【特別読み物】「神軍平等兵」奥崎謙三(享年85)その破天荒な人生
極限状態のジャングルを生き抜き、天皇をパチンコで撃った元日本兵…寡黙な男を駆り立てたもの
文春オンライン 2021年3月13日(土)17時12分配信/木村 元彦(ジャーナリスト)
奥崎謙三(1920年~2005年)は、言わずと知れたドキュメンタリー映画「ゆきゆきて神軍」で描かれた人物である。世界三大映画祭のひとつ、ベルリン国際映画祭でカリガリ賞を受賞した同作品は1987年公開であるが、いまだに根強い支持と人気を獲得し、昨年は奥崎の生誕100周年ということで再び全国の劇場で公開された。時代を超える日本のドキュメンタリー映画の最高傑作と言われるその「神軍」の最初の公開時資料から、奥崎の紹介文を引く。
〈1920年、兵庫県生まれ。第二次大戦中召集され、独立工兵隊第三十六連隊の一兵士として、激戦地ニューギニアへ派遣される。ジャングルの極限状態のなかで生き残ったのは、同部隊1300名のうちわずか100名。1956年、悪徳不動産業者を傷害致死、懲役十年の判決。1969年、一般参賀の皇居バルコニーに立つ天皇に向かい「ヤマザキ、天皇を撃て!」と戦死した友の名を叫びながら、手製ゴムパチンコでパチンコ玉4個を発射。懲役一年六ヶ月の判決。戦後初めて天皇の戦争責任を告発した直接行動として衝撃を与えたが、マスコミ等の報道や裁判審理過程においては、その主張の本質は徹底的に回避される。1972年、“天皇ポルノビラ”をまき、懲役一年二ヶ月の判決。1981年、田中角栄殺人予備罪で逮捕、不起訴。1983年、元中隊長の息子に発砲。1987年、殺人未遂等で懲役十二年の判決〉
戦闘のみならず補給路を断たれたことによる飢餓と熱帯の感染症に苦しめられた地獄のニューギニア戦線から奇跡の生還を果たした奥崎の戦後の半生は、天皇の戦争責任を問うことと、敗戦を迎えた後に部隊内で起きた戦争犯罪の追及に費やされた。
奥崎は神戸でバッテリー商を営みながら、亡くなった戦友の墓参を続けるうちに、現地では終戦を迎えていたにも関わらず、上官たちが銃殺事件を起こしていたことを知るのだ。自らを人間の作った法と刑を恐れずに行動する「神軍平等兵」と名乗り、遺族を連れてかつての上官の家を訪ねては、真相究明と責任を追及する。銃殺の引き金を引いたとされる村本という上官を自らが殺害することを周囲に宣言し、実際に家で対応に現れた村本の息子に発砲して殺人未遂で四度目の懲役に服している。
坂本敏夫が奥崎と出会ったのは、上記の半生で照らし合わせれば、一度契約をして金銭の授受もしておきながら、意趣返しでそれを破棄するというトラブルのあった不動産業者を殺害し、大阪刑務所で服役中の1967年。すなわち、坂本が大学を中退して父の跡を継いで刑務官としての公務をはじめた19歳のときであった。実は着任後に坂本自身がその遠因に気づかされるのであるが、奥崎の存在が坂本を刑務官に就かせたとも言えるのである。どういうことか。
坂本の人生が一変した大学1年のある日
広島・基町高校出身の坂本が法政大学の野球部に入ったのは、1年先輩の山本浩二、田淵幸一、富田勝、法政三羽烏と同様にプロ選手になる夢を描いてのものであった。しかし、身辺に突然異変が起こる。大学に入学してしばらく経つと、その春に広島拘置所所長から、大阪刑務所に管理部長として赴任していた父親が突然心を病んでしまうのである。
第二次大戦中、陸軍少尉として沖縄戦を体験していた坂本の父は、戦後に刑務官の道を選び、働き盛りで配属された大阪刑務所の立て直しに燃えていた。新入教育の規定を作成したり、処遇改善を要求したり、献身的に仕事をしていたが、6月頃から、不眠を訴えるようになった。診断の結果はうつ病。労災病院に入院を余儀なくされた。
夏休みになると坂本も帰省をして毎日のように見舞った。ある日、病床で気になることを父は言った。「敏夫、お前は刑務官になる気はないか?」。丁寧に断ったが、それが最後にかわした言葉となった。父は翌日の8月10日に病院の8階から身を投げたのである。
「午前4時頃でした。家に連絡があって、その日は大雨でしたが、発見されたときはまだ息があったそうです」(坂本・以下同)
