ノーベル経済学賞を受賞した「オークション理論」について解説した。

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ノーベル経済学賞~オークション理論

飯田)ノーベル経済学賞が出ました。授賞理由は「オークション理論の改善と新たな形式の発明」というものです。

高橋)90年代にあった話なので、古い原理なのですけれどね。総務省にいたときに電波オークションをやりたかったのですが潰されました。ノーベル賞授賞理由のときに「電波オークションによって、世界の納税者がみんな得をした」と解説していたのですが、残念ながら「日本を除いて」です。

飯田)1994年にアメリカで電波オークションをやったときに、今回受賞した2人の学者さんは実際の制度設計でなかに入っていたのですよね。

高橋)もちろんそうです。電波オークションはもともと会計法です。会計法というのは原則入札です。会計法から考えると、国民共有財産を入札するのはごく自然な話です。

飯田)電波と言われると電波法の方を思いますが、会計法の方なのですね。

高橋)国民共有財産ですから。それをどのようにやるかは随意契約してはいけなくて、原則入札です。そういう意味では、オークションというのは、まさしく会計法を具体化する手段です。

飯田)オークションと英語で言いますが。

高橋)入札ですよ。

飯田)電波オークションと一言で言っても、アメリカでやった方式とヨーロッパ各国でやった方式といろいろ違いますよね。

高橋)ざっくり言えば、入札は入札で一緒です。でも随意契約とはまったく違います。

飯田)新規参入を募った方が高い金額で売れたりしたところがあったけれども、一方でやっていたら途中で潰れてしまう会社が出て、市民に不利益が生じたのではないかと指摘する人もいますが。

高橋)随意契約とどちらがいいかという話です。オークションの方がミスが少なくまともです。随意契約で変なところに割り当てて、ずっと続いているよりはフェアでいいでしょう。だから会計法では入札しろと書いてあります。

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 ノーベル経済学賞受賞、最新オークション理論の活用を急げ 

JBpress 2020年10月21日(水)6時01分配信/坂井 豊貴(慶應大学経済学部教授)

 2020年10月12日午後6時45分。私はNHKの局内で、 経済部の人々と一緒に、ノーベル経済学賞の発表を待っていた。私の役目はその年の受賞者や受賞理由を説明することだ。我々はスウェーデンの発表会場が中継されるモニター画面を眺めている。会場にはまだ選考委員が到着していないが、すでに世界各国からの記者で熱気にあふれている。

 やがて記者会見に臨む選考委員会の少数名が、会場に入ってきた。いったい誰が来るのだろう。ああ、アンダーソンがいる。選考に深く関係した選考委員しか、この会場までは来ない。今年は遂にミルグロムだ。ミルグロムと同じく理論の実用化に注力するアンダーソンなら、偉大なる先駆者ミルグロムをどうしても選びたいだろうから。

 選考委員らが着席。すべての記者の雑談が止まり、会場は静まりかえった。走る緊張。選考委員長のフレデリクソンが受賞者と分野、そして受賞の理由を読み上げた。 オークション理論の発展と新方式の開発について、ポール・ミルグロムとロバート・ウィルソンにノーベル経済学賞を授賞するとのことだ。会場には小さなどよめき。より専門的な内容についてアンダーソンが解説を始めた。きっと選考委員1年目の彼は、自分がなすべき仕事をできたことについて、一定の安堵と興奮を覚えているだろうと勝手に想像する。

 蓮實重彦は随筆「文学の国籍をめぐるはしたない議論のあれこれについて」で、「そもそも、ノーベル文学賞というものは、スウェーデン・アカデミーというあくまでお他人様が集団的に演じてみせる恒例の年中行事」だと呆れるように述べた(『随想』に所収)。おっしゃる通りである。そのうえで、このお祭りのような年中行事に、私を含む多くの経済学者は結構な関心をもつ。

 私が受賞できないことは申し訳ないのだが、自分の尊敬する学者や分野が受賞するのは嬉しいものである。さらにそこにはフェアネスへの関心まで伴う。「この人はもらうべきだ」「この人の貢献を認めないのはアンフェアだ」と思う人に、もらってほしいのだ。私にとってその人とはミルグロムであった。

ついに見識を示せた選考委員会

 2012年にアルヴィン・ロスとロイド・シャプレーがノーベル経済学賞の桂冠に輝いた。「安定配分の理論とマーケットデザインの実践について」という授賞理由であった。近年の経済学は、具体的な現実問題を解決する工学的アプローチが盛んになっており、その潮流を先導するのが、マッチング理論とオークション理論を両輪とするマーケットデザインである。

 なお、ここでいう「工学的」アプローチの対義語は、市場や人間活動の一般原理を探る「理学的」アプローチとなろう。個別具体的な問題を解決するよりは、一般理論を構築しようという態度は「理学的」である。

 これはあくまで私の感覚だが、2012年のノーベル賞は、明らかにミルグロムを外したものであった。マーケットデザインを授賞分野にするならば、工学的アプローチ自体のパイオニアのような、ミルグロムが入って然るべきである。しかも賞の定員は3人だから、彼を入れることは制度的に可能なのである。

 なぜこれまでミルグロムが外されてきたのか。邪推はいろいろと思い付くが、それを開陳するのは止めておこう。何であれ、賞というのは受ける側でなく、授ける側の見識が問われるものだ。遅くなりはしたが、ノーベル経済学賞の選考委員会は、一定の見識が備わっていることを今回の授賞で示せた。影響力ある賞が不見識だと社会的な害が大きいので、これは良いことである。

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周波数オークションでの新開発

 ここではミルグロム、そしてウィルソンの貢献の偉大さを簡単に説明したい。

 まず両者は1994年に始まった、米国における周波数オークションの制度設計者である。そこで彼らは「同時競り上げ式」という新方式を開発し、2013年までに8兆円を超す収益を国庫にもたらした。

 なお、このオークションは通信事業に必須の周波数免許を事業者に販売するものだ。日本は先進国でほぼ唯一、オークションではなく総務省が行政裁量で免許を割り当てており、周波数オークションはいまだ広くは知られていない。

 簡単に言うと、ミルグロムとウィルソンらは、「机と椅子を上手く売る方式」を開発した。机と椅子はバラ売りするほうがよいのか、セット売りのほうがよいのか、これは単純なようで難しい問題である。片方だけ欲しい客も、セットでないと欲しくない客もいるからだ。売る側としては、バラ売りとセット売り両方の可能性を最後まで捨てずに売りたい。

 そこでミルグロムとウィルソンは、「机と椅子を個別に競り上げ式オークションで売る、ただし両方の競り上げが止まるまではどちらのオークションも開きっぱなしにする」方式を開発した。細部はさておき、このような方式にすると、バラ売りで欲しい人も、セット売りでないと欲しくない人も、ともに入札に参加できる。

 周波数オークションでは、さまざまな地域や帯域の周波数免許があって、事業者はさまざまな組み合わせに対して「これは欲しい、これはいらない」と判断する。その状況は「机と椅子」だけよりも、ずっと複雑である。同時競り上げ式オークションはその複雑な状況で理想的に機能した。

 ミルグロムの著書『オークション理論とデザイン』(東洋経済新報社)は、原題を「Putting Auction Theory to Work」という。直訳すると「オークション理論を実際に機能させる」となろう。彼とウィルソンは、それまで理論家が紙と鉛筆だけで描いていたオークション理論を、社会に実装したのだ。

実用性を高めてきたオークション理論

 ウィルソンの有名な研究は、共通価値オークションについてのものである。従来、オークション理論で入札者は「自分にとって、この商品の価値はこの数値」といった価値づけをもつとされていた。これを「私的価値」という。一方の「共通価値」は「誰にとってもこの商品の価値はこの数値」といったものだ。例えば、ある地域の油田の採掘権は、共通価値である。誰がその地域で油田を採掘しても、出てくる石油の量は等しいからだ。

 さらにミルグロムは「相互依存価値」というものを考案した。これは私的価値と共通価値の両方を併せ持つもので、商品の価値は、各人にとっての私的な部分と皆で共通する部分からなる。土地は相互依存価値の典型例だ。土地の価値は、各人がその土地にもつ私的な愛着と、資産性という皆で共通する部分からなるからだ。

 私はデューデリ&ディールという会社でチーフエコノミストとして、土地をオークションで売却する事業に携わっている(*)。そこではオークション方式の設計や修正にオークション理論を活用しているが、相互依存価値モデルは、我々の考察の土台になっている。私の経験でいうと、ウィルソンやミルグロム以前のオークション理論は、あまりビジネスでの実用に耐えるものではない。土地や金融商品のように資産性がある商品は、金銭規模が大きいためオークション実施のメリットが大きいのだが、私的価値モデルでは扱えないからである。

経済学のビジネス活用は早いほど有利

 学問は、再現性や一般性をきわめて高く尊重する、特殊な人間活動である。その特殊性は非常にビジネスに向いている。まずは成功を再現したり、失敗を再現しないために、学問は有用である。そして、あるケースでの成功を、他の一般ケースに拡張するために有用である。

 正直に言うと私は「経済学やオークション理論が役に立つのか」といった議論には、いまは全く関心がない。そのようなステージはとうに終わっており、あとは使って利益を得るか、そのようにしないかを自分で選ぶだけだからだ。日本でも経済学のビジネス活用は脚光を浴びている。いまはアーリーアダプターが成果を上げ始め、より広い導入が進みつつある。富の源泉が、物資や工場といった有形資産から、知識や情報といった無形資産に変わる時代においては、起こるべくして起こっていることである。

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 (*)デューデリ&ディールでは「オークション・ラボ」というワークショップを定期的に開催し、オークション理論に関心のある来場者の方々と交流している。拙著『メカニズムデザインで勝つ ミクロ経済学のビジネス活用』(日本経済新聞出版)では、オークション・ラボの様子をまとめた。経済学のビジネス活用に関心ある方は、本記事と併せてお読みいただきたい。

 ノーベル経済学賞受賞は10人以上、「ゲーム理論研究者が多い 

ダイヤモンドオンライン 2020年10月11日(日)6時01分配信

 世界的に有名な企業家や研究者を数多く輩出している米国・カリフォルニア大学バークレー校ハース経営大学院。同校の准教授として活躍する経済学者・鎌田雄一郎氏の新刊『16歳からのはじめてのゲーム理論』(ダイヤモンド社)が発売され、たちまち重版となり累計2万部を突破した。本書は、鎌田氏の専門である「ゲーム理論」のエッセンスが、数式を使わずに、ネズミの親子の物語形式で進むストーリーで理解できる画期的な一冊だ。

 ゲーム理論は、社会で人や組織がどのような意思決定をするかを予測する理論で、ビジネスの戦略決定や政治の分析など多分野で応用される。最先端の研究では高度な数式が利用されるゲーム理論は、得てして「難解だ」というイメージを持たれがちだ。しかしそのエッセンスは、多くのビジネスパーソンにも役に立つものである。ゲーム理論のエッセンスが初心者にも理解できるような本が作れないだろうか? そんな問いから、『16歳からのはじめてのゲーム理論』が生まれた。

 各紙(日経、毎日、朝日)で書評が相次ぎ、竹内薫氏(サイエンス作家)「すごい本だ! 数式を全く使わずにゲーム理論の本質をお話に昇華させている」、大竹文雄氏(大阪大学教授)「この本は、物語を通じて人の気持ちを理解する国語力と論理的に考える数学力を高めてくれる」、神取道宏氏(東京大学教授)「若き天才が先端的な研究成果を分かりやすく紹介した全く新しいスタイルの入門書!」、松井彰彦氏(東京大学教授)「あの人の気持ちをもっとわかりたい。そんなあなたへの贈りもの。」と絶賛された本書の発刊を記念して、著者が「ダイヤモンド・オンライン」に書き下ろした原稿を掲載する。

ノーベル経済学賞とゲーム理論

 ゲーム理論がビジネスで実際に役立つ例は、グーグルやフェイスブックなど枚挙にいとまがない。そして、ゲーム理論を学ぶことは日常生活でより良い意思決定をするために一役買う。「ゲーム理論」の思考法を身につけていることは、現代ビジネスパーソンに必須であろう。

 しかしこのゲーム理論、学術的にはどう見られているのだろうか?

 ゲーム理論は数学の一分野であり、経済学・生物学・社会学・政治学など広い学問分野に応用先がある。中でも経済学とのつながりは密接だ。ゲーム理論家もしくはゲーム理論に関わる研究をした研究者にノーベル経済学賞が授与されたことがあることからも、これはよく分かる。(「ノーベル経済学賞」は正式には「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」と呼ばれるそうであるが、ここではそう固いことは言わずに、単に「ノーベル経済学賞」という呼称を使う。)

 本稿では、ノーベル経済学賞の歴史を通じてゲーム理論がいかに「重要理論」であるかを見ていこう。もちろんノーベル経済学賞の対象になったから必ず重要であるとか、そうでないから重要ではないということではないが、それでも同賞受賞は理論の重要性の一つの指標になるだろう。

 また、私自身経済学博士を持つゲーム理論家であるので、この「経済学」という切り口でなら、自信を持ってゲーム理論の重要性の説明ができる。さらに、今年(2020年)のノーベル経済学賞受賞者の発表は、明日(10月12日)である。明日の発表の前に、せっかくだから基礎知識をつけておこう。もしかしたら、今年のノーベル経済学賞はゲーム理論家に贈られるかもしれないから。

 ノーベル経済学賞が初めてゲーム理論家に与えられたのは、1994年のことだ。この年に、いわゆる「ナッシュ均衡」で知られるジョン・ナッシュ氏、そしてその「均衡」という概念をより現実的な状況の分析に対応できるように拡張することに成功したジョン・ハルサニ氏およびラインハルト・ゼルテン氏が、ノーベル経済学賞を受賞した。

 ナッシュ氏は『ビューティフル・マインド』というハリウッド映画でその半生が描かれたので、皆さんも聞いたことがあるかもしれない。

 彼らの受賞は大いにゲーム理論界隈を盛り上がらせた。もっと早くにゲーム理論家の受賞が決まってもよかったのではないかとの声もあったようだが、一説によると統合失調症を患っていたナッシュ氏の回復を待っての授与だったということだ。

 ナッシュ氏の前にゲーム理論への功績で他の誰かに受賞させるわけにはいかないほどナッシュ氏の功績は甚大であったので、ナッシュ氏の回復を待った、というわけだ。

 その後、堰を切ったかのように、数多くのゲーム理論家が同賞を受賞している。専門家によって誰をゲーム理論家と呼ぶか、もしくはどの年の受賞をゲーム理論と結びつけるかは見解の分かれるところだろうが、私の勘定では今のところ16人ものゲーム理論家もしくはゲーム理論に関わる研究をした人物がノーベル経済学賞を受賞している(記事末の[付録]にあるリストを参照)。

著者が出会ったノーベル賞経済学者たち

 なぜそんなにも多くの受賞者が出ているのか? それはひとえに、ゲーム理論が実に様々な社会状況の分析に応用できるということにあると、私は考える。ゲーム理論の守備範囲の広さを感じていただくために、受賞者のうちの何人かを、ここで簡単に紹介しよう。紹介するだけではつまらないかもしれないので、私が幸運にも直に接することのできた受賞者たちの素顔を、皆さまにもおすそ分けしたい。

 2005年にはロバート・オーマン氏およびトマス・シェリング氏が受賞した。特にオーマン氏はゲーム理論界の巨人であり、現代のゲーム理論に及ぼした影響は甚大である。受賞理由は人々の間の長期的関係の分析であるが、それ以外にも「知識」に関する数学的研究や、ナッシュ均衡を発展させた均衡概念(「相関均衡」という)の研究を通して、ゲーム理論の発展に大きく寄与してきた。

 彼の論文はどれも、私のようなより現代の研究者が読んでも示唆に富み、ワクワクするものだ。オーマン氏は私の学部生時代の指導教官の指導教官の指導教官の指導教官である。つまり学問上の曽々祖父にあたるわけだ。

 というわけで彼と学会で初めて話した時は非常に緊張したのを覚えている。間違えて「私はあなたの学問上のひ孫なんです」と自己紹介したら、「いや、ひひ孫だね」と訂正された。

 2012年にはアルヴィン・ロス氏とロイド・シャプレー氏がマッチング理論への貢献で受賞した。マッチング理論とは、新入社員を希望部署に配属させたり、研修医の配属先病院を決定したり、生徒の入学先学校を決定する際に使える理論であり、ここにもゲーム理論が役立つ。

 ちなみにロス氏は実験経済学にも多大な功績があり、シャプレー氏は協力ゲームと呼ばれる分野や人々の間の長期的関係の理論への貢献を通じゲーム理論黎明期を支えた重要人物である。

 また、ロス氏には私の博士論文審査委員になってもらい、大変お世話になった。ノーベル賞をもらうほどの研究者というとどこか性格的な欠陥がありそうだという先入観があるかもしれないが、彼は周囲からの信頼も厚く、「いい人」を絵に描いたような人格の持ち主であった。

 2014年にはジャン・ティロール氏が、「市場の力と規制についての分析」への貢献でノーベル経済学賞を受賞した。ティロール氏は特に、市場が限られた数の大企業で支配されている状況を分析したが、その分析にゲーム理論が使われたのだ。

 ティロール氏はこのように市場や規制といったゲーム理論の応用的分野での貢献でも知られるが、ゲーム理論を純粋理論として研究した成果でもよく知られている。

 彼は、応用ゲーム理論の話から純粋ゲーム理論の話まで、どんな研究アイディアの話をしても的確なコメントを返してくる、スーパーマンのような研究者だ。

 実は我が家族で南フランスはトゥールーズのティロール家を訪ねる機会があったのだが、これまたひどく緊張したものだ。もう8年も前のことだが、私の震える手でカチカチ鳴るティーカップの音が高い天井に響き渡ったのを、今でも覚えている。

 このように、経済学で重要とみなされている様々な分析に、ゲーム理論が活用されてきた。今年のノーベル経済学賞も、下馬評だと、実はゲーム理論家がもらう公算はそれなりに高そうだ。こんなゲーム理論が実際どんなものなのか、知っておいた方がいいと思いませんか?

