親父の話

2018年8月 8日 (水)

【昭和の名優】また一人✍「津川雅彦」さん(享年78)逝く・・・・

今年は特にメモ著名人が次々と死んでゆくなぁ。芸能人の訃報は本あまりブログに挙げなかったけど、津川雅彦さん(78)はweep好きな俳優だった。彼が演じる役柄の幅広さは群を抜いてたと思う。お願い合掌。

相田みつを

津川雅彦さんお願い朝丘雪路さんのから

no good3カ月余雲歯に衣着せぬ発言、実業家の顔も

スポニチアネックス 2018年8月8日5時30分配信

アゲ3 映画「狂った果実」や「マルサの女」など伊丹十三監督の作品などに出演、また「寝ずの番」など監督としても活躍した俳優の津川雅彦(つがわ・まさひこ、本名加藤雅彦=かとう・まさひこ)さんが4日午後5時45分、心不全のため都内の病院で死去した。78歳。京都府出身。4月に最愛の妻、朝丘雪路さん(享年82)を見送ったばかりだった。葬儀は近親者で済ませた。喪主は女優で長女の真由子(まゆこ、本名加藤真由子=かとう・まゆこ)。

朝丘さんが亡くなってからわずか3カ月余、津川さんが愛妻を追うように逝った。関係者によれば、最後の仕事は来年2月放送予定のドラマ。一人娘で女優の真由子(44)は、相次いで両親を失いショックを受けているという。後日、両親のお別れ会を開く予定。

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鼻の形、耳の形、そして髭面全体の印象が死んだ親父にソックリなのだ。

津川さんは、朝丘さんの悲報が明らかになったことを受け5月20日に会見。「彼女を残すよりはいい結果になった」と悼んだ。5年前にアルツハイマー型認知症を患った朝丘さんを、3年前から自宅に引き取り献身的な介護を続けていた。一方で、自身も昨年秋にかかった肺炎の影響で酸素吸入器のチューブを鼻につけ、自身の体調については「大丈夫じゃないね。こんな格好をして大丈夫と言ったらウソになる」と弱気な一面も見せていた。この時が公の場での最後の姿となった。

津川さんは芸能一家に生まれ、子役として数本の映画に出演した後、石原裕次郎の弟役を探していた原作者の石原慎太郎氏に請われ、1956年の映画「狂った果実」の主役で本格デビュー。一躍、日活のスターとなった。

朝丘さんとは73年に結婚。おしどり夫婦として知られたが、プレーボーイとしても鳴らした津川さんが97年に不倫が報じられた際には、朝丘さんが「私は空気のような存在。もっと遊んでくれればいい」と寛容な発言。夫婦の絆の深さを感じさせた。

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兄の故長門裕之さん(享年77)とはデビュー当時から比較されていたが、津川さんが82年「マノン」でブルーリボン賞助演男優賞を受賞。長門さんがその実力を認めその後は「八代将軍吉宗」などで共演している。映画「マルサの女」「ミンボーの女」など故伊丹十三監督作品の常連として活躍。NHK大河ドラマ「葵 徳川三代」などで5度も徳川家康を演じるなど歴史上の人物も得意とした。

2006年に日本映画の父とされる祖父・牧野省三監督の姓を冠した「マキノ雅彦」名義で「寝ずの番」を初監督。その後も「次郎長三国志」「旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ」を送り出した。

政治的な発言でも知られ、歯に衣着せぬ論客ぶりで議論を巻き起こすこともあった。

実業家としても、真由子が誕生した時に木製のおしゃぶりをドイツから取り寄せたのをきっかけに、玩具・絵本販売店「グランパパ」を設立。一時は全国展開するまでに成長したが、その後業績が悪化し6億円を超える負債を抱えた。この時も朝丘さんが返済のために東京都世田谷区の自身名義の自宅を売却して破産を免れた。

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 ◇ 津川 雅彦(つがわ・まさひこ)1940年(昭15)1月2日生まれ、京都市出身。祖父に“日本映画の父”牧野省三監督、父に沢村国太郎、兄に長門裕之さん、母方の叔父にマキノ雅弘監督らがいる芸能一家の出身。56年「狂った果実」で本格デビュー。作者石原慎太郎氏に気に入られ、同氏の小説「太陽の季節」の登場人物から「津川」と命名。「あげまん」「スーパーの女」ほか伊丹十三作品などで活躍。06年には「マキノ雅彦」の名で監督業に進出し映画「寝ずの番」「次郎長三国志」などを世に出した。

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津川雅彦さん泣き1流し誓った世界一パパになる」

スポーツ報知 2018年8月8日6時08分配信

アゲ3 44年間、津川さんがずっと胸に抱えた思いがある。「世界一のパパになろう」。俳優として、男として、そして父親としての信念は命を失う日まで変わらなかった。

1974年8月15日未明のこと。自宅にいた生後5か月の長女・真由子(現・女優)が何者かに連れ去られる誘拐事件が発生し、日本中を巻き込む大騒動に発展した。

2日後、無事に保護。無精ひげ姿でテレビカメラの前に立った津川さんは、涙を流しながら「これからは日本一の役者になる前に、世界一のパパになろうと思います…」と誓った。

根っからのプレーボーイで、世をスキャンダルでにぎわせてもどこ吹く風だった男は、この出来事で人が変わった。夜の銀座通い、競馬、麻雀…全部やめた。

撮影の合間に帰宅し、子供との時間を愛するようになった。ある日、おもちゃを買いに行くとプラスチック製の商品しかないことにショックを受けた。

78年には自らおもちゃ店をオープンさせた。良品質と低価格の木製商品にこだわった店は利益を生まなかった。88年、北海道のローカル線だった広尾線が廃線になると「幸福鉄道」として復活させる構想を掲げ、英国の古城を買い取って「サンタのお城」として復元しようとした。バブルの崩壊で実現しなかった。