一家の大黒柱を失い、このままでは家族が路頭に迷う。母も高校生の弟もいる。大阪刑務所の父の同僚たちは、坂本に刑務官の試験を受けることを勧めた。坂本は野球の夢をあきらめ、大学を辞めて採用試験に向けての勉強を開始した。秋の受験で見事に合格を果たした。
「ニューギニア戦線」と「沖縄戦の記憶」
「当時の刑務所施設は全員が家族みたいなものです。だから、管理部長が亡くなった、気の毒だ、官舎を追われて妻子は住む家も無くなる、でも息子が刑務官になったらそのまま住み続けられるから、と言われて、1967年1月から父が勤めていた大阪刑務所に奉職することになりました。そこでうちの親父と奥崎の関係がいろいろと分かったんです。
大阪の収容人員は3000人で規模が大きい。不正も看過されていて、前任地の広島の実績を買われていた親父は着任直後からここを正そうとしたわけです。そんな中で奥崎が管理部長面接願を出して来たんです。受刑者の権利として所長や管理部長への面接が担保されていたんです。
とは言え、願い出を受けた側は大抵、部下の課長や課長補佐に代理面接をさせて逃げてしまうのですが、うちの親父は受刑者のことを考えていたので自分で直接会っていたんです。所長はいても現場の最高責任者は管理部長なので、奥崎は新しいトップはどんなやつかな、という興味で面接願いを出したんじゃないでしょうか。
父は4月1日に大阪刑務所に来て、6月ぐらいから体調を壊して入院するんですが、後から聞くとこれが奥崎との面接のタイミングと符合していたんです。そこで奥崎はニューギニア戦線を生き残った自分の話をするんですが、これが父の沖縄戦の記憶をよび戻したんです。なんで俺は生き残ったんだ、民間の人たちを守れなかったんだというフラッシュバックですね」
坂本の父は大学を出た後に士官学校を卒業しており(俳優の池部良と同期であった)、20万人以上の犠牲者を出した沖縄戦では小隊長として軍司令部のある摩文仁の丘での玉砕戦の現場にいた。左腕に銃創を受け、部下が汲んでくれた海水で消毒をしていたという。米軍戦車の水平砲撃を受け、その部下も命を落とし、部隊で生き残ったのは、自身も含めて3人だった。独立工兵隊の兵士として地獄のニューギニア戦線を体験した奥崎との対話の中で記憶が蘇り、心を病んだのではないかと父の同僚の刑務官たちは言うのである。
8月15日の「小遣い」と伝えられた言葉
「私も刑務官になってから直接、奥崎からニューギニア戦線の話を聞いたのですが、お前の親父ほど物分かりのいい幹部は居なかったと言うんです」
管理部長と不動産業者殺しで独房に入っていた受刑者。刑務所内の地位と立場は異なれども互いに未曽有の戦争体験をしていたことで、共鳴するものがあったのか。奥崎のニューギニアへの深い慟哭の思いは映画を見れば容易に理解できる。坂本の父は奥崎との出会いの中でそれを聞かされ、封印していたはずの心の中の大きな傷口が決壊し、自死に向かった……。結果的にそれで坂本は刑務官の道を選ぶことになった。
「思えば、うちは男の3人兄弟なのですが、兄弟で共有する父親の一番いい思い出というのがあるんです。僕らが小さい時、8月15日に必ず好信、敏夫、哲夫と名前を呼んで、正座をさせ、そして小遣いをくれるんです。そのときに必ず『いいか、絶対に戦争だけはするなよ』って100円札を手渡してくれました。そういう父親だった。
僕が小学生の頃、父は法務省勤務で宿舎は東京池袋のスガモプリズン官舎(スガモプリズンはGHQが東京拘置所を接収した戦犯収容施設で1958年に返還される)。夏になると父親はふとんの中でよくうなされていました。戦争を思い出していたんですね。だから8月10日に自殺をしたのは、15日が来るのが怖かったのかもしれません。とにかく大阪刑務所での父と奥崎との面談が無ければ、自分は父親にも断ったように刑務官にはなっていなかったですね」
神軍平等兵になる前の奥崎
奥崎が自らを神軍平等兵と名乗り、「ヤマザキ、天皇を撃て!」とニューギニアで餓死した戦友ヤマザキの名を叫び天皇にパチンコを撃つ、あるいはデパートの屋上から天皇ポルノビラを撒く、といった天皇の戦争責任を直接的に問う行動を起こすのはこの大阪刑務所で10年の刑期を終えてからである。妻、シズミの生前の証言に拠れば、それまでの奥崎は極めて寡黙な人物であり、日常から声高にアジテーションをするようになったのも出所後であったという。