 [付録]
 最後に、ゲーム理論関係のノーベル経済学賞受賞者リストを紹介する。丸括弧は、ゲーム理論関係ではない同時受賞者で、角括弧が、公式受賞理由である。受賞理由をそれぞれ丁寧に解説することはスペースの関係上できないが、ゲーム理論の守備範囲の広さを何となくでいいので実感していただければ、と思う。

 1994年: ハルサニ氏、ナッシュ氏、ゼルテン氏 [非協力ゲームの理論における均衡の先駆的分析に]
 1996年: (マーリーズ氏、)ヴィックリー氏 [非対称情報下での誘引の経済理論への基礎的貢献]
 2001年: アカロフ氏、スペンス氏(、スティグリッツ氏)[非対称情報下の市場の分析に]
 2005年: オーマン氏、シェリング氏 [ゲーム理論分析を通じて紛争と協調の理解を推し進めたことに]
 2007年: ハーヴィッツ氏、マスキン氏、マイヤーソン氏 [制度設計理論の基礎を築いた貢献に]
 2012年: ロス氏、シャプレー氏 [安定的な分配とマーケットデザインの実用に]
 2014年: ティロール氏 [市場の力と規制の分析に]
 2016年: ハート氏、ホルムストローム氏 [契約理論への貢献に]

※ 鎌田雄一郎(かまだ・ゆういちろう)
1985年神奈川県生まれ。2007年東京大学農学部卒業、2012年ハーバード大学経済学博士課程修了(Ph.D.)。イェール大学ポスドク研究員、カリフォルニア大学バークレー校ハース経営大学院助教授を経て、テニュア(終身在職権)取得、現在同校准教授。専門は、ゲーム理論、政治経済学、マーケットデザイン、マーケティング。著書に『ゲーム理論入門の入門』(岩波新書)、『16歳からのはじめてのゲーム理論』(ダイヤモンド社)。

 

2020年10月19日 (月)

【醜聞】同情せずにはいられない<金メダル有力候補の不倫報道>その“賢妻”独占インタビュー

 瀬戸大也選手の優佳さんこのままでは家庭が壊れてしまうかもと思っていました 

現代ビジネス 2020年10月19日(月)7時02分配信

 水泳日本五輪代表の瀬戸大也選手の不倫が週刊新潮で報じられたのは、2020年9月24日のこと。保育園のお迎えの前の時間を使った不倫という衝撃と、それ以外の浮気の話も露出し、世論は騒然となった。ANAの契約解除、味の素などの広告契約終了、競泳日本代表主将辞退に加え、10月13日火曜日には日本水泳連盟から年内の活動停止、2020年下半期のスポーツ振興基金助成金推薦停止、今後の教育プログラム受講などの処分を言い渡された。

 妻の優佳さんは飛込の元日本代表だが、2017年に瀬戸大也選手と結婚。自身は第一線を退き、瀬戸選手を支えるためにアスリートフードマイスターの資格も取得した。2018年6月には第一子、そして2020年3月には第二子も出産している。
優佳さんは一体今回の問題をどのように考えているのか。率直な思いを聞いた。

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馬淵優佳(まぶち・ゆか)1995年2月5日、兵庫県出身。実父は元日本代表飛込ヘッドコーチの馬淵崇英氏。父の指導のもと、3歳から飛込の練習を始める。小学4年生のときから本格的に競技をはじめ、2009年には東アジア大会3メートル板飛込みで銅メダル獲得。2011年には世界選手権代表選考会3メートル板飛び込みで優勝、世界選手権に初出場。立命館大学進学後も日本学生選手権2連覇を達成する。2017年に瀬戸大也選手と結婚し、サポートに徹するために現役を引退。2018年に第一子、2020年に第二子を出産。
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感情の糸がプチッと切れた

 「私が今回のことを知ったのは、報道が出る2日前です。週刊誌の編集部から夫に掲載の連絡が入ったあと、彼から『話がある』と打ち明けられました。

 その日、私が娘たちと一緒にいたのは夫の実家。義父は不在でしたが義母がおり、2人きりで話したいという彼の言葉に従って、2人になれる場所で事の経緯を聞きました。不思議なことに……話を聞かされた自分がそのとき何を思ったか、夫にどんなふうに返したか、振り返ってみても一切思い出せないのです」

 そう言った途端、目にたくさんの涙があふれてきて、優佳さんは話せなくなってしまった。5分ほどもたっただろうか。落ち着きを取り戻すと、しばらくたって絞り出すように言葉を選ぶ。

 「――すみません、今も話そうとするとあの時の感情が蘇ってしまって、上手く言葉にできませんが……。そのときは感情の糸がプチッと切れた感じと言いますか、怒りと悲しみが同時に襲ってきたと言いますか……。嘆き悲しむというのとも違う、あれは人生で初めて味わう感覚でした。

 ただ何を言ったかは記憶にないものの、彼にぶつかっていったことだけははっきり覚えています。翌日、なぜか腕が筋肉痛になったくらい。彼は『これからはちゃんとするから』と謝ってくれましたが、あまりにショックが大きすぎて、何を言われても心に響かなかった。事情を知った義母も、『なぜ? 』と唖然としていました。

 混乱した精神状態のまま夫や子どもたちと向き合うのは難しく、2人の娘の世話は一時的に義父母にお願いすることに。私はマスコミを避けるため、とりあえず自宅を出て過ごすことになりました」

アスリート瀬戸大也を全うする責任

 その2日後、週刊誌に記事が出ると、テレビもネットもSNSもそのニュースで溢れかえった。そして優佳さんのSNSには様々な「意見」の書き込みもあった。実際にのぞいてみると、中には週刊誌の報道内容を細かく再現したり、過去の幸せな写真を揶揄するような書き込みもある。

 「馬淵優佳名義でやっている私のSNSには、たくさんのコメントが寄せられました。心無い言葉もあったものの、そのほとんどがあたたかい声援で……。『私の味方になって応援してくれる人がこんなにいる』と勇気をいただきました。本当にありがたかったです。

 周囲からは『書き込みで荒れるだろうから、コメント欄を閉鎖した方がいいのでは? 』と言われました。でも、私はそうはしたくなかった。そもそもネガティブなコメントを気にしている余裕などなかったですし、そんなことでせっかくいただいた励ましの声まで消してしまうのはもったいないと感じたからです」

 そこに見えるのは、「被害者であるかわいそうな妻」の姿では決してない。

 「なかには『法を犯したわけではないのだし、夫婦で話し合って解決すれば済むこと』という意見もありました。もちろん普通のご家庭の場合はそうですよね。ただ私たちは、それではいけないと思ったのです。

 夫は“競泳日本代表の瀬戸大也”という肩書きと共に、メディアを通して『良き父・夫として家庭を守っているアスリート』という姿を見せてきました。そういうキャラクターを前面に出して広告などの仕事をしてきた以上、彼にはそれを全うする責任があります。

 それにも関わらず夫は自らの軽率な行動で、今日までお世話になってきた方々、スポンサーの方々、そして何より瀬戸大也を応援してきてくださった方々の信頼を裏切り、いろいろな人を傷つけてしまった。もちろん私もずっと苦しいですが、これはもう『夫婦の問題』だけで済ませていいことではないと思うのです」

一度でも問題を起こしたら、すべてがダメになるよ?

 実は優佳さんは夫の「変化」を感じていたのだという。

 「これまで家族として、夫には幾度となく助言をしてきました。スポンサーは、選手の成績に対してのみ大金を払っているわけではありません。『瀬戸大也というキャラクターにお金を出しているのだから、支えてくれている人たちを裏切るような行為はしないでね。たった一度でも問題を起こしたら、すべてがダメになるよ』と。でも残念ながら、その声は夫に届かなかったわけですが……。

 少し前までの彼は、驕ったところのない、本当に前向きに競技に打ち込む人でした。最初の子が生まれた時(2018年)も忙しいなか育児を手伝ってくれましたし、練習に仕事、忙しい合間を縫って家族の時間もしっかり作ってくれました。休みの日もアクティブに時間を作ってくれるから、時には心配になっちゃうくらいでした。

 そんな彼が変わってしまったのは2019年の末頃から。東京オリンピックに向けて練習を頑張り、世界記録を出すなど成績も右肩上がりになってきて、このままいけば金メダルが取れるのではないか――。そんな空気が高まってきた時期でした。

 世間の注目度は一気に上がり、一歩外へ出れば皆が『あっ、瀬戸大也だ』と振り返る。成績が良くなるにつれて、彼を取り巻く人の数も増えていきました。なかには夫の気持ちが浮ついていると気づいて助言してくれた人もいたはずですが、それでもどこかで大丈夫だろうと高をくくっていたのでしょう」

今年オリンピックがあったら家族は終わっていた?

 リオ五輪でメダルを取り、その後に世界選手権で優勝、3種目でメダルを取り、東京五輪に内定、どんどん力を伸ばしていった瀬戸選手。しかし東京五輪の影響はそれまでとはレベルの違うものだったようだ。

 「私は正直、今回の件は『神様が起こしたこと』ではないかと思っています。いま思い返してみても、あの頃の大也はちょっと変わっていて……。自分の愛していた人ではない感じとでも言うのでしょうか。昔の写真と見比べると明らかに顔が違っていて、表情に険がありました。

 今年、予定通りオリンピックが開催されていたら、たぶん私たち家族は終わっていたと思います。私の中には『彼が金を取ったら家庭は崩壊するだろうな』という確信に近いものがありました。このまま金メダルを取ったら、いよいよ手のつけられない『裸の王様』になってしまうと感じたのです。

 オリンピックの延期が決まったことに関しては、彼とはほとんど話をしていませんでした。なぜなら東京オリンピックにすべてを賭けてきた人に、何を言えばいいのかわからなかったからです。延期の知らせに、当然ですが夫はものすごく落ち込んでいました。『もう競泳をやりたいかどうかわからない』とまで言っていたくらいです。

 でも、その時の私は、オリンピックよりも不安な気持ちが先立っていました。オリンピックだけが全てじゃないし、人生には金メダルを取るより大事なことがたくさんある。まずそれをちゃんとしないと、これから先、彼を応援することはできないと思っていたからです。

 そういうこともあって、彼には『別にやめてもいいんじゃない? 』と言いましたし、正直ホッとしてもいたんです。『ああ、彼が変われるチャンスをもらった』って。もちろんここに向けて夫をはじめ多くの人が全力で合わせてきたのに、それがずれてしまったのはとても残念なんですが、それくらい彼個人の変化に危機感を抱いていたんです」

ポジティブというイメージに縛られていた

 「ただ、」優佳さんは続ける。

 「かばうわけではありませんが、彼にはプレッシャーもあったと思います。メディアには金メダルに1番近い男と謳われ、世間の期待は高まる一方。ポジティブであることを公言している夫でも、さすがに重圧を感じていたはずです。

 しかも、当時私は2人目の子を妊娠中。自分と子どものことでいっぱいいっぱいで、夫の心の内を聞いてあげられる余裕がなかった。もともと弱音は吐かない人ではありますが、そんな状況で余計に言い出しにくかったのかもしれません。

 また彼自身にも、『ポジティブ』というイメージに縛られていた部分はあったような気がします。ポジティブでいることは大切ですが、苦しくないわけがないのだから、本当に心を許している相手には、弱い部分を見せてもいいんじゃないかなと思うんですけどね……。

 そんな時に決まったのがオリンピックの開催延期です。街でかけられる声も『頑張ってください』から『残念だったね』に変わっていくなか、それでも彼は笑顔で『頑張ります! 』と前向きな言葉を返していた。もしかしたら、心の中と表に出す言葉の間にものすごいギャップがあって、それも彼のフラストレーションの一因になったのではないかと思います。

 もちろん、だからといって今回のような行為をしていいことにはなりませんが、彼の姿を近くで見ていて、そんなふうに感じていたのも事実です」

そんなゆるい覚悟で結婚したわけじゃない

 目の前にいるのは、「五輪代表のスーパースターに浮気されたかわいそうな妻」というよりも「瀬戸大也という人を愛して結婚し、現実に向き合っているひとりの女性」の姿だ。「でも、別れたほうがいいのではとおっしゃる人も多いのではありませんか?」と聞くときっぱりとこう答えた。

 「今回の報道が出た時、もちろん別れることも頭を過りました。でもあまりのタイミングに、途中から『神様が私たちを試してるんじゃないかな? 』と思い始めたんですよね。これは『瀬戸大也は一度どん底に落ちないと変われない』というメッセージなのだろうと。

 人間である以上、誰だって失敗はします。大事なのは、その失敗から何を学ぶか。結婚式で『病める時も健やかなる時も』と誓った以上、私自身この騒動を経た彼がどう変わるか見届けてからじゃないと離れられない。

 今の段階で、感情的になって離婚することは簡単です。紙にサインをすればいいのですから。でもそれでは『あのあと大也は変われたんだろうか? 』というモヤモヤが残ったままになってしまいます。

まずはしっかり夫婦で向き合って、それから判断しても遅くはない。そもそも私は、そんなゆるい覚悟で結婚したわけじゃありません。ただただ彼と一緒に居たくて、彼の夢を一緒に追い掛けたかった。離婚をするのは、事の顛末を見極めてからでも遅くはないと思うようになったのです」

本当に、ものすごく好きだったなあって

 優佳さんは25歳だ。25歳の女性が、出産直後で大変な中で浮気をされ、怒り狂って悪口を言っても、おかしくない。

 「私の気持ちについて、ここまで詳しく彼本人に話してはいません。ただ『今年オリンピックがあったら家族は終わりだと思っていた』ということは伝えました。あまりピンと来なかったのか、彼は『ふうーん? 』みたいな反応でしたけど。

 私の両親は心配して『もう兵庫へ戻っておいで』と言ってくれます。でも、私にはここに至るまでの幸せな記憶があることも確か。今回の一件で、今までのいい思い出が全て消えてしまうわけではないので、叶うなら以前の幸せだった頃の関係性に戻りたい。

 19歳で出会って、大好きになって、選手としてのキャリアを全部捨てても一緒にいたいと思った相手です。今回のことがあってよくわかりました。本当に、ものすごく好きだったなあって。

 現在、夫とは折に触れて連絡を取り合っていますが、前に進みたい意欲はあるものの、つい喧嘩腰になってしまう部分もあって難しいです。ただ、娘たちのことはつねに気にかけているようです。今回のことで何も得るものがないと単に失っただけで終わってしまうので、彼にはここが正念場であることを自覚して頑張ってほしい。今の私に言えるのはそれだけです」

 実は今回のインタビューをするに至ったのは、今年の夏ごろ、優佳さんにFRaUwebで連載いただく話をしていたゆえだった。3歳から飛込みをはじめ、トップのアスリートとして経験を積み重ねながら、夫を支えるためにも競技生活を引退した優佳さん。彼女に、「瀬戸大也の妻」としてだけではなく、母であり、ひとりの女性である「馬淵優佳」という人生を歩んでいくなかで気づいたことを伝える連載をしていただこうと進めていたのだ。

 3月に出産したばかりだったので、お子さんのことが落ち着いたら始めましょう、そう話している矢先の不倫報道だった。

 これだけの騒動になり、連載そのものも難しいのではないかとも思われた。しかし、「私は自分の人生をきちんと生きたいです」と、優佳さんは連載をはじめることも、そしてその前に本音を語ることも決断した。

 瀬戸選手にも、この優佳さんの言葉をぜひ読んでほしい。現実から逃げず、甘い言葉だけを言うではなく、瀬戸選手のことを愛し、心から考えているからこその言葉が、ここにはあふれている。

 妻が語る瀬戸大也「ストレート過ぎて、新しい人種みたい(笑)」 

Smart FLASH 2020年2月2日(日)6時00分配信

「いま思うと、もっと早く彼と出会っていたら、私自身がもっとポジティブな発想で、競技生活を送ることができたのかもしれないですね」

 瀬戸優佳さん(24)が、いまや “日本のエース” になった夫との出会いをこう振り返る。

 2010年のワールドジュニアで、「3m飛板飛込」に出場して銅メダルを獲得し、2011年の世界水泳にも出場した優佳さん。その後、2017年5月に結婚した。夫は、東京五輪競泳男子200m、400m個人メドレー日本代表の瀬戸大也(25)だ。

 瀬戸は、脂の乗ったいま、自国開催の五輪に挑む運に恵まれ、日本中の期待という “重圧” を背負う存在だ。

「彼は、もちろん金メダルを目指していますが、最高のパフォーマンスを見せてくれると思います。常に発想がポジティブで、『できない』が彼のNGワード。私と正反対の半生を過ごしてきた人ですから」

 元選手としても夫を支える優佳さんが、自身の競技人生や彼との馴れ初め、そして素顔を明かしてくれた。

「小学校入学前から泳いでいた私は、小1で飛込を始めることになりました。コーチである父は厳しく、礼儀・挨拶がなってないと、ゲンコツが飛んでくるほどでした」

 優佳さんの父・崇英さんは、中国・上海市出身の元飛込選手で、26歳で妻・優陽さんと来日。1964年の東京五輪をはじめ、五輪3大会に出場した馬淵かの子さんが主宰する「JSS宝塚スイミングスクール」でコーチとなり、日本国籍を取得して、馬淵姓となった。

 きたる東京五輪で6度めの出場となる寺内健(39)や、超新星の玉井陸斗(13)など、飛込のトップ選手を育成しつづけてきた父は、「我が子には甘い」というわけにはいかなかったのだ。

「1から10まで、すべてできなければ怒られるので、完璧を目指していくと、『怒られたらどうしよう』というネガティブな発想になってしまっていた。そんな “減点思考” では、『挑戦しよう』という気持ちが生まれませんでした」

 それでも、高校選手権を連覇し、世界水泳に出場するなど順風満帆な競技人生を送っていたが、立命館大進学後は、腰の怪我に悩まされることに。

 2014年、大学2年のとき、そんな優佳さんに人生を変える出会いが。

「試合で宝塚(兵庫県)に来ていた彼を友人に紹介されて、食事をしたんです。彼は、前年の世界水泳で優勝して注目され、『次のリオ五輪は』と、期待されている存在でした」

 取材中に見せる人懐っこい笑顔が印象的な瀬戸は、当時の優佳さんにどう映ったのか?

「いい意味で、“無邪気で子供っぽい少年” でした。私に『好意がある』のを隠し切れない、メールの文面とか……」

 思い出すように笑みを浮かべて、優佳さんが続ける。

「だって、次に会う約束をするメールも、『2人で行きましょう!』とストレートに書いてあるんです(笑)。もう、新しい人種に会った気がして、私も『いいよ!』と返して……」

 優佳さんに、その “新鮮さ” は、どう作用したのか?