では神軍になる以前の彼はどのような天資、賦質であったのか。19歳で家族を養うために大阪刑務所の職務についた新人刑務官坂本はその時代を知る。
「奥崎は向こうから会いたいと伝えてきました。大阪刑務所は1区から4区まで区分されていて、彼は3区の独房にいました。3区は900人くらい収容者がいるのですが、一番処遇が厳しい。ほぼ半数が暴力団員なんです。
奥崎は暴力団ではありませんが、その独房にいて、担当に『今度、管理部長の息子が入っただろ。呼んでくれ』と伝えてきたので、それで私は会いに行きました。右も左も分からない私にすれば奥崎謙三がどんな人物かも知りませんよ。私を呼んだのは、多少、父親が死んだ原因は自分にあるのかという思いもあったのかもしれません。彼は優しくて真面目で立派でした。変にいきがるわけでもなく、刑務所に勤めに来ているみたいな感じでした」
――それはどういうかたちでの面談になるのですか。
「独房は煉瓦造りの3階建て、奥崎はその2階にいました。昔の独房ですから廊下側に窓はありません。施錠された樫材の重厚な扉にある視察孔を開けて声をかけるわけです。初対面でそこで親父の話をしてくれました。同じ戦友みたいな立場でよく話が分かり合えたみたいなことを言っていて、その時に、自分がニューギニア戦線にいた事を話してきたんです。
私も『僕の小学校3年生の担任の先生がニューギニアから帰った人だった』と言ったら、興味があったんでしょうね。『なんていう人?』と聞くから、『久保田先生と言うんだけど』『それは知らないな』と、そんな会話をしていました。やはりニューギニアというのは特別なワードだったようです。『今の若いあんたらは親のおかげで3食ごとに飯を食ってるけど、俺たちはモノなんか食えなかったんだ』。結局、南方の日本軍は物資の補給線を断たれて負けているわけですから」
「お父さんにはえらいお世話になりました」
――いきなり自身の背景について語っていたのですね。当時の彼はどんな様子でしたか。
「3区の独房に入れられていたくらいですから、処遇困難者とはされていました。しかし、私には、ある意味友だちの息子みたいな感じで接しているような感じがしました。『この仕事は大変で、ここは所長も含めて、ろくな幹部は居ないけど、辛抱せないかんで』みたいなことを言ってくれました。
私と奥崎の会話があまりに長くなったので、担当が様子を見に来ました。3区独居舎房の担当は超ベテランの、本当に人徳のある刑務官なんです。そういう人間でないと抑えきれないからです。心配になって来て『おい、どうした』『いえ、ちょっと父親の話もしていたので』。そうしたら、奥崎が、『変なこと言わないから、もうちょっとしゃべらせえ』と言うと、担当は黙って扉を開けてくれました。すると奥崎は入り口で正座をして、あらためて『お父さんにはえらいお世話になりました』と言って迎えてくれました」
――その後も頻繁に会話はされたのでしょうか。当時の奥崎謙三の所内での行状はどのようなものでしたか。後にあのような行動を起こすということは予想されたのでしょうか。
「巡回の度に、おい、奥崎と声掛けをしましたし、かなり会話はしました。彼が当時服役していたのは、店子の足元を見ては不当な契約を迫る評判の悪い不動産業者に対する傷害致死事件ですから、政治犯、思想犯ではありません。ただ、私利私欲が無い人だなというのは感じていました。少し知的障がいを持った受刑者がいたんですが、その子の面倒を見るんですよ。『あいつ、金ないし、ちょっとこの石鹸やってくれ』みたいなことを私に言って来ました」
――坂本さんに? 独房でも他の受刑者のことが分かるのですか。
「はい。毎日運動の時間を取りますから。独居の運動場に20人ぐらいずつ出すんです。だから、そこで弱い立場にある人間を見かけたんでしょうね。石鹸については断りました。受刑者間の物のやり取りは反則行為になりますから、『分かった、ちゃんと事務所に言って渡すから』と言って、正規の手続きを取りました。奥崎は、私とはそんな感じでしたが、幹部連中には従順では無いので、すごく煙たがられていました。だから、幹部からは、私が巡回をすると何の話をしたのかと、必ず聞かれました」
“国からの恩恵”は「冗談じゃねぇ」「国に借りは作りたくない」
――奥崎は相手を見てやっているわけですね。
「相手を見ていました。刑務所において区長とか課長とか幹部は転勤が出世の街道です。そうすると、居るのはせいぜい2~3年なんです。この間、大過なく過ごせばいいので、トラブルは極力ないようにする。そういう役人を奥崎は見透かしていたんでしょうね。
それから、彼の信念は、仮釈放を狙わずに満期で出所すること。結局仮釈放というのは、国からの恩恵ですから、そんなの冗談じゃねぇということでしょう。国に借りは作りたくないという姿勢ですね。
要するに、自分のやったことを反省するようなことも言わなきゃいけないし、ちゃんと工場に出て真面目に仕事をしないと仮釈放はもらえない。しかし、不動産業者を刺したのは自分なりに考えての出来事なので罪自体を後悔はしないし、ましてや戦争の経験から国に借りを作るのはイヤだというのでしょう。だから初犯で入った大阪刑務所も10年きっかりでした。
一方で処遇困難者ですが、いわゆる好訴性受刑者(不平不満を上級庁や検察庁、裁判所に訴えることを好む受刑者)ではありませんでした。大阪拘置所には、神戸洋服商殺人事件(1951年)を起こして死刑判決を受けた孫斗八という人物がいて、彼は死刑は憲法違反だとして、初めて行政訴訟というのをやっているんです。それに触発をされてか、以降、全国的に受刑者が裁判所に告訴、告発、訴訟の申し立てをすることが相次いだわけですが、奥崎はそういうタイプの男ではなかったです。彼は自分の減刑にはまったく興味が無かったんですね」
「他の受刑者たちにアジテーションをするのではないか」
――3区は暴力団がほとんどとのことでしたが、そこでもやはり孤高を保っていたということでしょうか。ちなみに他の区はどのような受刑者が入っていたのでしょう。
「そうですね。奥崎は3区の中で人相風体も違っていました。
1区と2区は窃盗等の財産犯、暴力団関係者でも問題の少ない者たちを収容していました。1区には独房がないので特に行状の良い者を選んでいたようです。2区は3区と舎房等、ほぼ同じ造りでしたが、高度な技術と注意力を要する刑務作業を行っていました。鋳物工場、金属工場、洋裁工場の他、特筆すべきは造幣局の依頼で1円玉を作っていたことです。
4区は初犯の長期刑収容者なので、雰囲気は暗く不気味なところがありました。ただ刑が長いので唐木細工といった工芸品を作る工場、印刷工場には優秀な受刑者がいました。国公立の大学入試問題や、馬券、車券、舟券の印刷をしていたのには驚きました。これで金もうけを考えない受刑者はいなかったと思います。
4区は後に歌手の克美しげるが来ました。懲役10年でしたが、仮釈3年をもらって出ています。余談ですが、彼が入っていた時は、一流歌手が慰問に来るんです。島倉千代子さんとか同じ事務所だったのでしょう。3区も大きな木工場とか金属工場がありますが、やはり他の区と雰囲気が違って殺伐としていました。奥崎が工場に出されずに独居房にいたのは、他の受刑者たちにアジテーションをするのではないかと見られていたのもひとつの要因です」
「無知ムリ無責任のシンボルである天皇ヒロヒトに対して…」“出過ぎた杭”になった男の刑務所生活
文春オンライン 2021年3月13日(土)17時12分配信
映画「ゆきゆきて神軍」の中で奥崎謙三は「田中角栄を殺すために記す」と大書した街宣車の中から、皇居の前でこんなアジテーション演説を行う。
「立派な人間とは、どういう人間でありましょうか。金持ちでありましょうか、天皇でありましょうか、大統領でありましょうか、ローマ法王でありましょうか。私にとって立派な人間とは、神の法に従って、人間が造った法律を恐れず、刑罰を恐れず、本当に正しきことを、永遠に正しいことを、実行することが、最高の人間だと思っとるんであります!」
また自身の弁護人である遠藤誠弁護士を囲む会の挨拶のシーンでは、「私は、一般庶民よりも、法律の被害を多く受けてきましたので、日本人の中では、法律の恩恵をもっとも多く受けてきました無知無理無責任のシンボルである、天皇ヒロヒトに対して、4個のパチンコ玉をパチンコで発射いたしまして、続いて、天皇ポルノビラを、銀座渋谷新宿のデパート屋上からバラまき、その2つの刑事事件に関わった、法律家であるところの2名の判事と8名の検事の顔に、小便と唾をかけておもいきり罵倒いたしました」と話す。