「彼と話していて、育った環境の違いが、人間性に影響することがわかりました。大也は、『親に怒られたことがない』って言うんです。『怒られず褒められて』あれだけの選手になるんだから、すごい。うちとは真逆の教育方針でした」

 瀬戸自身も、こう語っている。

《家でネガティブな発言をすると、「なぜそんなことを言うのか」と父に注意されました。悔しい結果に終われば、母が「(萩野)公介君がいるから強くなれる」と前向きな言葉をかけてくれた。我が家では「できない」はNGワードでしたね》(「日経ビジネスアソシエ」2018年8月号)

 このポジティブ思考が、瀬戸のバックボーンなのだ。

 一方、父の教育で礼節や忍耐力が備わっていた優佳さんにとって、自分になかった「積極性」を発揮している瀬戸は、「生きていくうえで大切な人」に変わってきていた。

 しかし2016年。瀬戸は金メダルを有力視されて臨んだリオ五輪で銅メダルに終わった。

「直後の落ち込みようから、私も重い気持ちだったんですが、帰国時に『俺、4年後にヒーローになるから近くで見ていて!』と笑うんです。私が『この人すごい!』と思った瞬間でした」

 優佳さんの中で、「この人と離れたらいけない」という感覚は “確信” となり……

「自分が選手として五輪に出たいというより、『大也をサポートしたい』という気持ちになりました。『落ち込むことがあっても、彼と一緒にいたら幸せにしてくれる』と」

 2017年5月24日、瀬戸の23歳の誕生日に婚姻届を提出。同月に優佳さんは現役を引退し、翌年6月に長女・優羽ちゃん(1)を出産した。

 3年近い結婚生活のなかで、優佳さんは瀬戸の “スーパースターぶり” に、何度も遭遇したと苦笑する。

「まずは結婚前の2017年、彼がいきなり『断食ダイエットする』と言いだして。麻布のキックボクシングジムに通いはじめたんですが、彼は2日でギブアップしちゃって、すぐにハンバーガーと牛丼を食べていました(笑)。結局、3日間完遂したのは私だけ」

 次に、愛犬・ラフちゃんが家族に加わることになった、2018年4月のエピソード。

「ホームセンターに家具を見に行ったとき、ペットコーナーで急に、『運命感じた!』って大也が言いだして。妊娠中だった私は当然反対で、彼も一度は車に戻ったんですが、『もう1回、見に行こう!』って始まって……」

 夫妻は、1時間以上の激論を交わし、最終的には「じゃんけん」で妻が敗退。

「私もアスリートの血が流れているので、『勝負に負けたら仕方ない』って認めちゃったんですね(笑)」

 そして、公式記録にも残る、2018年のトライアスロン出場。

「シーズンオフに、『佐渡国際トライアスロンに出る』って言いだして……。通常の2倍の距離のレースですよ。さすがに、ご両親まで反対したんですが、『俺は出るから』って聞かない。

 それで、もう少しおとなしいレベルの『九十九里トライアスロン』への出場で、“手打ち” になりました(笑)」

 結果は、約700人中93位という普通の成績だった(スイムは言うまでもなくトップ)。

 こんな “突っ走っちゃう” スーパースターを、優佳さんは「100%は阻止することなく、許しながら、大目に見ながら」コントロールしている。ときにはストップをかけながら。

 そして1月18日、東京五輪イヤーの初戦、北京でのチャンピオンシリーズでは、200mバタフライで、12年ぶりに日本記録を更新する1分52秒53のタイムで優勝。

「五輪では、いままで見たことない主人の笑顔を見たいですね。以前と全然違うのは覚悟です。家族が出来たことで、責任感が出て、バシッと目標が揺るがないんです」

 パパとなった日本競泳界のエースが、4年前の雪辱に燃えている。

 東京五輪内定妻が語る瀬戸大也「塩素の匂いが好き」 

Smart FLASH 2019年8月1日(木)21時11分配信

 東京五輪200m個人メドレー、400m個人メドレー代表に内定した瀬戸大也選手が、7月31日、記者会見に登壇した。W杯東京大会(8月2日~、東京辰巳国際水泳場)に400m個人メドレーで参加することを受け、「コンディションも調子もいいので、しっかりいい記録を狙いたい」と意気込みを見せた。

 瀬戸は、韓国で開催された「世界水泳2019」で、上記2種目の金メダルを獲得。通算4つの金メダルとなり、北島康介の記録を抜いた。その躍進の秘密はどこにあるのか。

「瀬戸の好調ぶりを支えているのは、飛び込み選手だった優佳夫人の手料理なんです。結婚して2年たちますが、料理が苦手だった夫人が『アスリートフードマイスター』の資格を取り、しっかり栄養管理しているそうです」(スポーツ記者)

 2019年7月25日の日刊スポーツで、優佳夫人が瀬戸の食事について語っている。

「主人は汁物が好きで、主菜、主食、副菜もそろえてます。アスリートの食事というと丼のバーンと思われがちですが、バランスが整った食事が特長。

 試合前1週間は練習量が減るので、普段と同じ量だと太ります。でも炭水化物=米はエネルギーなのでとってほしい。梅干し、こんぶ、のりとご飯のおともを用意して、おかずを少なめにします」

 ジュニア時代から知り合いだった2人だが、交際に至ったのは、瀬戸選手の猛アタックだった。親交のあった飛び込み選手に紹介してもらったという。当初はやんわり断られたが、「ちょっとでいいから」と粘った。

 初めは交際をためらっていた優佳夫人だが、瀬戸との結婚を決意したのは「匂い」だったという。それは香水でも体臭でもなく、プールの塩素の香りだ。

「自分がずっと塩素の匂いをしてたんで、(相手もその匂いだったから)落ち着くんです」と3月13日放送の『戦え!スポーツ内閣』(MBSテレビ)で明かしている。

 さらに、スポニチ7月29日の記事によると、夫人は2年前に挙げた結婚式で会場を塩素の匂いで満たすことを提案したという。知人に頼み、塩素の香りがする香水を入手したが、残念ながらイメージと違ったため、実際には使わなかったそうだ。

 2人の間には昨年6月、長女が生まれている。子供も「塩素」の匂いが好きになるかどうかはわからないが、妻の献身的なサポートで、W杯東京大会でも大いに活躍することだろう。

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2020年10月 5日 (月)

【特別読み物】酔っぱらって<線路に転落>復活を果たした男性の話。

電車事故で👤手足3本を失ったサラリーマンが語る

どん底からの復活

HARBOR BUSINESS 2020年10月5日(月)8時33分配信

ベッドから這い出ようとして落ちた時に、手足を失った現実を知る

 山田千紘さん(29歳)は2012年7月24日、電車との接触事故により、右腕を肘上、右脚は膝下、左脚を膝上から切断する重傷を負った。

 当時20歳だった山田さんはケーブルテレビ会社の営業職として採用されたばかり。仕事が楽しく、職場の付き合いも欠かさず充実した毎日を送っていた。

 事故当日は体調がいつになく悪かったが、夜には会社の飲み会があった。普段は酒好きの山田さんも、この日はなぜかまずく感じられ、飲むことができなかった。だが、「先輩よりも先に帰るタイプではなかった」山田さんは終電間際まで飲み会に付き合った。それが、事故に遭うまでの最後の記憶だ。

 後日、警察に聞くと、山田さんは帰りの電車で眠り込んでしまい、自宅のある駅を乗り越し終着駅までついたという。駅員に起こされた山田さんはそのまま終着駅のホームで寝てしまったが、その後なぜか立ち上がりホームに転落。そこに最終電車が進入してきたのだったーー。

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 ここまでが、山田さんが動画でも語っている事故の経緯である。

 それから8年後の2020年、事故と同月同日にユーチューブチャンネル「山田千紘 ちーチャンネル」を開設した山田さん。

 ある日突然、手足を3本も失うという想像を絶する体験をしたにもかかわらず、それを明るく笑い飛ばす姿が大きな反響を呼び、2か月あまりで登録者数7万人に迫る勢いとなっている。

 そんな彼にどん底から立ち直るまでの経緯と心の動きを伺いながら、その「考え方」の秘密に迫った。

助かった命を無駄にするな兄の言葉に救われる

――事故に遭った瞬間の記憶がないとおっしゃっていますが、事故に気づいた当初の心境についてお伺いできますか?

 目が覚めると、最初は夢の中だと思いました。利き腕の右手で目ヤニをとろうとすると、右腕の感覚は残っているのに、ないように見えたので「冗談だろ?」と思いました。脚も同様で、しかも、切れた両脚の長さが違っていた。

 自分の部屋のベッドではなく、病院のベッドなのはすぐわかったので、「夢にしてはリアルすぎるだろ」……と怖くなったのを覚えてます。

 とりあえず夢うつつの状態のまま顔を洗いに行こうと立ち上がろうとしたら、そのままベッドから落ち、激痛とともに現実を突きつけられたのです。

 「僕の手足はもうなくなった、人生も終わったんだ」というのが1番最初に思ったことです。

――「絶望のどん底」に落ちた時期は、どのようなことを考えていましたか。そこから立ち直るまでの思考の変遷過程をお伺いしたいです。

 ICU(集中治療室)から一般病棟に移り、1週間ほどがどん底だった時期でした。その時は本当に毎日毎日「死にたい」「誰でもいいから殺してくれ」と、助かったことに対する後悔ばかりで、ネガティブなことばかり考えていました。

 変わるきっかけは、振り返ると色々ありましたが、家族や友人など周囲が今までと変わらない接し方をしてくれたことでした。

 僕が変わってしまうことで、そういう人達まで変わってしまうのが1番怖かったのです。

 じゃあどうすれば良いかと考えたとき、「今までのように明るい自分に戻らなきゃな! よく考えたらまだ左手があるし、口があるから伝えたり話すこともできる。

 目があるから見ることもできるし、耳があるから誰かの声を聴くこともできる。まだまだできることたくさんありそうじゃん!」と、ポジティブに思うようになっていきました。

――周りの人にずいぶんと助けられたのですね。
  
 その通りです。周囲の支えがあって、ここまでこれたのだと思います。もし一人だったら僕は今この世にいなかったかもしれないし、感謝の念でいっぱいです。

 ICUにいたときの記憶はほとんどないのですが、泣き崩れる両親の横で、兄が僕に「手足はなくなったけど、助かった命は無駄にするんじゃないぞ」と言ったそうです。そのことを後に聞いて、ずっと胸に残っています。

自分は手足が3本ないだけ。他は何も変わらない

――しかし、手足3本を失う事故はやはり衝撃的な出来事だと思います。そこから気持ちを切り替えられたきっかけはなんだったのでしょうか?

 直接のきっかけは、高校時代から仲良しだった友人たちが1番最初にお見舞いに来てくれたことが大きかったと思います。

 彼らは病室で寝ている僕を見るや「なんだ元気そうじゃん」と言いました。こっちからしたら「どこがだよ!」と思ったけど、結局彼は2~3時間もいて、今までと変わらずたわいもない話をしました。

 そして、「じゃあな」といって彼らをエレベーターホールで送り出した時、そういえばケガの話を聞かれていないことに気づいたんです。まるで、「ケガをしても俺たちの関係は何も変わらないぞ!」という、無言のメッセージをもらっているかのようでした。

 すると、エレベーターのドアが閉まった瞬間から、涙があふれて止まりませんでした。「病院ではなく、今までのように彼とまた遊びたい!このままじゃダメなんだ」と強く思いました。

 その日は一晩中眠れませんでした。そして朝を迎えたとき、カーテンから光が差し込み、ベッドに備え付けられたテーブルの角が光ったのを目にして、ハッとしたんです。

 「自分は今まで、テーブルの下だけを見てもがいていた。でも、見方を変えるとこれまで見えなかったものが見えるようになるんだ」と。

 そこから気持ちがキッパリと切り替わり、「手足がなくなっただけだな」と思えるようになったのを覚えています。そこから、社会復帰するまでのロードマップを具体的に描き始めました。

――実際に、どのように進めていったのでしょうか?

 事故に遭ったときは20歳になったばかりで、22歳には必ず社会復帰したかったので、やるべきことと、それに必要な期間を逆算しました。リハビリをいつまでに終わらせ、資格をいつまでに取得するか……といったことです。

 そして10月にリハビリ施設のある病院に転院し、リハビリが1年かかると言われたところを半年で終わらせました。そしてその日のうちに自動車の教習所に入所し、出所後に間髪入れず障害者職業訓練所に入りました。

 そこで簿記とパソコン検定の資格を取得し、翌年には就職活動を開始していました。

自分の残された可能性に気づけたことはチャンス

――事故から2年も経っていませんね。すごく強いですね。

 僕はもともと、なくなったモノを数えるのがあまり好きではないんです。

 人はマイナスの数を数えがちだと思います。しかし、マイナスを数えるのではなく、どんなに小さくてもプラスの数を数えていくことが大切なんじゃないかと思います。

 手と足を失ったことは確かに圧倒的なマイナスですが、命が助かったこと、生きていることが僕にとってはそれをはるかに凌ぐプラスでした。そして、まだ左手が残っていたし、喋ることも、見ることも、聴くこともできた。

 自分にはまだまだ出来ることがたくさんあって、終わりじゃない。そういう自分の可能性に気づけたこと自体、最大のチャンスだと捉えています。

――心理学には「トラウマ後成長(Posttraumatic Growth)」という概念がありますが、事故後に成長を感じたり、強くなったと感じる部分はありますか。

 周りへの感謝を自分の言動で表せるようになったのは、成長したかなぁと感じます。親に対しては、やはり今までたくさん苦労をかけてきた上に、五体満足に産んでくれたにもかかわらず手足を3本も失ってしまって……とやりきれない思いがありました。

 だからこそ、ここから強く成長して自分らしく生きることで恩返ししていかなきゃなと、強く思うようになりましたね。

 あとは、やはりドン底を経験したことで、ちょっとした出来事では落ち込みにくいですし、そういった気持ちの面は強くなったのかなと思います! 「手足3本ないだけじゃん」と、本気で思っているんです。

――お弁当や料理など、日常生活の動画もアップされています。日常生活で不便なことは現在、ありますか?

 日常生活の家事は一通りできるし、不便は特にありません。

 物理的に難しいこと(電球の交換など高いところの作業)は当然できませんが、一人暮らしをして大抵のことは一人でできるようになったから不便に感じないのだと思います。そりゃ当然、どの家事(掃除、洗濯、料理)でも人より時間がかかるけれど、それは仕方のないことだって上手く割り切れているんだと思います。

 もともと健常者だったころに家事をやっていたとしたら、できたことができなくなってショックかもしれませんが、もともとやっていなかったことが逆に向上心が芽生えてよかったのかなと思います。

障害を持つようになってから気づいたこと

――現在は一人でお住まいですよね?

 はい。就職をした22歳から今までずっと一人暮らしです。最初は心配されましたが、親に負担をかけたくなかったし、何よりも自立したかったので。

――手足が自由に動かせた頃には気づかなけなかった事柄などはありましたらお伺いしたいです。

 通勤のため電車に毎日乗っていますが、やはり周りを見て行動していない人が、すごく多いと感じます。

 乗り降りする時も自分本位で人のことを押してきたりして危ないし、座席に座るときも一人分以上の幅を取ったり……。そういったマナーが気になりますね。

――現在はどのようなお仕事をされていますか? 職場ではどのようなサポートがあるでしょうか。

 最初はIT企業に障害者雇用枠で勤務し、転職して現在は航空関係の会社で一般社員として働いております。障害者枠ではキャリアアップが厳しい側面もあるので、最初から一般職で応募しました。

 仕事は、デスクワークを中心に経理業務等を、他の社員とまったく同じ待遇で行っています。障害があるからといって特別扱いされることは嫌なので、そういったことが僕にとっては一番のサポートであると言えます。

自分の経験を通じて、皆に勇気と元気を与えたい

――動画の反響で、印象的なものがありましたらご教示ください。

 YouTubeを始めて2ヶ月と少し経ちましたが、ありがたいことに多くの方々が見てくださり、外出時にも視聴者に話しかけられたりするので、その時は皆さんのリアルな声援を聞けたりできて本当に嬉しいです。

 動画のコメントでは、「人生観が変わった」など、視聴者の方に少なからず良い影響を与えることができていることを感じ取れて嬉しく思います。

――動画は毎日撮影されているのですか?

 いいえ。週一本を目標に、平日で時間がある時に制作しています。僕も土日は健常者と同じようにプライベートを楽しんでいますからね(笑)。ユーチューバーの大半はビジネスだと思いますが、僕にとっては社会活動の一つなので。

――動画を通じて障害を持つ方や、悩んでいる方の励みになりたいという意図を話されていましたが、今後具体的にやりたいことや伝えたいことなどありましたらご教示ください。

 海外では「モチベーショナルスピーカー」(編集部注:人々のモチベーションを上げ、変容をもたらす内容のスピーチを行う人)という職業を持つ方が多くいますが、日本ではまだ主流ではありません。

 僕自身の経験や言葉を通して、1人でも多くの方に勇気や元気を与えて前向きになってもらう。そんな手助けが出来るモチベーショナルスピーカーを将来的に目指していきたいです。

 また僕のインタスタグラムは、先天性四肢欠損症のお子さんを持つ方もたくさんフォローしてくれています。そのお子さんたちや、一般の方にも「手足が3本ない山田がやれてるのだから、自分にもできる」と思ってもらいたい。意味のある怪我だったと感じていきたい。

 そのために、YouTuberとしての活動はもちろんですが、ゆくゆくは本の出版や、全国での講演活動などを通じて、たくさんの人の笑顔に触れることで、僕自身も生きる価値や喜びを感じていければ嬉しいです。

【山田千紘】

1991年9月22日生まれ。2012年に電車事故で右腕、両脚を切断。2020年7月24日「山田千紘 ちーチャンネル」を開設。アイスランドのOSSUR社の義足モデルも務める。

ツイッター:@chi_kun_cq22 インスタグラム:@chi_kun_cq22

 電車椅子放置されたビール空き缶高校生が拾ってみたら🎬人生が変わった話 

高校生新聞 2020年10月5日(月)11時51分配信

 勇気を出して行動してみた経験について、高校生記者のなおさんに打ち明けてもらいました。

空いててラッキー…じゃなかった

 ある日、私は駅のホームで電車を待っていました。前に並んでいるのは6人ほど。疲れていたので、なんとか座れたらいいなと思いながら電車に乗り込むと、扉のすぐ近くの端の席が空いていました。

 ラッキー、と思いながら座ろうとしたとき、他の人たちが誰も座ろうとしなかった理由がわかりました。その席には、ビールの空き缶が放置されていたのです。

ビールの空き缶持ってうろうろ

 私はどうしても座りたかったので、缶を拾い、ゴミ箱を探すため電車から出ました。しかし近くには、ゴミ箱も、ゴミ箱付きの自販機もありませんでした。

 仕方なく缶を持ったまま車内に戻ると、缶があった席にはすでに別の人が座っていました。偶然にももう一つ空席を見つけたので、今度は缶を持ったまま席に座ろうとしました。最寄り駅で捨てればいいと思ったのです。

勘違いされちゃうよ

 すると隣の席の男の人が、「女子高生がビールの缶を持っていると勘違いされてしまうから、捨てておいで。席は自分が見ているから」と声をかけてくれました。私の一連の動きを見ていたようです。私はその人にお礼を言って、空き缶を捨てに行きました。

 電車に戻ると、男の人は自分の荷物を私の席に置いて、取ってくれていました。感謝の言葉を述べつつ座ると、「他の人のために行動したあなたに感動して、席を確保してあげようと思ったんだよ。素晴らしいことだ」と言ってくれました。

座りたかっただけ、でも心がくすぐったい

 私の場合、ただ自分が席に座りたかっただけでした。でも、私の行動を見てそんなふうに思ってくれた人がいて、私のために動いてくれたんだと思うと、心がくすぐったくなりました。

 引っ込み思案であまり積極的ではなかった私ですが、そのことがあってから、前から汚いと思っていた、部活でよく使うトイレを自ら掃除するなど、少し変われたと思います。

 少しの勇気で、人は変われます。みなさんも周りを見て、困っている人がいたら声をかけてみるなど、何か行動してみてほしいです。(高校生記者・なお=2年)

 

2020年8月30日 (日)

【歴代最長7年8月在位】安倍政権とは何だったか<第2次内閣発足~辞意表明まで>

 安倍政権回顧、韓国の反日宣伝蹴散らした「米両院議会演説 

ダイヤモンドオンライン 2020年8月30日(日)6時01分配信

 安倍晋三首相は8月28日に辞任することを表明した。2012年12月の第2次内閣の発足から7年8カ月という歴代最長政権を実現した安倍政権とは何だったのだろうか。(国際政治評論家・翻訳家 白川 司)

自信に満ち溢れていた 第2次安倍政権

 首相として最後の会見は国民への陳謝で終わった。

 最長政権の終わりにしてはあまりにもあっけなかった。たしかに週刊誌が「吐血した」「持病ががん化した」などと飛ばし、2度目の検査をするとわかると、テレビは「ポスト安倍」を語った。マスコミはよほど安倍首相を辞めさせたいのか、滑稽なほど必死に見えた。でも、同時に辞任説を打ち消す報道や主張もあって、8月28日午後5時に予定されていた会見には、もともとそれほどの特別感があったわけではない。

 だが、午後5時の会見前にマスコミ各社が「安倍首相が辞意を固める」という速報を打つと、またたく間に世界中で配信され、テレビも辞任報道にジャックされた。辞任の速報とともに株価は暴落。マーケットは安倍首相が日本経済に果たしてきた役目を正確に把握していた。

 中央銀行が国債や債券を大量に購入する金融緩和は今でこそ普通になったが、以前は禁忌とすら考えられていた。その大転換をもたらしたのが安倍首相だった。

 2013年、日銀総裁に有力候補とはいいがたかった黒田東彦氏を抜擢した。黒田総裁は「ハイパーインフレになる」「モラルハザードが起きる」など主張する“良識派”の声を押し切って異次元緩和に踏み切った。為替は超円高から円安に反転し、株価も急上昇して、民主党時代の超円高放置で青息吐息だった日本経済は息を吹き返した。

 この頃の安倍首相は自信に満ち溢れていた。薬で持病の潰瘍性大腸炎を抑え込むのに成功して、日本の首相としては異例なほど多忙な外交日程をこなした。2013年9月のニューヨーク証券取引所での会合では「バイ・マイ・アベノミクス(私のアベノミクスは買いです)」と笑顔で決めた。日本の株式市場にも外国から投資が集まった。

 2016年、アメリカで自国優先主義のトランプ政権が誕生すると、国際協調外交に邁進する安倍首相の存在感はいや増して、ドイツのメルケル首相とともに「リベラル派最後の砦」と語られることもあった。

 また、そのトランプ大統領が誕生して、最初に取り入ったのも安倍首相だった。それを「みっともない」と評するメディアもあったが、一部のメディアは、日本の国益のためになりふり構わない安倍首相の姿を評価した。

 実際、トランプ大統領は安倍首相を全面的に信頼し、安倍首相は「頑固者のトランプ大統領を動かしうる唯一の国家首脳」として各国に頼られるようになり、外交力が弱いと言われ続けた日本が世界のハブになる突然変異をもたらした。

 安倍首相も精力的に各国から訪問を受け入れ、自らも訪問し続けて、アフリカや南米や中東や東欧など、これまで疎かにしてきた地域もケアしたことは、日本の世界における地位向上に寄与した。

 また、これらの地域は中国が一帯一路で経済支配を広げている地域でもある。アメリカが内向きになっている今、中国の影響力拡大を阻止する観点からも、安倍外交の果たした役割は大きい。外交の舞台に安倍首相がいなくなることは、一帯一路を通して世界覇権を狙っている中国を利する。

外交的勝利の最たるは 米議会両院での演説

 トランプ大統領との関係以外に、安倍首相はいくつかの外交的勝利をものにしているが、その最たるものが、2015年に行われた米議会上下両院合同会議での演説だろう。

 安倍外交は最初から好調だったわけではない。それは韓国の朴槿恵大統領が、最初から安倍首相の敵に回ったからだ。日本側からの交渉の申し出を鉄面皮ではねのけ、2013年の3月1日(3・1記念日)には、「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない」と言って、中国とも協力して「告げ口外交」を繰り広げた。

 ただし、朴大統領の立場に立てば、この反日外交は理解できないことではない。日韓併合を経たために、韓国産業は日本の縮小コピーのようになっていたからだ。

 つまり、韓国製品の多くが日本製品と競合しており、民主党政権のように円高を放置せず、円安に誘導して自国製品の競争力を高めるアベノミクスは、圧倒的なウォン安で輸出を伸ばしてきた韓国経済にとって害悪でしかないのである。実際、アベノミクス以後、それまで韓国製品に席巻されてきた日本製品が、反転して韓国製品を駆逐しはじめた。

 朴大統領の反日外交の意図は、アベノミクスを安倍首相もろとも葬り去ろうとすることにあった。

 韓国初の女性大統領として各国は朴大統領を受け入れ、朴大統領は「日本は韓国を蹂躙してきた」「安倍首相はその歴史を改ざんしようとする歴史修正主義者だ」というプロパガンダをことあるごとに吹き込んだ。そしてついに、「アベは右翼的な歴史修正主義者」と書くメディアが増えていったのである。

 だが、安倍首相は動じなかった。心中は穏やかではなかったろうが、安倍首相は朴大統領に妥協せず、単に放置した。これまでの首相なら、なんらかの交渉によってその動きを止めようとしただろうが、安倍首相はあえて何も反応しなかった。

 そして、安倍首相の地道な外交がやがて実を結び、安倍首相の人柄が知られるようになって評価が少しずつ高まると、朴大統領の主張は次第に色あせていった。

 勝負を決めたのが2015年4月にアメリカ両院合同議会においておこなわれた演説「希望の同盟へ」である。

 安倍首相は500人もの聴衆で2階席まで埋め尽くされている前で、英語で堂々と日米関係の歴史的なつながりの深さと日米同盟の重要性を訴えて、14回ものスタンディングオベーションを浴びた。単なる外交儀礼を超えて、安倍晋三という政治家がアメリカ議会で信頼を勝ち取った瞬間だった。もちろん、朴大統領がまき散らしてきた「歴史修正主義」のレッテルは軽く吹き飛んでしまった。

 2017年、朴大統領は中国に配慮して、それまでしぶってきた米軍の最新鋭迎撃システム「戦域高高度防衛ミサイル(THAAD)」の配備を受け入れた。THAADは対北朝鮮ミサイル防衛とともに中国を監視する機能を併せ持っていたので、親中路線から親日米路線への大きな政策転換の証となった。習近平主席の拡大路線は、日米韓の反中同盟によって徐々に阻まれて、中国は韓国に経済制裁を加えた。

 このときの朴大統領の路線変更が、不当な禁固刑を受ける原因となり、のちに反日左派の文在寅政権を登場させる一つのきっかけとなったことも否めない。とはいえ、安倍首相の圧倒的な外交力のために、韓国の影響力は以前よりかなり小さくなり、反日運動が以前ほど効果を見せなくなっている点は評価すべきだろう(蛇足だが、そういう意味で、今回の安倍首相の辞任を最も喜んでいるのは韓国かもしれない)。

安全保障と内政で 2つの大きな成果

 安倍首相には悲願が3つあった。憲法改正と北方領土問題の解決と北朝鮮拉致被害者の奪還である。いずれも一つ果たせば政権の大きなレガシーとなるもので、それだけに難事業である。7年8カ月の長期政権で、衆参で3分の2前後の議席を持ち続けながら、そのうちの一つも果たせなかったことは、返す返すも残念だ。

 ただし、安倍政権は安全保障と内政においても大きな成果をあげている点は協調しておきたい。

 一つは2015年の日米防衛協力ガイドライン改定である。平時・有事・周辺事態でバラバラだった防衛協力体制を改めて、平時から緊急事態まで切れ目なく協力体制を構築したことだ。また、それに合わせて、2016年に安保法制を成立させて、集団的自衛権が容認されるようになった。この2つはワンセットで考えるべきだろう。

 南シナ海の人工島建設に成功して、次なるステップとして東シナ海進出を狙う中国にとって、この2つの政策は打撃となった。なお、安保法制については野党やマスコミのプロパガンダによる妨害活動のすさまじさが記憶に残るが、ここでは省く。

 また安倍政権の内政でもう一つ特筆すべきは、経済拡大に伴い失業率が2%台の完全失業率に達すると同時に、女性活躍推進を強力に推し進めて労働人口を大幅に増やしたことだろう。深刻な人手不足になる手前でなんとか持ちこたえたわけである。

 もちろん、非正規雇用の割合の高さ、子育て年齢での離職の高さ、女性管理職の割合の低さなどは大きな課題として残っているものの、政治主導で女性の社会進出を積極的に後押ししたことは功績と認めていいだろう。

 ただし、経済拡大と労働人口の増加で、経済について良循環が続いてきたにもかかわらず、2度の消費税増税によって自ら経済拡大を足踏みさせたことは痛恨だ。

 今年になって安倍内閣の支持率が大きく下がり、その原因として新型コロナウイルス対策の不備が指摘されることが多いが、私は昨年の消費税増税が真の原因だと考える。というのは、2回目の増税が、2018年の経済停滞期に入った後のことだったために、経済の落ち込みに拍車をかけてしまったからである。

 新型コロナウイルスは消費税増税がもたらした経済停滞をだめ押しした可能性はあるが、安倍内閣が支持されなくなった真の原因ではないだろう。日本の新型コロナウイルス対策は、渡航制限や自粛が徹底したものではなかったわりに、感染拡大の抑え込みは比較的うまくいっており、医療防具の配布や現金給付・無利子融資など大きな枠で行ったことで、かなり成功していると見ていいだろう。

 1度目の増税は民主党政権で決まっていたことだったので見送りは難しかっただろうが、2度目の増税はアメリカ経済紙のウォール・ストリート・ジャーナルも経済への打撃が大きいと否定的だった。一度先送りしているのだから、今回も食い止めるべきではなかったのか。

 なお、新型コロナウイルスによる経済の落ち込みについては、経済優先にシフトしている官邸との対決姿勢を演出して自粛政策を繰り返す小池百合子都知事など、自粛派の責任のほうが大きいと考える。小池知事にはただちに政策の転換を求めたい。

権力闘争を伴わない 次期総理選びの不安

 今回の辞任の理由は、2007年の第1次政権のときの理由と同じ、持病の潰瘍性大腸炎の悪化だった。病気辞任が通常と違うのは、権力闘争が伴っていないことにある。言い換えると、「次の強い候補」が育たないままでの交代となることだ。

 実際、第1次安倍政権の後は、福田康夫内閣(2007年9月~2008年8月)→麻生太郎内閣(2008年9月~2009年9月)→鳩山由紀夫内閣(2009年9月~2010年6月)→菅直人内閣(2010年6月~2011年9月)→野田佳彦内閣(2011年9月~2012年1月)と、すべて短命に終わっている。

 安倍首相を力で倒せる有力候補がいないままに交代劇が起こったために、力不足の内閣が続いたのだと考えられる。結局、この状態は第2次安倍内閣が成立するまで続いた。

 今回もかなり状況は似ている。安倍首相に取って代わる次が育たないままに交代しなければならないために、前回と同じような状況になる可能性がある。

 もちろん、私も新たな強い政治家の登場を期待したいが、もしまた短命内閣が続けば、その時は病気を克服した安倍首相による「第3次安倍内閣」が必要となるのかもしれない。

 安倍首相「投げ出し批判、死んだほうがマシ」麻生氏説得にも応じず 

西日本新聞 2020年8月29日(土)13時52分配信

 またも任期途中の退陣を表明した安倍晋三首相。連続在職日数が史上最長となった24日に辞任の意向を固めたが、周囲は記者会見の直前まで必死に引き留めた。「休んでまた復帰すればいい」「短期間の入院なら誰も批判はしない」。

 首相は葛藤したが、新型コロナウイルスを巡る新たな対策を取りまとめたことで、「第1次政権時のような『投げ出し』批判を避けられる」と判断し、最長政権の幕引きを決めた。

 28日午後5時、官邸で開かれた記者会見。首相は秋以降の新型コロナ対策を説明した後、「私自身の健康問題を話したい」と切り出した。持病の潰瘍性大腸炎が再発したとして、「投薬の効果はあるが予断は許さない」「国民の負託に自信を持って応えられる状態にない」と語り、「職を辞することにする」と目を伏せた。

 その約6時間半前。閣議を終えた首相は、自らの「後見役」である麻生太郎副総理兼財務相と官邸執務室で向き合っていた。「体力も食欲もない。病気のために国政が停滞するのは耐えられない」と首相。麻生氏は「通院しながら職務を続ければいい」と説得した。

 これまでも職務を続けるように説得してきた麻生氏。15日には首相の私邸を訪れ、「少し休養したってなんてことはない。休んでいる間は私が職務を代理するから、辞めないでほしい」と訴えた。28日は翻意がかなわず、首相との面会を35分で終えると、追いすがる記者を振り切るように官邸を後にした。「辞任は自分一人で判断した」。首相は会見でそう語った。

 首相の説明によると、病の再発の兆候が医師から指摘されたのは6月の検診。7月中旬からは「体力をかなり消耗する状況になった」という。複数の政府関係者は「息が上がり、声がかすれる様子が目立った」と口をそろえて証言する。「体調が相当悪そうだ」との風評が官邸や省庁に広がった。

 周囲は口々に休養を勧めたが、首相は応じなかった。「病気を押して職務をこなした父親の故晋太郎元外相の姿が頭にあるのだろう」。官邸幹部は推し量っていた。

 今月上旬の診察で再発が確認された。関係者によると、6日、広島市での原爆死没者慰霊式・平和祈念式に参列した際は、特につらそうだったという。

 「唐突に辞める事態だけは避けたい。また『投げ出し』と言われるぐらいなら、死んだ方がましだ」。首相は常日頃、周囲に語っていた。「病気のことは言いたくない」。健康不安説が大きく報道され、「健康状態を説明すべきだ」との批判が出始めた19日、首相は側近に漏らしている。

 官邸官僚らはこのころから、辞任もあり得ると覚悟した。コロナ対策の新パッケージの取りまとめを急ぐよう関係省庁に指示。投げ出し批判が起きないようなシナリオ作りに腐心した。一方で慰留にも努めた。27日には、内閣改造の構想を会見で発表することによって求心力を再び上昇させる案も提示したが、首相は断ったという。

 「1強政権」のあっけない幕引き。自民党は各派閥が幹部会合を開くなど、早くも「次」を見据えた動きが始まった。官邸関係者は非情に語った。「2度も突然辞任する事態。今後、政界に影響力は働かせられないだろう」

石垣のりこ議員、不適切発言立憲代表の叱責受け謝罪

女性自身 2020年8月29日(土)20時21分配信

《首相といえども「働く人」。健康を理由とした辞職は当然の権利。回復をお祈り致します。が、「大事な時に体を壊す癖がある危機管理能力のない人物」を首相総裁に担ぎ続けてきた自民党の「選任責任」は厳しく問われるべきです。その責任を問い政治空白を生じさせないためにも早期の国会開会を求めます》

 8月28日、こうツイートしたのは立憲民主党の石垣のりこ参院議員(46)だ。

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 安倍晋三首相(65)は同日、持病の潰瘍性大腸炎が再発したことを理由に辞意を表明。会見で自らの体調について説明した。

「会見は17時から行われましたが、14時半頃に一部メディアが速報を出しました。石垣氏が投稿したのは、会見前。『大事な時に体を壊す癖』や『危機管理能力のない人物』という表現は、難病・疾病を抱えて生活する人への侮辱として批判が殺到しました。

 安倍首相は来年9月までの任期を全うできなかったことを、『断腸の思い』と悔いていました。難病指定されている潰瘍性大腸炎は、10代の頃から患っていたといいます。07年の第1次政権でも、持病悪化を理由に辞任。12年に発足した第2次政権では、持病をコントロールしながらの執務だったそうです」(全国紙記者)

当方所感を掲示するも安倍首相への謝罪はなし

 批判を受けて石垣氏は、Twitterを同日22時すぎに更新。「当方所感」として、前ツイートの意図を記載した長文書面を投稿した。

 安倍首相が第1次政権でも同じ理由で辞職したことから、「職場のノーマリゼーションという観点からは、選任側の責任として、『同じ理由で辞めることのないように環境を整備する』ことが必要だったはずです」と指摘。

 つまり、“病を抱える首相の働きやすい環境づくりを怠ったことへの批判”だと説明したのだ。

 いっぽう安倍首相に対して、「体を壊す癖」や「危機管理能力のない人物」と形容したことへの謝罪や説明はなかった。そのため、《凄いな。謝らないんだ》や《論点ずらし》といった批判が再び殺到。火に油を注いだかたちとなった。

 強気一辺倒な石垣氏だが、同党内でも石垣氏のツイートは不適切と判断された。

 枝野幸男代表(56)はTwitterを更新し、石垣氏の投稿を陳謝。《申し訳ありません。執行部として不適切であるとの認識を伝え然るべき対応を求めました》と呼びかけた。