奥崎謙三、服役中の行状
坂本敏夫は、奥崎がかような活動を展開する「神軍平等兵」になる前、大阪刑務所3区の独居房に入っていたころの行状について、当時19歳だった自分の印象だけではなく、実際に処遇に当たっていた刑務官のOBたちに今回直接あたって調査をしてくれた。
すでに80代を越えている先輩刑務官たちへの聴き取りは、元官吏らしい無駄を省いた簡潔な文書でまとめられて送られて来た。「まるで映画の答え合わせのようでした」という言葉が坂本の口から洩れた。
〈奥崎氏の大阪刑務所(堺市田出井町)での服役中の行状等を下記の通り報告します。
記
1 元大阪刑務所刑務官3名の方から電話録取
2 背景
大阪刑務所は、昭和30年代はじめは、超過剰収容で収容定員2500名のところ、5000人を収容、漸次減少し、奥崎の出所時は3000人に。ちなみに現在は1500人と激減している。
3 奥崎氏の収容分類級
LA級に分類されていた。(Lは長期long刑の初犯・Aは犯罪傾向が進んでいない)
大阪刑務所第4区(航空写真の庁舎左の放射状舎房がある区画)に収容。知能検査、適性検査、資格・職歴などによって金属工場に出す。入所時の舎房は雑居房。
作業内容はプレス、ボール盤、旋盤など。当初は行状も作業成績も良好。
4 トラブルメーカーに変身
2年目、3年目は工場内での他の受刑者との喧嘩口論などのトラブルを度々起こし、その都度、一時独居拘禁の後、異なる工場(金属工場の他、木工場、洋裁工場)に出す。その後、5年目までには幹部職員とのトラブルも頻発。ついに第4区から第3区に移す。第3区でも数度、工場に出すが長続きせずトラブルを起こす。6年目以降は出所まで、本人の希望もあり独居生活を送った。
受刑者とのトラブルの原因でいくつか考えられるのは、第4区は、ほとんどが殺人者。「俺の殺人とお前らの私利私欲や欲情によるものとは違う!」という、いわばプライドではないかという評価だった。第3区でのトラブルの相手は、やくざ者とギャング。ここでも、「俺は破廉恥な犯罪者じゃない!」という思いがあったようだと分析された。
幹部職員とのトラブルは威圧的、高圧的な態度に対する憤懣によることからはじまったようだが、いつの頃からか、意識的に喧嘩を売るようになる。騒げば騒ぐほど、反抗すればするほど、処遇は緩やかになり、優遇される。そんな体験からだろう。おそらく、「出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない! 国家権力など大したことはない」と思い至ったのではないかと、思われる。 いずれにしても、出所前の数年は大阪刑務所でも5本の指に入る処遇困難者。第3区の独居房で、幹部職員に煙たがられながら、本人にとっては快適な服役生活を送ったのだろうというのが、元刑務官たちの奥崎氏に対する共通の思いでした。以上〉
すでに処遇をしてから55年以上が経過しているにも関わらず、これだけの報告が上がってくるとは、いかに強烈な記憶をもたらす存在であったことか。
坂本が「答え合わせ」のようでしたという意味がよく分かった。3区において「俺の殺人とお前らの私利私欲や欲情によるものとは違う!」というプライドを保ち、トラブル相手のやくざ者とギャングを前にして「俺は破廉恥な犯罪者じゃない!」と見下す。大阪刑務所で5指に入る処遇困難者は、出過ぎた杭は打たれない! という真理をその懲役経験から体得していたのであろうか。
「こういうふうにすれば、社会で自由に動ける」
――「ゆきゆきて神軍」で奥崎が「今から東京に行く」と兵庫県警に電話をすると警備課の課長がすっ飛んできて、「先生、新幹線で行ったらよろしいですがな。またあの(田中角栄を殺すと書いた)車で行きますの?」と媚びるようなことを言う有名なシーンがありますね。行動を監視するわけですが、県警側は「うちはまた名神(高速道路)になるまでついていきます」「電話もらってうれしかったしね」と課長はあくまでも低姿勢で、奥崎は完全に警察をコントロールしているような振る舞いです」とあくまでも低姿勢です。