 最終的に同日23時すぎ、福山哲郎幹事長(58)から指摘を受けたことをTwitterで報告した石垣氏。そして、《確かにこの箇所の表現に、疾病やそのリスクを抱え仕事をする人々に対する配慮が足りなかったと反省しお詫びします》と謝罪した。

 多くの批判が寄せられていたにも関わらず、執行部からの指摘を受けるまで非を認めなかった石垣氏。いっそう厳しい声が寄せられている。

《まず、謝罪が遅すぎます。そしてこの書き方だと「福山幹事長に怒られたからとりあえず謝っとくか」という印象を与えかねません》

《国民の声には無反応で、幹事長の声にはすぐに反応するのですね》

《意地でも安倍首相には謝罪しないのですね》

 米大統領ほか各国首脳から安倍首相へ寄せられた贈る言葉 

Yahoo!コラム 2020年8月30日(日)7時32分配信/安部かすみ(在米ジャーナリスト)

同じ病気を患ったニューヨーカーの声

 ニューヨークでは昨日から、筆者が日本人であることから友人との会話に必ず安倍首相辞任の話が、スモールトークで入ってくるようになった。

 日本を旅行したことがある日本びいきのバリスタの男性とは、このような会話になった。「ニュースを見たよ。安倍さんは長い在任期間だったんだってね。でも彼は日本経済を回復させるはずだったのに、いくつか失敗したって聞いたよ」。

 埼玉で英語の教師として1年住んだことがある女性の友人(メディア系)は、ニュースを見てびっくりしたと言う。なぜなら「安倍首相とまったく同じ潰瘍性大腸炎を患ったことがあるから」。その上でこのように言った。

「安倍さんは立派(admire)だと思う。だってこの病気は本当に痛くて辛いから...。彼はここまでよく仕事と両立できたなって...」。彼女が潰瘍性大腸炎を発症したのは11歳のとき。ものすごい腹痛に襲われ、何もできない状態が頻繁に続いたそうだ。何度も病院に行き、病名が診断されたのは半年後。17歳の時、腸の一部の切除という大手術を8週間あけて2度受けた。以来状態は良くなり30年以上経った今は完治しているが、今でもアルコールを一切飲まない。「この病気はいつも痛くて本当に辛いのを知っているから、安倍さんはよく頑張ってきたと感心している」

 私が「なんで安倍さんは手術をして完治させないと思う?」と聞いたところ、「わからない。私が手術を受けたのは若い時だから、もしかして年齢的なことも関係あるかも」とのことだった。

世界各国のリーダーから贈る言葉

 トランプ大統領はじめ各国リーダーからの「贈る言葉」がロイターなどで報じられた。ここでは11人から寄せられた声を紹介する。

アメリカ、トランプ大統領

 トランプ大統領は28日、大統領専用機エアフォースワンの中で、記者団に対しこのように述べた。

「私の偉大な友人である安倍晋三首相に、最大の敬意を表したいです。 ... 彼は私の素晴らしい友人です」

「ただただとても残念です」

「残念に思う」というのは通常「feel sorry」と言うが、トランプ大統領が使った言葉は「feel very badly」。つまり、安倍氏の健康上の問題や辞任について「非常に心がざわざわする、懸念している」というようなニュアンスの気持ちが見え隠れしている。

 またトランプ氏は「安倍氏は日本をとても愛している」と語り、近日中に電話をかける予定を明かした。

次期大統領候補のジョー・バイデン氏も、自身のツイッターで声明を発表した。

「@AbeShinzoさん、あなたの友情とリーダーシップに感謝します。退任されるのは悲しいですが、日本とアメリカ、そして両国の人々の間で固く結ばれた同盟は、これからも長きにわたって続いていくことでしょう。友よ、今後のあなたの健康を祈っています」

「@AbeShinzo氏は日本の首相として国のため、そして世界のために偉大なことを成し遂げてきました。彼のスチュワードシップ(運営や管理能力)のもと、英国と日本の関係は貿易、防衛、そして私たちの文化的なつながりに至るまで、さらなる強さを帯びてきました。 長年のご尽力に感謝し、ご健康をお祈りします」

ドイツ、アンゲラ・メルケル首相

「辞任について遺憾に思い、またご多幸をお祈りいたします」「我々はとても良い仕事を一緒にしてきました(折り合いがとても良かった)」

ニュージーランド、ジャシンダ・アーダーン首相

「安倍首相は素晴らしく誠実さを持った人であると、私の印象に残っています。勤勉さ、情熱、そして他者への気遣いが何を成し遂げるかを、自身を通して示してくれました」

「日本とニュージーランドには、見解が一致するところがたくさんあります。民主主義とルールに基づいた国際システムへ我々が取り交わしたコミットメント(強いつながり、約束)は、ニュージーランド、特に共通の目標を持つインド太平洋地域にとって、日本が重要なパートナーであることを位置づけました」

中国、趙立堅(チョウ・リツケン、Zhao Lijian)外務省報道官

「ここ数年、中国と日本の関係は正しい軌道に戻り、新たな発展を遂げています。...ここに到達するために、安倍首相が取り組んできた重要な努力について、我々はポジティブな評価を表明いたします。そして同時に1日も早いご回復を祈念しています」

台湾、蔡英文(ツァイ・インウェン)総統

「安倍首相は、台湾の政策であれ台湾の人々の権益であれ、常に台湾に対して友好的でした。彼は非常に前向きな姿勢でした。我々は彼の台湾に対する友好的な気持ちを評価しますと共に、彼の健康を願っています」

ロシア、ドミトリー・ペスコフ報道官

大統領府(クレムリン)を代表して「辞任について遺憾に思います」と述べ、安倍首相とプーチン大統領との関係について「素晴らしい」(brilliant)と表現した。

韓国、青瓦台(大統領府)のカン・ミンソク報道官

「安倍首相の突然の辞任発表を遺憾に思います。日本で最も長く勤めた首相として、多くの意義ある業績を残し、特に韓国と日本の二国間関係の発展に大きな役割を果たしてきました」

「我々は首相の1日も早い回復を願っています。我が政府は日本とのつながりがより良くなるよう、新しい首相と新内閣と、これからも協力していきます」

韓国、権泰信(クォン・テシン)全経連常勤副会長

「文在寅(ムン・ジェイン)大統領と安倍氏は、良好な個人的関係を築いておらず、それが二国間関係の発展を妨げています。日本の新たな指導者が就任すれば、その時こそ二国間関係の改善に弾みをつけることができます。COVID-19が貿易やビジネスをさらに困難にしているこの世界情勢の中、不必要な外交や貿易上の対立が互いの国にとって不利になることは、両国が十分理解していることです」

在日ドイツ商工会議所CEO、マークゥス・シュールマン

「安倍氏は多国間主義と自由貿易の重要な推進者の1人であり、日本を世界の舞台に戻すために多くのことをしてくれました。日本は世界第3位の経済大国にふさわしい、知名度と認知度を回復しました」

「我々にはFTA(自由貿易協定)があり、彼は多くの困難な問題に取り組んできました。中国やロシアとの関係、そして取り立てトランプ政権になって以降のアメリカとの難しい関係性を見ても、彼の取り組みぶりがわかるでしょう」

「私は彼が失敗したとは言いたくありませんが、少なくとも未解決の問題となっているのは韓国との関係です。後継者が取り組まなければならない問題だと思います」

「東京にオリンピックを誘致することにも成功しました。これも忘れてはならない大きな功績だと思います」

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北朝鮮から声明は出ていないものの、ザ・ジャパンタイムズは「(拉致問題などに強く働きかけていた安倍氏の)辞任を喜んでいる可能性はある。後継者が誰になるか注意深く見守っているのではないか」とする外交筋のコメントを報じた。

 安倍首相辞任後も「株高円安」続くという市場見通しうさ 

ダイヤモンドオンライン 2020年8月30日(日)6時01分配信

安倍首相の電撃辞任を受けた 金融市場関係者の意外な見方

 安倍晋三首相は、8月28日17時からの記者会見で、辞任する意向を正式に表明した。首相の自民党総裁としての任期は、2021年9月末。首相の後継を選ぶ党総裁選の時期や形式は二階俊博幹事長に一任されたが、総裁選は9月に実施される見込みだ。

 安部首相が辞任を表明する前の同日午後、「安部首相が辞任する意向を示した」との報道が金融市場に伝わった。日本の株式市場は、この報道に対し売りで反応。日経平均株価は一時2万22594円と、この日の高値(2万3376円)から800円近く下げた。

 為替市場では、辞任報道を受けて円買いの動きが強まった。ドル円は106円台後半から106円ちょうど近くまで下落。ユーロ円は126円台後半から126円ちょうど近辺まで下げた。株式市場にせよ為替市場にせよ、安部首相辞任報道で株高・円安というアベノミクス相場が終わったとの連想が働いたのだろう。

 興味深いのは、各種メディアに掲載された安倍首相の辞任報道に対する金融市場関係者のコメントだ。金融市場がアベノミクス相場の終焉を連想したにもかかわらず、彼らの多くは、「安部首相が辞任したとしても、日本株相場や円相場に大きな変化が生ずることはない」との見方を示した。一部からは、「辞任報道を受けた市場の反応は、新たなポジション構築のいい機会だった」との見方すら示された。

 安倍首相が辞任する意向を示したとはいえ、自民党総裁選の時期や形式すら決まっておらず、次期首相を確実に見通すことは誰にもできない。それにもかかわらず、日本株や円に大きな変化がないとの見方が多いのは、「次期首相による各種政策は、安倍政権下と大きく違うことはない」との期待感が強いからだろう。

 次期首相は当面、新型コロナウイルスや景気悪化に対応せざるを得ず、結果として次期首相は(誰であっても)独自色の強い政策を打ち出しにくい、との見方はもっともらしい。政策の継続性が保たれるのであれば、日本株相場・円相場ともに大きな変化は生じない、というロジックは合理性があるようにみえる。

期待に支えられた円高・株安 9月以降の相場は波乱含みに

 しかし、9月以降の日本の金融市場は、コメントを寄せた金融市場関係者の期待とは裏腹に、非常に不安定なものになるだろう。

 安倍政権下での日本の金融市場(いわゆるアベノミクス相場)は、政策に裏打ちされたものではなく、市場関係者の「期待」という脆いものに支えられてきたからだ。有名なことわざである「幽霊の正体見たり枯れ尾花」を例にとれば、枯れ尾花(アベノミクス)がなくなれば、幽霊と思っていたもの(日本株高・円安)も感じられなくなる。

 安倍首相がアベノミクスを標榜したことをきっかけに、日本株は安倍政権下で3倍近くに上昇し、民主党政権時のように円高が続くこともなくなったのは事実である。そのためか、安倍政権が始まった2012年12月から2014年半ばくらいまで、アベノミクスが日本経済の改善を導き、日本株高や円安はアベノミクスの成果であるという見方は根強くあった。

 しかし、2014年半ば以降の日本経済は、アベノミクスを好意的に見る見方を裏切り、伸び悩むことになる。今となっては、数多くのエコノミストが指摘するように、金融・財政・成長戦略の3本柱で構成された(とされる)アベノミクスは、日本の実体経済を底上げする結果につながらなかったと総括されている。

 アベノミクスが日本の実体経済に貢献できなかったにもかかわらず、日本株の上昇や円高回避が続いた理由は様々だろう。筆者は、米国株の上昇という外部環境から生まれた追い風と、安倍首相を中心とする政権主要メンバーの株高・円安志向の強さへの期待が、日本株上昇と円高回避の主因と見ている。

 米国株上昇という追い風は、安部政権が終了してもしばらく続くだろう。米連邦準備制度理事会(FRB)のパウエル議長は27日、期間平均で2%のインフレ率を目指すと表明。インフレの下振れが続いた後には、物価圧力がオーバーシュートする期間を容認する可能性を示唆した。雇用の最大化に関しても姿勢を変更し、労働市場が上向く範囲の拡大を容認することになる。

 つまりパウエル議長は、従来容認していたよりも速いペースでの物価上昇と雇用の拡大を許容することを表明したわけで、その手段であるゼロ金利政策などの金融緩和策は、強化されることはあっても、縮小に転ずるのは相当先となる。FRBによる金融緩和の長期にわたる継続は、米国株相場を強力に下支えする。

 ただ安倍政権が終わったことで、アベノミクスも自動的に終了となる。たとえ政策に変わりはなくても、アベノミクスのシンボルである安倍首相が退陣する以上、アベノミクス期待が続くと見るのは無理がある。

政策の継続は希望でしかない 総選挙観測で潮目は変わる

 政策の継続性が維持されるとの見方は、市場関係者による希望でしかないと、筆者は見ている。次期首相が誰になっても、安倍首相とは違う人物である以上、安倍首相と全く同じであると期待するのは無理がある。

 ましてや次期首相が、財政悪化や異次元金融緩和を過去に否定したことがある人物であれば、たとえ実際の政策が安倍政権下のものと完全に同一であっても、「増税や異次元緩和の修正をいずれ試みる」といった期待が生まれやすい。

 安部首相の退陣によって、衆議院の解散・総選挙の可能性が高まったことも、日本株相場・円相場の不安定材料となる。衆議院の任期満了は来年(2021年)10月と、1年1カ月しか残されていない。衆院解散は次期首相の判断によるものの、自民党とすれば、景気悪化が続く中、任期満了という追い込まれる形ではなく、新しい首相をかついで主導権を持つ形で総選挙を迎えたいと考えても不思議ではない。

 総選挙が近いとの見方が強まれば、アベノミクス相場が終了したことを外国人投資家にも印象付けることになるだろう。

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2020年8月24日 (月)

【特別読み物】娘から「『ダウン症』の父親」への手紙

 虐められたこともあったけど50になったダウン症父親 娘からの手紙に心打たれる

FINDERS CREATIVE-BUSINESS 2020年8月24日(月)19時01分配信

 フィリピンのセブ島に住むリッチー・アン・カスティージョさん(25歳)は昨年6月2日、50歳になったダウン症の父親へのお祝いのメッセージを、自身のFacebookに投稿した。ダウン症は病気を併発しやすく平均寿命が短いと言われており、50歳を迎えられたことは奇跡だという。

 リッチーさんのこの投稿が今、複数の海外メディアで取り上げられ、大きな話題となっている。

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一つ後悔があるとすれば届くか分からないお祝いのメッセージ

 親愛なるパパへ 今日はあなたの人生の中でとても特別で奇跡的な節目です。あなたは今日50歳になり、長く美しい人生を生き続けている幸運に感謝しています。医師も驚いています。

 あなたがFacebookのアカウントを持っているかわからないので、これを読めないとは思いますが、あなたが私の父親であることをどれだけ誇りに思っているか世界中に知らせたいのです。

 パパ、すべての人が真実を知っているわけではないので、勇気をもって立ち向かうまでに何年もかかってしまいました。私は小学校の頃、あなたが他人と違うという理由でイジメられました。私はそうは思わず、なぜ彼らが私をからかって異常と呼ぶのか理解できませんでした。のちに理解した時、私は臆病者になりました。でもあなたは、私みたいな臆病者の娘以上の存在です。他のダウン症の人たちと同じように、あなたは愛や理解、忍耐や支持を受けるに値します。私はこれまで何もしてこなかったので、この誕生日のメッセージを書いています。

 パパ、あなたは私が今まで出会った中で最も強く勇敢な人です。これまで、医師に針を刺すことを許し、数々の手術や透析の日々、多くの制限に耐えてきました。でもあなたは不満を漏らしたことがほとんどありませんね。

 病院での手術や治療、入院を経ても、あなたは『Wa ko mahadlok mamatay kay ni salig ko sa Ginoo』、つまり『神を信じているので、恐れていない』と言っていましたね。透析センターで長い一日を過ごしたり低血糖を何度も発症したりした後でさえ、常に笑顔でいてくれました。あなたはそんな多くを乗り越え、一度たりともおののくことのない、とても勇敢な人です。私はあなたの身になって想像することさえもできません。

 私はあなたが最悪の状態になり、衰弱して疲れたと言うのを目にしたこともあります。『Kapoy na(疲れた)』『Sakit kaayo(本当に痛い)』という言葉を聞いた時、私は何日も泣き続け、病院に戻ることも出来なくなりました。体液が溜まって膝が痛くなり、泣いている姿も見ました。痛みを変わってあげられたらと何度願ったかしれません。あなたは歯を失っても、悩むことなく食事を楽しみ続けましたね。あなたはいつもpostiso(入れ歯)を失くします。はは!故意に失くしているのを知っています!私はあなたの歯や髪の毛のある姿を忘れてしまっていました。

 パパ、娘がそばにいなくて本当にごめんなさい。海に連れて行ってあげなかったり、お気に入りの点心を持って行かなかったり、お見舞いに行かなかったりしてごめんなさい。後悔していることが1つあるとすれば、イジメられるのが怖かった幼い私は、あなたの存在を隠したことです。でもあなたが思う以上にあなたを愛しています。パパ、私はいつもあなたから刺激を受けています。私はあなたが神を愛することに触発され、私も神を愛するようになり、あなたの信じられないほどの賢明さに驚いています。

 誰もがあなたを尊敬していることを知っているでしょう。いつでも周りに笑顔にすることができます。人を困らせることがあるけれど、それでも私たちはあなたを愛しています。あなたには良い日と悪い日があることを理解しています(あなたの悪い日は私たちの悪い日でもあるけれど、笑)。 あなたは時々意地悪になり、私を含むすべての人を拒絶することもあります。しかし、それもあなたなのだから、大丈夫です。他人と違っていてもかまいません。

 あなたについてまだ話し足りないけど、長くなりそうです。50歳のお誕生日おめでとう、パパ!いつも唯一無二のかわい子ちゃんと呼んでくれてありがとう。パパ、あなたのおかげで私は強く勇敢でいられます。愛しているよ、パパ。イジメっ子たちから身を守るのに、もう十分成長したと思います。たくさんの愛を込めて、あなたの娘より。

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共感するコメントが殺到

 父親への愛を打ち明けたリッチーさんのメッセージは8万回近くシェアされ、25万件の「いいね」を獲得。投稿には「このように書くには、思い切りと大きな勇気が必要だったことでしょう」「この共有を神に感謝します」「あなたのお父さんは世界中から尊敬されるべき人だ」などとする声が寄せられた。中にはリッチーさんの家族を昔から知る知人のコメントもあり、「私はリッチーさんがこれほど立派に成長したとは!インターネットはすばらしい」といった反響があった。