「こういうふうにすれば、社会で自由に動けるぞというのを大阪刑務所での体験で学んだと思うんです。なるべく目立つ、官が嫌がることをやる。
そうすると、事なかれ主義の刑務所の幹部は腫れものに触るようになった。刑務官に対して、できもしない要求をしてみると、10のうち一つ二つは実現していくんです。例えば官給のノート……。受刑者に渡してはいけないのですが、裁判で必要だからノートをよこせといったら、大人しくしておいてくれと、官給のノートを入れてしまうのです。
そういう、オフレコにしかならないような厚遇、待遇は奥崎に対して個人的にしていたようです。監獄なんていうのは、国家権力の大きな権威じゃないですか。しかし、そこで彼は結構自由に奔放にやっていたんです。ある意味、思想がしっかりしていれば自分は大丈夫だと確信していたのでしょう」(坂本・以下同)
「出過ぎた杭」としての出所後
――独居房へ入ったのも自身の希望だったのですね。要求を次々に実現させていくというのは、出所してからの活動にもそれが、反映されている。パチンコもポルノビラもその犯行は出過ぎた杭ということでしょうか。
「出所した後に、ああいう事件を連続して起こしたというのをニュースで知って我々も驚きました。しかも映画でも言っていたように、人間が作った法律を恐れず、刑罰を恐れず、本当に正しきことを、永遠に正しいことを、実行すると公言している。警察だってビビります。まさに腫れ物です。一般の人はあんな街宣車を作って公道を走ったら、改造だとか、道交法違反だとか、なんだかんだ理由をつけてすぐにパクられますよ。
『ゆきゆきて神軍』の中で神戸拘置所にあの街宣車で行くシーンがあったじゃないですか。奥崎はあそこに居並ぶ職員に対して『貴様らはロボットか!』と怒鳴るわけですが、あそこには拘置所の幹部が一人も居ないんです。所長は位の低い者ばかりに対応させている。私は官のああいう態度に腹立つんですよ。
それでまた警察も上層部は顔を出したくない、逃げたい。下に任せる。で、下は下で、『うまくいきました』という報告で終わらせたい。だから、出世ばかり考えている者は、対応する相手を刺激しないように金を渡して飲ませたり優遇したりするケースもある。それを報告しなければいいんですから。私は金もうけ目当てのエセ右翼もたくさん見て来ました。しかし、奥崎の行動は、天皇ポルノビラ事件で逮捕された獄中から無所属で選挙に出たことや、自著を自費出版で出して手売りしていることから見ても公利公欲であったと私も思います」
2回目の逮捕でも仮釈放を考えなかった奥崎
――戦争が終わっていたにも関わらず部下を銃殺したとされる独立工兵隊の元中隊長の村本の代わりにそのを息子ピストルで撃って、殺人未遂で殺人に関連しては2回目の逮捕をされたときには12年の懲役刑ですが、これも満期釈放ですね。仮釈放を狙っていない。
「謝罪をしてしまったら、自分の行動を反省することになる。そんな薄い覚悟で動いたわけではないということなのでしょう。
一方で彼の懲役の経歴を見ると、最初に熊本刑務所に行ってから北九州の城野医療刑務所に行って、それで府中に移送されている。最後は府中から出所しています。とても考えて動いているなと思うのです。
熊本は収容分類級で言うと、LのB、LB級なんです。長期収容で再犯者、犯罪傾向が進んでいる受刑者を入れている。だから熊本はおそらく住みづらかった。この人は確信犯ですから、更生意欲なしです。言われたように満期覚悟ですから、住みやすい刑務所に行きたいと思う。それで医療刑務所への移送を願ったのではないでしょうか。
城野は身体疾患じゃなくて、精神疾患が多い医療刑務所です。そしてある意味熊本刑務所の幹部刑務官も奥崎を抱えることはめんどくさかったと思うのです。
私は19歳のときに大阪刑務所で声をかけてきたあのときの奥崎の顔を今でも思い出すことがあります。奥崎は偉そうにしている上に対しては激しく抵抗しますが、現場の下っ端の刑務官には悪くないんですよ。特別でしたね。当時、大阪刑務所には受刑者が5000人以上も居た時代ですよ。その中でも全然、肌合いが違う人でした」