 面と向かって言えない気持ちを綴ることで自身と向き合い、誰かと共有して心が救われることもあるだろう。それは実生活の行動にもプラスに転じることがある。多くの人の心を揺さぶったリッチーさんの思いは、Facebookのアカウントを持っていない父親にも伝わったように感じてならない。

 地球平面説を信じる(ブラジル人の7%)エセ科学に騙されるな 

AFPBB News 2020年4月25日(土)10時04分配信

 ブラジルのレストラン経営者リカルドさんは、パンケーキのような形をした地球の模型の横に座り「ははは!」と大笑いした。リカルドさんが地球は平面だと話すと、このような反応が返ってくるのだという。

 60代のリカルドさんは、このような反応があるためフルネームは明かしたくないと話す。リカルドさんがサンパウロ(Sao Paulo)で経営するレストランは、地球は球体だという考えを否定する人々の出会いの場となっている。

「私が確実に分かっているのは、自分がいつかは死ぬということと、地球が平らだということだ」とリカルドさんは語った。

 調査会社ダッタフォーリャ(Datafolha)によると、ブラジルの全人口の7%に当たる1100万人以上が地球は平らだと信じている。

 ブラジルの地球平面説を信じるグループは、時には偏執的と思えるほど秘密主義だ。メッセージアプリの「ワッツアップ(WhatsApp)」や招待制のフェイスブック(Facebook)グループなどでやり取りすることが多い。

 このような閉じられた場では、地球は平らで固定された物体であるという自分たちが信じる説を、バカにされる恐れもなく自由に議論できるという。

 地球平面論者らは、物理学、光学、聖書の解釈を交えながら、自分たちの主張に反する証拠はすべて陰謀だとして却下する。

 ダッタフォーリャによると、地球平面説を信じているブラジル人の大半はカトリック教徒またはキリスト教福音派の男性で、教育水準は比較的低いという。

 だが教育と知識を混同してはいけないと、地球平面論者は警告する。

 50歳の実業家アンデルソン・ネベス(Anderson Neves)さんは、「地球平面論者は一番賢い。そこのところを書いてくれよ!」と言った。ネベスさんは、両手いっぱいにニュートンとコペルニクスの「でっち上げ」を非難する内容のパンフレットを携えて、リカルドさんのレストランに入って来た。

「悪質な疑似科学が世界中の教育システムを破壊している」とそのパンフレットの一つに書いてあった。さらに地球が丸いとの主張は「世界のエリートによる人類最大のうそだ」との主張もあった。

 一方、サンパウロ大学(University of Sao Paulo)の天文学者ロベルト・コスタ(Roberto Costa)氏は、科学者にとって地球平面説は、科学的な問題というよりも、心理学的または社会学的な問題に思えると述べている。

 羽生結弦卒論初公開コロナ禍勉強してました 

日刊スポーツ 2020年8月23日(日)16時41分配信

 フィギュアスケート男子で冬季五輪2連覇の羽生結弦(25=ANA)が23日、日本テレビ系「24時間テレビ」にリモート収録の形で出演した。

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 今年は14年以降の恒例だったアイスショー披露はないものの、今年の番組テーマ「動く」にちなみ、新型コロナウイルス感染拡大後に「動いた」ことを語る、と予告されていた。取材は今月13日にリモートで行われたといい、大会やアイスショーが軒並み中止になっている中、練習時間も削られた中、新型コロナ禍の中で「動いた」ことについて「勉強してました。ひたすら。ふふふ」と柔和な笑顔を見せた。

 在籍する早大人間科学部(通信教育課程)では人間情報科学を専攻。「フィギュアスケートにおいて、モーションキャプチャ技術をどれだけ使えるか。あと、どういう展望があるのかをまとめた論文です、基本的には」と紹介し、実物を公開。その中の1項目として「3Dモーションキャプチャによる陸上でのジャンプの研究」を初公開した。

 人間の動きをデジタル化して記録・解析する装具のモーションキャプチャを自身に着け、陸上でトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を跳んで動作を研究。将来的に、選手の技術向上やAI採点などフィギュアスケート界の発展に役立てたいと願っており「練習する時間が少なくなってしまったからこそ、勉強にすごい集中できてて。自分の論文を完成させられたことが1番、動いたことかなとは思っています」と語った。

 日本がインドネシアに500億円支援決定 度重なる裏切りで募る不信 

デイリー新潮 2020年8月25日(火)5時58分配信/末永恵(ジャーナリスト)

 7月20日、日本政府はインドネシア政府の要請を受ける形で、20億円の無償資金協力と最大500億円の円借款を決定した。名目は新型コロナウイルスの感染症対策および医療体制支援で、円借款は金利0・01%で償還期間は15年だ。東南アジア情勢に詳しいジャーナリストの末永恵氏は、この“思いやりODA”に疑問を呈する。

 ***

 8月23日現在、人口およそ2億7000万人のインドネシアのコロナ感染者数は15万1498人、死者数は6594人(新規感染者2037人)。発表値をそのまま信用できないとはいえ、5倍以上の人口を抱える中国の感染者数が8万9645人、死者数4711人であることを鑑みると、アジア地域で最悪レベルを更新中だといえよう。しかもインドネシアのこの公表値は少なく見積もられている指摘もあり、現地有力誌『テンポ』は「(実際の)死者数は約5倍」と報じている。

 8月に入っても1500人から2000人を超える勢いで連日右肩上がりで増え続けるコロナの感染者と犠牲者数は、ジョコ・ウィドド大統領(以下、ジョコウィ大統領)政権の最大かつ最も困難な政治課題となっている。現地紙『コンパス』が先月発表した国民アンケートでも、約90%が「政府や閣僚のコロナ対策に不満を抱いている」と答えていた。だからコロナ支援を目的とした日本からの巨額ODAは、政府にとって願ったり叶ったりだろう。対東アジアや東南アジアなどへのODAを審査・担当する外務省国別開発協力第一課の渡邊滋課長は、インドネシアへの支援の意義を次のように筆者に語った。

「感染拡大防止への援助は、インドネシアの社会、経済回復を助けるとともに、日本への感染輸入予防や緩和においても重要だ。今回のコロナの緊急支援による同国への資金協力は、ODAの利率も最低レベルで、ほぼ無償と言っていい。2000社を超える日系企業が展開する同国の経済を下支えすることは、日本経済にとっても有益だ」

 今回のODAに関しては、日本が最大出資国であるアジア開発銀行(ADB)との協調融資で、同銀行からもさらに15億ドルが拠出されることになっている。同銀はコロナ支援で、アジア10ケ国への融資を計画しており、インドネシアは正式決定した最初の国になる。

 だが、日本とインドネシアの間にはこんな因縁もある。

コロナ、鉄道でのしっぺ返し

 詳しくは3月30日配信の拙稿「新型コロナの感染源は日本人――インドネシア政府がついた姑息過ぎるウソの顛末」記事を参照いただきたいが、今年3月、、ジョコウィ大統領は「国内初のコロナ感染者の感染源が日本人である」との発表を行った。後でまったくのデマであることが判明したわけだが、この政府の嘘により、子供を含めた在インドネシア邦人の多くが、現地でいわれのない差別やハラスメントを受ける被害にあったのだ。

 この問題では、在インドネシア日本大使館の石井正文大使が声明を発表したほか、茂木敏充外相が「インドネシア政府に在留法人の安全確保と差別やハラスメントの再発防止を要請した」と衆院外務委員会で発言するなど、外交問題に発展してもいる(なお、インドネシア政府のウソを暴いた私の記事に対して、在日インドネシア大使館から記事の撤回を求める抗議をいただいた)。

 因縁はコロナだけではない。日本と中国が受注合戦を繰り広げたジャワ島の高速鉄道建設計画では、「土壇場でちゃぶ台をひっくり返された」(現地の日系企業幹部)形で、2015年に中国案が採用された。しかも「日本がODAの公的資金を投じて行った地質などの調査結果を、インドネシア政府が中国政府に漏洩したという疑惑もある」(先の企業幹部)。

 こうしたインドネシアの“親中反日”の動きについてくわしくは、拙稿「『コロナ第一号患者の感染源は日本人』 インドネシアが流したウソの裏に“反日・親中”」(3月31日配信)に譲るとして、高速鉄道計画は中国が受注するも、遅々として進んでいない。今年5月末には地元メディアが「(ジョコウィ大統領が)中国主導の高速鉄道計画に日本を参加させたい意向を表明」と報じている。あれから3か月、日本政府関係者に取材すると「現地の報道後、一度、打診のようなものはあったが、それ以来、要請も何も一切、来ていない」という。

 実は“日本へのラブコール”が報じられたと同時に、中国と分担する工事費のインドネシア分の予算が超過されたことも取り沙汰された。日本への要請表明は、日中の二国を天秤にかけることで、中国からさらによい条件を引き出すための「漁夫の利」の画策などではないかと、私は見ている。

 もし仮に中国主導の計画に日本が参画すれば、コスト負担だけでなく、日本の技術やテクノロジーが盗まれてしまう懸念もある。また、ジャワ島の高速鉄道は、中国から南シナ海を通り、マラッカ海峡を経てインド洋から欧州大陸へ抜ける一帯一路の「六廊六路多国多港」といわれる重要ルートの一つで、言い換えれば、「一帯一路」の生命線ともいえる重要なプロジェクトだ。中国から中央アジア、さらに欧州に至る陸路の「一帯」と、中国、東南アジア、スリランカ、中東、欧州、東アフリカに至る海路の「一路」からなる世界を中華圏が支配する――習近平主席が掲げるそんな政治的戦略構想に、結果的に日本が協力してしまう恐れもあるのだ。。

 いずれにせよ、高速鉄道をめぐる一件は、日本人にインドネシアに対する“猜疑心”を植え付けさせた。“あれだけ巨額の支援をして裏切るのか”というものである。一帯一路の支持を早々に表明し、中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)にも東南アジア諸国で先陣を切って参加を表明したインドネシアを「日中のライバル意識を利用し、最終的に自国に有利な展開にもっていく」(日本政府高官)と評する声もある。

日本からの資金がもたらした腐敗政治

 外務省によると、日本が1958年から実施しているインドネシアへのODAは、累計5兆7134億円におよぶ(2018年度)。内訳は有償資金協力として累計5兆685億円、無償資金協力として2821億円、技術支援協力が3628億円だ。これは日本のODA供与先としては、第2位の巨額援助国となっている(2016年度まではインドネシアが最大援助国だった。現在の1位はインドで、累計6兆150億円)。

 たとえ無償を謳う支援であっても、それに見合う見返りがなくては、税金を投じる意味がない。実際、日本のインドネシアに対するODAは、これまで開発援助に参画した日系企業に巨額の利益をもたらした。その一方で、日本からの資金が、1960年代から30年に亘り長期独裁政権を敷いていたスハルト政権の汚職と腐敗を巨大化させる要因の一つにもなった。

 スハルト体制は俗に、インドネシア語から由来する「KKN体制(汚職:Korupsi、癒着:Kolusi、縁故主義: Nepotisme)」と呼ばれる。これは、国の富の半分を1%の超富裕層が牛耳る、腐敗政治の象徴的な呼称である。スハルト政権末期の97年時点で、日本のODA供与額は3兆3302億円で、中国の2兆383億円を抜いて、世界一だった(ODA白書)。

 KKN体制を日本のODAがいかに支えたかは、たとえばスハルト大統領の長女で社会相を務めた実業家、シティ・ハルディヤンティ・ルクマナ(通称トゥトゥット)氏の生活に見て取れる。彼女は日本のODAで建設されたジャカルタ市内の有料高速道路を管理する民間企業の筆頭株主に就き、長年にわたり、巨額の蓄財を得たとされている。諸外国からの援助資金を独り占めして食い物にしたあげく、インドネシア経済を破綻に導いた「スハルト・チルドレン」の中心的人物の一人だ。

 かつては中国も日本からの巨額ODAを受け、今日の世界第2位の経済大国の礎を築いた(日本国民の血税が中国に投じられたわけだが、中国はその資金を“中国からの”ODAとして、アフリカ諸国などに使っていたことは有名だ)。約40年間にわたる中国への供与は18年に終了したが、拠出額も累計で3兆6500億円ほどだったことを鑑みると、これまでいかに日本がインドネシアに手厚い支援を行ってきたか、わかるだろう。そしてそれだけの資金が、腐敗政治の一助となっただけではなく、高速鉄道やコロナの時のような“恩をあだで返す”仕打ちを、インドネシアは行ってきたといえる。インドネシアへこれ以上の支援が必要か、再考の余地は本当にないだろうか。

既存の支援にも疑問符が

 すでに計画が進行している日本の公的支援についても必要性を疑う声がある。

 たとえば、西ジャワ州チレボン県で進められている石炭火力発電所拡張計画。過去に丸紅などの出資で建設された発電所の近くに、新たに出力100万キロワットの大型発電所を新規建設するという計画で、インドネシアや韓国の現代建設といった大手企業とともに、最大出資者として丸紅、さらには東京電力グループや中部電力らが参画している。こちらは国際協力銀行(JBIC、財務省が管轄)が資金援助を行っているが、昨年末、地元の知事や現代建設のゼネラル・マネージャーらが、4700万円の贈収賄容疑で逮捕された。ほかに約15億円の用途不明資金疑惑もあり、検察の捜査が進んでいる。

 さらに、ODA事業で行われている同州インドラマユ県での石炭火力発電所拡張計画。こちらもやはり、中国資本で建設された既存施設の隣に新たな発電所を計画しているもので、現在、日本の国際協力機構(JICA)を通じ、すでにコンサルなど含む専門的基礎調査などにおよそ7億円(エンジニアリング・サービス借款)が貸与されている。これに加え、計画全体への円借款申請が待たれている状況だ。

 オランダのアムステルダムにも拠点を構え、日本のODA開発事業に詳しい国際環境NGO「FoE Japan」の委託研究員・波多江秀枝氏は、こんな懸念を表明する。

「中国主導で進められたインドラマユ県の計画でも、地元の知事が汚職で逮捕されました。海外の援助を受けたプロジェクトがインドネシアで進められるとき、もたらされる資金が現地の汚職の源になりがちです」

 スハルト時代の汚職の構造は今日でも健在――ということか。この点、先に登場いただいた外務省国別開発協力第一課の渡辺課長は、

「公的資金が汚職や腐敗に流用されないよう厳選な審査をする。審査次第では、ODA供与は見送る可能性がある」

 としている。もっとも波多江研究員は、

「インドネシア国有電力会社(PLN)は、電力不足に陥ると主張していますが、現在すでに電力過剰の状態であり、また同社の資料を基に分析すると、逆に今後10年ほどは30%から45%の供給過剰になります」

 と、先の2つの拡張計画が、そもそも不要であるとも指摘。実際、世界的に「脱炭素化」が進む中、大量のC02を排出する火力発電所の建設支援を行うことで日本が世界から批判されており、支援には負の側面もある。またインドラマユ県では、発電所が出す粉塵によって周辺住民の健康被害への懸念が報告され、現地では裁判沙汰になっている。

 こうしたODAに“上乗せ”する形で、今回、日本はインドネシアにコロナ支援を行うわけである。が、同時にインドネシアの国営製薬会社ビオ・ファルマは、中国のシノパック・バイオテック社とコロナワクチンの共同開発を進めてもいる。8月4日には、量産体制に入る準備を進めていると、インドネシアの国営企業相が発表した。ここでも日中を手玉にとろうという魂胆が透けて見えないだろうか。

 日本がインドネシアにODAを始めて62年。今年7月には世界銀行がインドネシアを上位中所得国として認定した。日本がODA対象の基準にしている一人当たりの国民総所得(GNI)も大幅に上昇しており、そろそろ独り立ちできる頃ではないだろうか。それでも支援するのであれば、高速鉄道の同じ轍を踏まないよう、そしてわれわれの血税をドブに捨てないよう、さらには日中関係の“足元”を見透かされないよう、日本政府や関係各省には肝に銘じてほしい、と願うばかりだ。

 

2020年8月22日 (土)

【特別読み物】大東亜戦争秘話✍『父島人肉事件』の記録

 米国人捕虜を殺して食べた狂気の宴会が行われた父島事件 

文春オンライン 2020年8月16日(日)17時01分配信/小池 新(ジャーナリスト)

 今年は戦後75年。コロナ禍にまぎれながら、戦争を振り返る報道もいくつか見られる。今回取り上げるのも戦争絡みだが、正直に言って、書きながらも気が重たくなる。それはテーマが“人肉食”という、普通の時代の普通の感覚ではあり得ない出来事だからだ。

 太平洋戦争末期の小笠原・父島で、墜落して捕らえられたアメリカ人パイロットを殺害し、その肉を食べたという、文字にするのもおぞましい出来事。戦争中とはいえ、どうしてそんな非人道的なことができたのか。探っていくと、やはりそれは、その時代の空気や、その時代に生きた人々の心理と切り離しては考えられないことが分かる。その点にポイントを置いて事件を追ってみよう。

私のための宴会で初めて飛行士の人肉が試食された

 この事件に関する新聞記事は極端に少ない。その中で、戦後間もない1947(昭和22)年1月14日の東京朝日(東朝、この時期は各紙とも朝刊のみ2ページ立て)2面3段、1946年5月3日に開廷した日本の戦争責任を裁く極東国際軍事裁判(通称東京裁判)の公判内容を報じた「東京裁判」のワッペン付き囲み記事を見つけた。

 前年12月から日本軍によるアジア全域での残虐行為の立証が集中的に進められ、年明けからは捕虜虐待事件が広範に取り上げられていた。「父島事件」もその1つだったようだ。記事の見出しは「會(会)食に米飛行士の人肉試食 的場少佐の『父島の残虐』尋問書」。的場少佐とは、父島駐屯の独立混成第一旅団に所属する独立歩兵第308大隊長・的場末勇陸軍少佐のことだ。

 同島(小笠原父島)最初の人肉試食事件は?

(=的場末勇陸軍少佐) 昭和20(1945)年2月23日、米飛行士処刑の報告を橘将軍(陸軍少将)に行った際、私のための宴会で初めて飛行士の人肉が試食された。それは、橘将軍が第307大隊司令部に電話で甘藷(イモ)酒1斗と肉を届けるよう命じた。肉は加藤大佐の部屋で料理された

 人肉であることを知っていたか?

 そうだ

 どのくらい届けられたか?

 約5、6ポンド(約2.3~2.7キロ)だ

 肉を食べ尽くしたのか?

 皆2、3片かほんの1片食べただけで、大部分は残された

 戦争終了前、井川大尉が人肉を食べたことを自慢し、人肉1片を食べれば、十人力の戦闘精神が生ずると言ったのを聞いたか?

 いいえ

 橘将軍は、死刑の執行が済んだ捕虜は全てこうするのだと言ったか?

 そうだ。昭和20年2月、師団司令部の会議で、橘将軍は食糧、弾薬は欠乏し、遂には戦死した戦友まで食べねばならなくなるだろう。敵兵の肉は食わねばならぬと言った

 橘将軍は、捕虜とした飛行士は皆死刑にし、これを食うことを方針としたとか、大本営(戦時中の陸海軍統帥機関)の命令であるとか言ったか?

 大本営のことは知らぬが、将軍が言ったのは確かだ

「橘将軍」は独立混成第一旅団長の「立花(芳夫)将軍」の誤り。「加藤大佐」は同旅団所属の独立歩兵第307大隊長・加藤武宗大佐、「井川大尉」は同大隊の井川繁雄大尉のこと。この尋問調書は1946年、トラック島など他の太平洋地域の戦争犯罪と合わせてグアム島で行われた戦犯裁判の検察側資料だった。それにしても、敗戦から1年5ヶ月。空襲で破壊され荒廃した街で、その日食べる物もなく生きるのに精いっぱいだった多くの国民にとって、こうした事実は全く初耳だっただろう。「戦争中にこんなこともあったのか」と驚いたのは間違いない。そのうえでどう受け止めたのだろうか。同じ日付の毎日新聞にも「東京裁判」のワッペンで「海上捕虜 虐待立証終わる」の見出しの記事がある。

 短い記述だが「特に、父島における捕虜の人肉を食った一件は聞く者の心を寒からしめた」とあり、記者の受けた衝撃の大きさをうかがわせる。国士館大学法学部比較法制研究所監修「極東国際軍事裁判審理要録第5巻」には、的場少佐の供述内容として、立花少将に報告に行った際のことがこう書かれている。「その折に酒が振る舞われ、話題がブーゲンビルやニューギニアの友軍のこと、補給を断たれた部隊が人肉を食していたことなどに及んだ。そこに第307大隊本部から電話があり、加藤大佐から立花少将と自分が宴会に招かれた」。

非人道的すぎて戦友会がその事実を否定しなかった?

 もう1つの記事は同年9月26日付東朝1面「東京裁判」の末尾に加えられた「立花元中将ら五名絞首刑」の小さな記事。パールハーバー(ハワイ)24日発AP電を共同通信が配信した。「グアム島駐留日本軍司令官・立花芳夫陸軍中将をはじめ的場スエオ(末勇)元少佐、田中マサハル元大尉、ヨシイシズヤ元大尉(吉井静雄・元大佐の誤り)、井川タダオ元グアム島警察署警視の5名が戦時中グアム島で米人捕虜を拷問・虐殺したうえ、その肉を食した罪により23日、グアム島で絞首刑に処せられたと米海軍当局から24日発表された」。

 実際は、記述された5人のうち「田中マサハル」「井川タダオ」はグアム島裁判での別の事件の罪で、立花、的場、吉井の3人が父島事件での罪で死刑判決を受けていた。同事件ではほかに独立混成第一旅団司令部の伊藤喜久二・陸軍中佐と、第308大隊機関銃中隊長の中島昇・陸軍大尉の2人が死刑判決を受けて同年6月に処刑されていた。

 極東国際軍事裁判は、東条英機・元首相ら「平和に対する罪」などを問われた主要A級戦犯が東京・市谷で、通例の戦争犯罪や人道に対する罪に問われたBC級戦犯が横浜やアジア各地で裁かれた。それには「特色は、戦勝国による懲罰的裁判の色彩を帯び、客観公平性に欠けるという印象を与えたことである」(「日本近現代史辞典」)ともいわれた。

 その中でこの父島事件が特異なのは、人肉食という非人道的な戦争犯罪であるうえに、戦友会がその事実を否定しなかったと思えることだ。1969年に出版された小笠原戦友会編「小笠原兵団の最後」に「人肉食」の言葉は出てこないが、捕虜殺害に留まらない残虐行為があったことを元将兵の証言で裏付けている。それは参謀だった堀江芳孝・陸軍少佐の存在が大きかったようだ。戦後は匿名で「小笠原兵団の最後」の記述の中心となり、「増刊歴史と人物」1984年2月号では実名で「父島人肉事件 師団長も食った」を書いている。

 それらの資料を突き合わせても、犠牲になったアメリカ人捕虜1人1人の動向がはっきりつながらないところがある。それらを勘案して事件の流れをおさえてみる。

見せしめに敵兵の肉やキモでも食ってやろうじゃないか

 的場少佐の供述にある、最初の人肉食事件の遺体解体を命じられたのは第308大隊付き軍医だった寺木忠・見習医官。北海道帝大(現北海道大)医学部出身で開業医だったが召集されていた。敗戦で帰郷したが、戦犯となっているのを知って逃亡。1948年に逮捕されてグアム島で裁判にかけられ、禁固4年の刑に。「父島人肉事件」には寺木の著書「告白の碑」の一部が収録されている。要約してみよう。

(2月23日、第308)大隊副官から「307大隊に行っている部隊長から電話があり、きのう処刑した捕虜から肉を1貫目(約3.75キロ)ほどとキモを取って大至急届けるようにと言ってきた。ただちに実施してもらいたい」(と命令があった)。

 察するに(立花旅団長と的場大隊長は)昨夜から徹宵飲み明かし、余勢を駆ってきょうは2人で307大隊長のところへ押し掛け、3人で飲んでいるうちに、「硫黄島上陸作戦が始まってから、どうも士気が衰えたようだから、ここらで全軍を鼓舞する意味で、見せしめに敵兵の肉やキモでも食ってやろうじゃないか」と意見が一致したもののようだ。とんだ役目をいいつかったものだと思ったが、軍医はいまのところ私しかいない。ぐずぐずしていると、短気な部隊長のことだから、立腹のあまり、あとでどんなとがめを受けないとも限らない。「卑怯なやつは見せしめに死刑に処す」などと言いかねない男である。私は承諾した。

 まさかこんなことになろうとは思ってもみなかった。きのうのきょうなので、埋葬した場所もすぐ分かり、土もまだ軟らかく、難なく掘り出すことができた。捕虜の顔はまだ若々しく、私には見覚えのある若いアメリカ兵であった。銃剣で突かせたらしく、胸にいくつもの突き傷があった。肉の方は軍曹に任せ、私は肝臓を取り出そうと右上腹部にメスを入れた。私が肝臓を摘出するのとほとんど同時に、兼森軍曹も左大腿部の中央あたりの肉を幅15センチぐらいの輪切りにして切り取った。優に1貫目以上はあったろう。彼はそれを硫酸紙に手早く包んだ。

「告白の碑」=「父島人肉事件」所収

 寺木軍医は2日後の2月25日、再び重い任務を負わされる。

「捕虜がいるぞ」という兵隊たちの騒ぎ声に外へ出た。部隊室へ通じる道のそばに、後ろ手に縛られた金髪の若いアメリカ兵が1人、うなだれて座っている。初めて見る顔だった。この日、各中隊長が部隊長室へ集合して昼の会食をしていた。酒が出たことは言うまでもない。

 酔ったらしい機関銃中隊長の中島大尉が千鳥足で部隊長室から出てきた。父島のほとんどの将校がそうであるように、彼もタマナ(テリハボク。カヌーなどの材料になる堅い木材)の木で作った木刀型のツエを携えていた。一度殴り始めると、後はとめどがなくなるのが酒乱の特徴なのか。中島大尉は狂ったように乱打し続けた。捕虜は顔中血だらけになって倒れた。誰かが、死んでしまわないうちに、兵隊に銃剣で突かせようではないかと言った。中島大尉もそれに賛成した。

 兵隊が2人がかりで左右から捕虜を抱きかかえながら、少し離れた空き地へ連れて行った。捕虜はもう1人で立っていられないので、彼をタコの木(小笠原諸島の固有種)に縛り付けた。本部の兵隊が数名、代わるがわる銃剣で突いた。捕虜は完全に絶命した。その時、副官が私に向かい、先日と同様にキモと肉を切り取るようにと言った。後日聞いた話だが、あの後、兵隊たちが死体の肉を勝手に持ち去ったため、死体はほとんど骨ばかりになったということだった。

「告白の碑」=「父島人肉事件」所収

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空襲でアメリカ軍捕虜が続出したのはなぜか

 1945年2月後半に捕虜が続出したのは硫黄島の戦いと直接関係している。

 2月16、17日の両日、アメリカ機動部隊艦載機は東日本各地を攻撃。さらに「2月17日から18日にかけて延べ456機、19日から27日の間に延べ300機が小笠原方面に来襲した」(防衛庁防衛研修所戦史室編著「戦史叢書 本土方面海軍作戦」)。2月19日の硫黄島上陸の前触れと援護のためだった。硫黄島はサイパン―東京間約2000キロのほぼ中間に位置し、日米両軍にとって戦略上の要地だった。爆撃は激烈で、対空砲火による撃墜などでアメリカ人飛行士らが捕虜となるケースも続出した。

「小笠原兵団の最後」は「やがてパイロットのメイ海兵大尉と副パイロットのホール海軍少尉がH(堀江少佐)の前に護送されてきた」と記述している。

 それからホール海軍少尉は堀江少佐の「英語教師」となり、二人は親しく交流していたが、そのうち再三の強い要請を断りきれず、身柄は第308大隊に引き渡された。処刑されたホール少尉の遺体解体を命じられたのは三たび寺木軍医だった。

大隊は米軍飛行士ホール少尉の人肉を食せんと欲す

 この日の朝、私は部隊長室へ呼ばれた。的場部隊長はこう言った。「本日の午後、捕虜を処刑することになっているが、今夜もまたお前にキモと肉を切り取ってもらいたい。そしてそのついでに、教育中の補助衛生兵たちに解剖を見学させてやれ」。今回は部隊長直々で私に命じた。心ならずも命令に従うほかなかった。

 全てを悟ったホール少尉は、さきほどの陽気な影は全く消え失せ、蒼白な顔面には悲痛の色がみなぎっていた。現場には既に穴が掘られていた。彼はその穴を前にして座らされた。自分の墓穴を目の前にした彼の心境はどうであったろう。本部付きの中村伍長が捕虜の背後に立ち、曹長刀を振りかぶって気合いもろとも切り下ろした。見事に皮一枚残して首は切断され、捕虜は前のめりに倒れた。

 その夜、308大隊の全将校は防空壕内の部隊長室に召集され、大宴会が催された。ホール少尉の試食が目的であることはいうまでもなかった。「出席せよ」という部隊長の命令が届いた。満員といってよい室内では、いまや酒宴はたけなわであった。

 部隊長はすぐに私を彼の右隣りの席に招いた。私が座ると、彼ははしで挟んだものをいきなり私の口の中に押し込んだ。「はっ」と思ったが、吐き出せばどんな難題を吹きかけられるか分かったものでない。私はそっとかんでみた。鶏のモツのような味がした。例の肝臓だなと思うと、どうしてもそれ以上かみ続ける気にはなれなかった。口の中でしばらく転がして、いかにも食べたようなふりをしてから便所に立った。そして口の中の物をすっかり吐き出し、そのまま自分の部屋へ帰って寝てしまった。遠くから聞こえる酒宴の音は、不愉快さに拍車をかけた

「告白の碑」=「父島人肉事件」所収

 この時、いかにも奇怪な命令が口頭で出されている。的場少佐が記憶を書き留め、グアム島裁判の証拠として提出された。「極東国際軍事裁判審理要録第5巻」に載っている。

【米軍飛行士の人肉を食することに関する命令】

1. 大隊は米軍飛行士ホール少尉の人肉を食せんと欲す
2. 冠中尉は配膳を担当すべし
3. 坂部見習軍医は処刑の現場に立ち会い、肝臓と胆嚢を遺体より切除すべし

大隊長 的場末勇少佐
1945年3月9日午前9時

 まともな神経とは思えないが、これが戦争なのか。

アメリカ人捕虜を日本刀で斬殺して……

 日本弁護士連合会の会長を務め、2009年に死去した土屋公献氏は学徒出陣で海軍予備学生となり、1945年1月、父島駐屯の第2魚雷艇隊に配属された。2008年に出版した自伝「弁護士魂」でその時のことを書いている。「私が小笠原で体験した最も残酷だったものは、アメリカ兵捕虜の処刑であった」。その捕虜はヴォーンという中尉だった。

 梯久美子「父島人肉事件の封印を解く」(「文藝春秋」2007年7月号所収)によれば、捕虜になったのは、米軍の硫黄島上陸5日目の1945年2月23日。年齢を聞くと、土屋氏より1歳上の満22歳。「母一人子一人で、母親は首を長くして帰るのを待っている」ということだった。

「土屋は剣道2段だから、その捕虜を日本刀で斬れ」と命令された。仕方がないと覚悟していると、処刑前日、「俺がやる」と申し出たのが同じ学徒兵で魚雷艇隊の小山という少尉。「剣道4段、腕前は私よりはるかに上だった」。次の日、当直将校だった土屋見習士官はヴォーン中尉を処刑場まで連行。一部始終を見た。「彼はものの見事にバッサリやった。斬った瞬間、座っている捕虜の首が前にブラっとぶら下がって、血を噴き出してバタリと後ろに倒れた。途端に、見物していた兵隊たちから拍手喝采が沸き上がった」(「弁護士魂」)

 遺体は軍医が解体。「肝臓と肉は海軍の厨房で調理され、その夜、食堂で将兵に供された」と「父島人肉事件の封印を解く」は記述。1945年3月17日のことだとしている。「この日の夜、吉井大佐が『敵の肉を食らうくらいの気概がなくてどうする』と部下たちに捕虜の肉をふるまっていた。ちょうどその頃、硫黄島では、最高指揮官・栗林忠道中将が、部下たちと別れの盃を交わしていた」(同記事)

戦犯を逃れようと烈士は猫の前のネズミに変わった

 それから敗戦を迎えて、状況は一変する。「父島人肉事件」は「至る所でヒソヒソ話が広がった。彼らは戦犯をいかに逃れるかに関心を集中していたのである。『捕虜をぶった斬れ。その肉を食え』と怒鳴り、殺した捕虜の体から肝臓と肉を取り出して祝宴に興じた烈士は猫の前のネズミに変わった。自らの大言壮語に酔っていた連中が、いまや顔面蒼白、命乞いだけしか考えぬ匹夫(凡庸な男)と化した」と書いている。

 堀江少佐は立花師団長と海軍父島特別根拠地隊司令官の森国造・海軍中将と会談。捕虜の処遇について確認し、「アメリカ軍の爆撃によって防空壕で全員爆死した」というシナリオを作って口裏を合わせることにし、的場少佐の指揮で「捕虜の遺体を焼いて埋めた」墓地まで造ったという。

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天人共に許さない残虐行為を行った

 しかし、1945年9月の正式降伏後、10月に進駐してきた米海軍は、表面的には友好的だったが、調査担当将校が復員していった元兵士らから証言を集め、事実関係の裏付けを進めていた。1946年2月初め、アメリカ軍幹部はピクニックと称して堀江少佐を野外に連れ出し、1通の手紙を見せた。それは、復員が遅れていた第308部隊員有志の「捕虜爆死の話は作り話で、一部の者が彼らを殺したのであります」という嘆願書だった。堀江少佐も事実を認め、立花中将らは次々逮捕された。

「たちまち立花、的場に対する憎悪と怨嗟の声が父島一帯に満ちた。『俺たちの酒を、あの畜生めが飲んじゃったのだ。俺は三度も殴られた。階級ででけえ面しやがって、人間じゃないんだよ。畜生なんだ……』という式で、驚いたことに、捕虜虐待の件はどこへやら、自分たちが受けた被害に関連して、日頃の両人の低劣さに集中砲火が浴びせられた」と「父島人肉事件」は記している。

 グアム島での軍事裁判は1946年5月から9月までアメリカ海軍によって開かれた。被告は父島関係で立花中将ら25人。起訴状はこうなっていた。

「1944年6月15日、アメリカ海軍が父島と母島を初空襲した時に2人、同年7月と8月に3人、翌年2月16日と17日に5人の計10人のアメリカ人搭乗員が日本軍の地上砲火によって撃墜され、いずれも落下傘で脱出に成功したが、日本軍に全員逮捕された。うち2人は日本内地に送られたが、残る8人は軍事裁判にかけることなく、殴打、軍刀による斬首、銃剣刺突などの方法で殺害したうえ、一度は地中に埋めた遺体を発掘し、天人共に許さない残虐行為を行った」

 父島関係で出廷した証人は堀江少佐ら40人。捕虜を斬殺した1人の伊藤喜久二中佐は「I中佐」として証言要旨が「小笠原兵団の最後」に載っている。

肝を食い、必勝の信念の養成に処すべし

「硫黄島の上陸前夜、2名の捕虜が届けられた。(立花)少将はこの捕虜に猛然と襲いかかった。真鍮のステッキで胴腹に2つずつ打撃を与え、高級副官H(東木誠治大尉)に命じ、司令部前の松の木を背にして針金で首から足まで縛らせ、『この畜生めらが戦友を殺したのだ、見せしめに殴れ、蹴れ、そして憎め』とどなり散らした」「2、3日、捕虜は生きていた。Tは将校の会食で試し切りの希望者はないか、剣のすごみを披露するチャンスだと言った。副官のH大尉が『中佐殿、あなたは剣豪です。閣下の命令です』と言うので、不承不承このIが切ることになった。第307大隊の地区で大勢監視の前で切ったが、自分としてはいい気持ちはしなかった」。

 伊藤中佐は高級将校の養成機関である陸軍士官学校(陸士)で東条英機元首相と同期の17期。軍人としては高齢だったが召集されていた。

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 立花中将や的場少佐の人格に関する証言も。立花中将の当番兵だった元上等兵は「日頃、銭形平次の捕物帳を読んでいた。酒飲みで、よくメモを書き、主計(会計などを取り扱った軍人)のところへ酒買いに行かされた。一升ビン2本をもらってくると自室に置き、飲んだ分量をよく知っており、少しでも失敬するわけにいかなかった。われわれ兵隊を卑しい者と見ていばりくさり、思いやりなどさらさらなかった。私は彼から下劣な成り上がり者という感じを受けた」(同書)。

 それ以上に評価が低かったのは的場少佐。捕虜を殴打し、その後刺殺させた部下の中島昇・大尉も「小笠原兵団の最後」に「N大尉」として証言が載っている。「少佐は六尺近い大男で剣道が強く、酒乱で碁が上手であった。兵隊に小豆を与え、酒は俺が飲むということで、兵隊の恨みをかった。また兵の前で将校や下士官を殴り倒すこともしばしばあった。捕虜はこれを将兵の前でぶった斬り、その肝を食い、必勝の信念の養成に処すべしという方針を持っていた。中隊長としてこれにさからうことは不可能であった。私が捕らえた捕虜はけがをしており、放っておいても死ぬ運命にあった。私は確かに鞭(むち)で殴り殺したが、それは大隊長の方針に沿ったものである」。中島大尉も応召の軍人だった。

あまりの衝撃にアメリカでは記事の掲載が禁止

「立花中将の当番兵はほかにも2人いたが、彼らが口をそろえて人肉を供した酒宴の様子を語り、特に中将が『これはうまい。お代わりだ』と要求したくだりになると、法廷は水を打ったようにシーンとしてしまった」(「父島人肉事件」)。記事によると、凄惨な証言が続き、米軍新聞「グアム・ニュース」は「カニバリズム」(人肉喫食)という大きな見出しを付けて連日のように裁判の経過を報道した。「20世紀の今日でも日本人は人肉を食う」というような見出しの下に被告の写真が載っていた。

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 見るに堪えない記事だったが、なぜか3日続いた後、ぱったり出なくなった。不思議に思っていると、記者がやってきて「大変なことになりましたよ。アメリカ本土の母親たちが連名で大統領に訴えたのです。『息子は名誉の戦死をしたものと信じていたが、敵に食べられてしまったとは聞くに堪えません』というのです。この母親たちの悲痛な訴えで、大統領が『カニバリズム』関係の記事の掲載を禁止したのです」と説明したという。

パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のために食した

「父島人肉事件の封印を解く」によれば、立花中将は全てを否定。殺害にも人肉食にも関与しておらず、何も知らなかったと主張した。態度は最後まで毅然としていたという。的場少佐は最初は部下がやったことだと主張したが、やがて全てを認め、宴会の様子なども詳しく供述した。

 それに対し、吉井大佐は「全て自分がやらせた」と認めた。「小笠原兵団の最後」には、疑いをかけられてグアムに連行された海軍父島特別根拠地隊参謀の海軍少佐に漏らした「Y大佐」(吉井大佐)の言葉が載っている。「君は心配ないよ。近くここから出られると思う。森司令官、篠田防備参謀に、罪を背負うのは一人でたくさんだから、全部俺に(罪を)着せるようにと伝えてくれたまえ」。吉井大佐は法廷でも「無差別爆撃をする米空軍が悪い。パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のために食した。命令は全て自分が出した」と主張して非を認めなかったと秦郁彦「人肉事件の父島から生還したブッシュ」(「昭和史の謎を追う」所収)は述べている。

 同論文は、アメリカのジョージ・ブッシュ第41代大統領(パパ・ブッシュ)が1944年9月、爆撃機のパイロットとして父島攻撃に参加。撃墜されて海上に落ちたが、潜水艦に救助されたことを書いている。

猟奇の感を免れないが、法的にはいわゆる死体毀損侮辱”」

 同論文によれば、グアム裁判の被告は、遅れて起訴された寺木見習医官らを含めて27人。うち死刑判決は陸軍が立花中将ら4人、海軍は吉井大佐1人だった。森中将は終身刑だったが、前任地のオランダ領インドネシア(当時)での裁判で捕虜虐待で死刑に、ほかに終身刑が陸軍4人、有期刑が陸軍10人、海軍5人。無罪は陸軍2人だけだった。

 ただ、グアム裁判は、責任者だったマーフィーというアメリカ海軍大佐の意向で、当時新たに作られた裁判規定をできるだけ避け、従来の海軍軍事裁判のルールや手続きを尊重。日本人被告に対してもアメリカ人被告と同様の権利を与え、「海軍独自の公平な裁判を行いたいという態度が見てとれた」と岩川隆「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」は一定の評価をしている。それは法の適用にも表れており、「人肉嗜食という行為は一般的には猟奇の感を免れないが、法的にはいわゆる“死体毀損・侮辱”という種類のもので、グアム法廷の長であるマーフィー大佐も特にこれを訴追しなかった。まがりなりにも、感情と法は別、という態度がみてとれた」(同書)という。

 こうして未曽有といっていい人肉食裁判は一応終わったが、それにしても、それから75年後の時代を生きる私たちにとって、人肉食はもちろん、捕虜虐待・殺害という行為さえ、にわかには理解し難い。どうしてそんなことができたのだろうか――。戦後生まれの筆者にとっても難問だが、1つずつ要因を検討してみよう。

東条首相が発した戦陣訓の裏返しの悲劇だった

「明治維新以降、日本軍は、日本の国際的地位向上の見地から国際法と欧米での戦争慣習の受容に努めた。1899年の第1回ハーグ平和会議で調印された『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約』も、日本は翌年直ちにこれを批准した」と小田部雄次・林博史・山田朗「キーワード日本の戦争犯罪」は説明する。「日本は、日露戦争や第1次世界大戦では、ロシア人捕虜やドイツ人捕虜を人道的に扱った」「ただ一方で、中国人捕虜については、日清戦争の時に旅順で大量虐殺するなど、一貫して過酷な扱いをしている。つまり日本は、不平等条約を撤廃し、大国の仲間入りをするために、欧米に対しては国際法を守る姿勢を見せたのである。しかし、大国になると、その姿勢を変えてしまった」(同書)

 1929年、「俘虜の待遇に関するジュネーブ条約」が調印され、日本政府も調印したが、軍部が「帝国軍人の観念よりすれば、俘虜たることは予期せざるもの」と強硬に反対したため、批准できなかった。「国粋主義の台頭を背景として、英米的価値観の国際法の有効性と捕虜になること自体を認めない傾向が、昭和初頭より強まった」(同書)。1941年1月、東条英機陸相名で出された「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」という一節は、その考え方の帰結であり、大戦中の多くの「玉砕」や民間人の集団自決などの悲劇を生み出す原因となった、と同書は言う。

 父島事件で死刑となった中島昇・大尉はグアム島での裁判中、堀江少佐にぼろぼろ涙を流しながらこう訴えたという。

 せめて終戦前に戦死したかったです。何とかさかのぼって戦死扱いにしていただけないでしょうか。家族が聞くとどんなに悲しむか分かりません。私だけが捕虜に残虐だったのでしょうか。捕虜になると国賊扱いする日本国家の在り方が外国捕虜の残虐へと発展したのではないでしょうか。捕虜の虐待は日本民族全体の責任なのですから、個人に罪をかぶせるのは間違っていませんか。私は死んでも死に切れません。私は国家を恨んで死んでいきます

「小笠原兵団の最後」より

 確かに、捕虜になることを絶対に許さないとする精神風土が、捕虜に対する人道的な処遇を許さなくなるという流れは一面で分からなくはない。しかし、人肉食はまたそれとは明らかに違う、一線を画した問題ではないか。

必要に迫られてではなく、自ら好んでこの恐ろしい慣行にふけった

「人肉事件の父島から生還したブッシュ」は「カニバリズムが連合軍の法廷で裁かれたのは父島事件だけであり、それも飢餓という極限状況下の事件でなかっただけに人々を驚かせた」と指摘。東京裁判担当だった朝日記者・野村正男「平和宣言第一章 東京裁判おぼえがき」は、父島事件を知った衝撃からか、こう書いている。

「太平洋戦争の末期になって、日本の陸海軍は人間の肉を食べるほどまでに落ち込み、不法に殺害した連合軍捕虜の体の一部を食べた。ときには、この敵の肉を食することは、将校宿舎における祝宴のようなものとして行われた。陸軍の将官や海軍の少将の階級を持つ将校でさえもこれに加わった。殺害された捕虜の肉、またはそれによって作られたスープが日本の下士官兵の食事に出された。証拠によれば、この人肉嗜食は、ほかに食物がある際に行われたことが示されている。すなわち、このような場合には、必要に迫られてではなく、自ら好んでこの恐ろしい慣行にふけったのである」。

 まさに尋常ではない。そこには何があるのか。

みじめな敗戦と、哀れな肉親の死への復讐心

 まず考えられるのは、戦争の激化に伴う敵に対する敵愾心と敵兵に対する憎悪の高まりだ。土屋公献・見習士官は、ヴォーン少尉が殺害された日の夜、当直将校として徹夜の勤務をしていたとき、こんなことがあったと「弁護士魂」に記録している。

「深夜に2人ほどシャベルを持った兵隊を、警備の兵隊が捕まえ連れてきた。『どうしたんだ』と問いただすと、捕虜を埋めた穴から遺体を掘り出して、その肉を食おうとしたという。その兵たちの言い分は、『自分の兄貴がガダルカナルで無残にアメリカに殺された。飢え死にしそうになって倒れているのを戦車でひき殺された……非常にかわいそうな死に方をした。その敵討ちをするんだ。そのためには捕虜の肉でも食らってやる』と考えて掘り出そうとしたのだと、そういうせりふだった。それは表向きで、本当は腹が減っていたのだと思う」。実際にもそうだったかもしれないが、現実に父島には相当の食糧が備蓄されていたことが後で分かったと土屋氏は書いている。

 彼は実際に人肉食が行われていたことを知らなかったようだ。それでも、みじめな敗戦と哀れな肉親の死への復讐心が人肉食の動機の一端になっていたことは否定できない。国内では全国の街が空襲の被害に遭っていた。父島から約270キロ離れた硫黄島では友軍が玉砕の岐路に立たされていた。焦りもあっただろう。

どうせ死ぬのだから、何をやってもいい

 次に挙げられるのは、土屋氏がそのことを魚雷艇隊の司令(隊長)に報告したときの反応に表れた感情だ。「『食わせてやればよかったじゃないか』という、すごい返事が返ってきた。それほど戦地は殺伐として、誰もが生きて帰れないと思い込んでいて、何をやってもしようがないという心境に陥っていた。腹に入るものなら何でも食べてしまえという、そういうすさまじい境遇の中で、これからいつまで生き残っていられるのか、アメリカが上陸してきたらどうなるのかということを常に考えていた」(同書)。

 どうせ死ぬのだから、何をやってもいい。どうなっても構わないという自暴自棄に近い感情が兵士の心に広がっていたのだろう。ところが、硫黄島が落ちると、アメリカ軍は沖縄に向かい「父島の軍事的価値はほとんどなくなったので」「味方からも敵からも見捨てられたような存在になってしまった」(同書)。それもまた、無力感と自暴自棄の感情を増幅させたに違いない。

 加えて大きかったのは、日本軍特有のエリートと非エリートの分断と対立だったのではないか。

エリート軍人に対する怨嗟や羨望

 堀江芳孝少佐は「酒席に出ないため『悲観参謀』『腰抜け参謀』『陸大出は戦争に弱い』などの罵詈讒謗に耐えなければならなかった」と「父島人肉事件」に書いている。そこには、陸士、陸大(陸軍大学校)卒という当時のエリート軍人に対する非エリート層からの怨嗟や羨望があった。

 実は父島の陸軍トップである立花中将も、人肉食を主導した的場少佐も陸士は出ているが、陸大は出ていない。硫黄島で対面した際、栗林中将は堀江少佐に「父島を立花少将あたりに任せるわけにはいかない」と語っている(同書)。栗林中将も堀江少佐も陸士・陸大卒。そこにエリート同士の自負があったことは間違いない。

 さらにいえば、陸士の卒業年次は栗林中将の26期に対して立花中将は25期。騎兵専攻の栗林中将はアメリカ駐在や陸軍省馬政課長などのポストを歴任するかたわら、軍歌の歌詞の公募で「愛馬進軍歌」「暁に祈る」の〝生みの親〟になるなど華々しく活躍したのに対し、歩兵科の立花中将にはこれといって目立つ経歴はない。陸軍の序列ではその1年後輩の下にいることに鬱憤がなかったとは思えない。

七三一創始者や作戦の神様に憧れて

 さらに決定的だったのは、個人のキャラクターだろう。この事件の登場人物には「酒乱」が多いが、特に的場少佐だ。堀江少佐は「父島人肉事件」で書いている。

「(昭和)19(1944)年8月半ばに、シンガポール攻略戦の大隊長で軍医学校の戦術教官に転じていた的場少佐が308大隊長として着任していた。すぐに(立花)旅団長と飲み仲間となり、『おやじ』『おぬし』の呼び名で、この酒乱同士は部下の悪口もよそに朝から晩まで酒宴また酒宴の連続。的場少佐は辻(政信)参謀を神様のように崇拝し、『敵の捕虜はぶった切って食え』とどなった。辻のやったマレー華僑3000名の殺害を礼賛し、シンガポール入場の歌を高らかに歌う」。中島昇・大尉もこう証言している。「Mはまた軍医学校で戦術教官をやり、細菌で捕虜をモルモット代わりに平気で殺すI軍医中将(細菌戦部隊「七三一」の創始者で初代部隊長の石井四郎・軍医中将)の影響を受けていたと思われる」

 辻政信・陸軍大佐(最終階級)は「昭和の35大事件」の「 ノモンハンの敗戦 」で取り上げたが、大向こうをうならせるような派手な言動と強気一辺倒の作戦指導で知られた。彼を「作戦の神様」と呼ばせたのは太平洋戦争開戦直後のマレー電撃作戦だった。シンガポール陥落の際は、大量の反日華僑粛清を企画、実現したとされる。その言動を間近に見ていて憧れ、自分も同じような言動を実践したということだろうか。そこに「七三一」の「DNA」までも紛れ込んでいたとは……。

 さらに、辻には父島事件ともつながるような話題がある。

辻が妙薬として飲ませたのは人間の肝?

 杉森久英「辻政信」には、辻が「妙薬」を持っていて、もらった人間もその効果を認めていたという記述が。

「美山(要蔵中佐)は昭和17年3月、シンガポール攻略の直後、大本営から南方に連絡で派遣されたが、(現ミャンマーの)ラングーン(現ヤンゴン)の手前のチャイトに一晩露営したところ、盲腸炎か何かだったとみえて猛烈な腹痛を覚え、下痢と嘔吐を繰り返した。ふらふらになってシンガポールに着き、辻からもらった妙薬を飲んだところ、たちまち元気になった。

 昭和18年、同盟通信(共同通信と時事通信の前身)特派員として(現パプアニューギニアの)ラバウルにあった小野田政は、ある日、記者会見でガダルカナルから撤退してきたばかりの辻参謀から前線の様子を詳しく聞いた。その時、辻は印籠のように腰に下げている、コチコチに干からびた黒い物を見せて『これはアメリカ兵の肝だ。臥薪嘗胆という言葉があるが、僕はこれをなめながら生き延びてきた。これは大変に栄養があって、少しくらい絶食しても、これさえなめていれば元気を保っていられる』と言った。それはちょっと見ると、原住民の作るヤシ細工かと思われるような黒くて小さなものであった。辻が妙薬として人にのませたものも人間の肝だったといわれる。ある人は肝と知ってのみ、ある人は知らずにのんだ。

 いずれにしろ、辻の妙薬はよく効くという評判が立って、辻製薬という戯称は有名になった」。

 同書は「人間の肝をなめなめ戦闘を指揮するくらいのことはやったかもしれない」としつつ、真偽は不明とし、「彼のファンの間では痛快な人物という評判がいよいよ高くなったが、彼を憎む男たちの間では、何か不気味な、陰惨な、妖怪じみた男のような印象を濃くしていったのである」と述べている。

人に後ろ指さされたくない。仲間外れになりたくないと思う集団心理

 さらに「辻政信」は書く。「戦争中の日本人にとって米英は鬼畜であり醜虜(醜い虜囚)であって、その肝や肉を食うことが人道上の大罪だなんてとんでもないことであった。おめおめと生き恥さらして捕虜となった外人将兵は、その臆病と卑怯未練をさんざん笑ってやるべきであり、それを『おかわいそうに』と呼ぶなんて言語道断であった。そういう空気の中では、白人の肉一片をさえ口にできぬ男はよくよくの臆病者であり、それを試食することを提案した辻政信は最も古武士的な、勇敢なる日本人の典型であった」

 ここで書かれているお「おかわいそうに」とは、太平洋戦争前期、アメリカ人捕虜が列を組んで市街地を通ったのを、ある上流婦人が見て「おかわいそうに」と口走ったことから、大本営報道部の中佐が放送で 「敵に同情するのは心の中にアメリカが住んでいるから」と非難。同意する世論が巻き起こったという出来事(内海愛子「日本軍の捕虜政策」)。

 戦時中はそうした人道的な思考がよってたかって袋だたきにされた時代だった。人肉食をめぐる問題の核心もこのあたりにあるのではないか。父島事件の経緯を見ても、深刻な飢餓状態ではなく、人間の肉を食べなければならない必然性はなかった。将兵にあったのは、敵に対する強烈な敵愾心と「生きては帰れない」絶望と不安、それらに追い詰められた中で「勇気がない」「臆病者」と言われることへの強い恐怖心だった。人肉食は「肝試し」のようなものだったのかもしれない。

 誰もが「人に後ろ指さされたくない。仲間外れになりたくない」と思う集団心理。そう考えると、コロナ禍で「自粛」の同調圧力にあえぐいまの日本社会にも似たような問題がありそうだ。もちろん「捕虜虐待、殺害、人肉食」は平和な時代の人間にとっては想像を絶する事態だが、それを取り巻く事情をよくよく見れば、75年後に生きる私たちにとっても全く無縁ではないことのように思えてくる。

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【参考文献】
▽国士館大学法学部比較法制研究所監修「極東国際軍事裁判審理要録第5巻」 原書房 2017年
▽「日本近現代史辞典」 東洋経済新報社 1978年
▽防衛庁防衛研修所戦史室編著「戦史叢書 本土方面海軍作戦」 朝雲新聞社 1975年
▽土屋公献「弁護士魂」 現代人文社 2008年
▽岩川隆「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 講談社 1995年
▽小田部雄次・林博史・山田朗「キーワード日本の戦争犯罪」 雄山閣 1995年
▽野村正男「平和宣言第一章 東京裁判おぼえがき」 日南書房 1949年
▽杉森久英「辻政信」 文藝春秋新社 1963年
▽内海愛子「日本軍の捕虜政策」 青木書店 2005年

 

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