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2013年には、北朝鮮拉致問題早期解決のための啓発ポスターに登場し「我が事のように思える人間として参加させていただきました」と言った。どこか不器用なままに「世界一のパパ」を目指したロマンチックな半生だった。

中島丈博さん(脚本家)「『狂った果実』の頃から石原裕次郎と対等の演技をしていたのに、津川さんはスターぶらず、融通無碍(むげ)なところがあった。僕が監督した映画やテレビドラマに何本か出てもらったが、主役でなく、脇役でもちょっと面白い役だと気軽に引き受けてくれ、演技はいつも完璧だった。妻の朝丘雪路さんが亡くなった際、『僕が先に死んで彼女を残すよりはいい結果になった』とコメントしていたのが印象的だった。ああいう品格のある老人の役者がいなくなってしまい、寂しい限りだ

ミッキー・カーチス(歌手、俳優)「津川雅彦が亡くなった。若い頃、彼は日活、俺は東宝、なぜか仲良く毎晩のように一緒に遊んでいた。俺より若いのにがっかり。最後に一緒が(テレ朝系で17年放送の)『やすらぎの郷』。この年になると、友達がどんどんいなくなっていく。寂しい限りだねぇ~」

津川雅彦さん死去泣き1最期看取った親友緒形拳さんから学んだこと

デイリー 2018年8月8日1時20分配信

アゲ3「マルサの女」など伊丹十三監督作には欠かせない俳優で、二枚目から悪役まで幅広い役で存在感を示し、監督としても活躍した津川雅彦=本名・加藤雅彦=さんが4日、心不全のため亡くなった。78歳。京都市出身。今年4月27日に妻で女優・朝丘雪路さんが亡くなり、肺炎を患った状態で5月20日に会見を開いたばかりだった。葬儀は近親者のみで済ませた。

祖父が「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三監督、叔父はマキノ雅弘監督という芸能一家に生まれ、兄は11年に死去した俳優の故・長門裕之さん。義姉は09年に死去した女優の故・南田洋子さん。

1956年、映画「狂った果実」で本格デビュー。二枚目から悪役まで幅広い役で存在感を示し、「マルサの女」など伊丹十三監督作品の常連に。映画「プライド 運命の瞬間」の東条英機など歴史上の人物を多く演じたほか、映画「ひとひらの雪」などで恋に溺れる中年男性を好演した。自身の価値観をぶれずに持ち、近年は論客やコメンテーターとして番組に呼ばれることも多かった。

私生活では1973年に女優の朝丘雪路さんと結婚。一人娘の女優・真由子(44)をもうけ、おしどり夫婦として知られた。別居した時期もあったが、4月27日にアルツハイマー型認知症のため死去した最愛の妻を、最後まで献身的に介護した。

最後に公の場に出てきたのは5月20日。朝丘さんの死去で会見した。「大丈夫じゃないね。でも彼女を残すよりは良かった」「すべてに感謝している」と心境を語っていた。座って会見したが、入退場は車いすで、鼻に酸素吸入用のチューブを付けていた。肺炎を患っていたという。

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2008年10月に肝臓がんで亡くなった俳優・緒形拳さん(享年71)の最期は、緒形さんの次男で俳優の緒形直人ら家族とともに、病室で臨終を看取った。1972年に『必殺仕事人』で共演して以来、親交があった。

親友の津川さんにもがんを隠して逝った緒形さん。生前、津川さんに書き残してくれた言葉があった。「芸は下手型の上手がいい」。技術が全てじゃない、というメッセージだった。

津川さんは今年3月、テレビに出演した際、「(映画)『マノン』で、何もしないことが演技だと学んだ。『マルサ(の女)』で伊丹(十三)さんにいじめられていじめられて、賞をもらった。“存在感”というものが役者の中で1番大事なもの。どう生きてるのか、それが大事だと思う。緒形はそういう生き方をちゃんとした人」と語っていた。

相田みつを

関連エントリ 2012/10/07  【さらば船村刑事】大滝秀治さんの経歴を少し詳しく

ボクシング降参山根明会長辞任を表明:onionhead067:

毎日新聞 2018年8月8日12時33分配信

アゲ3 選手への助成金の不正流用や暴力団元組長との交際が明るみに出た日本ボクシング連盟の山根明会長(78)が8日、大阪市内で「本日をもって辞任したい」と述べ、会長を辞任する考えを表明した。助成金流用に加え、暴力団元組長との交友関係を自ら認めたことが決定打となり、辞任は不可避な情勢だった。スポーツ庁の鈴木大地長官らからも辞任を求められていた。

山根会長は前夜に妻と相談して「楽になってください」との一言で決断したことを明らかにしたうえで「選手にはこのような問題があったことを申し訳なく思う」と深々と頭を下げた。

質問は受け付けなかった。

判定への不当な介入などの告発を受けた一連の疑惑を受け、日本連盟は7日に大阪市内で緊急理事会を開き、今後の組織運営などの対応を議論した。身内の理事からも辞任を求める動きもあったが、最終的には山根会長の進退は本人に一任することを決めていた。

家族などに相談した上で、8日に進退を明らかにする意向を示していた。山根会長は1991年に同連盟理事となり、常務理事、副会長を経て2011年4月に会長に就任した。同連盟強化委員長、アジアボクシング連盟常務理事を兼務。94~02年に国際ボクシング協会(AIBA、当初は国際アマチュアボクシング協会)の常務理事、00年シドニー五輪日本代表監督を務めた。

相田みつを

2016年2月 4日 (木)

【介護生活】✍老母が「意識混濁」で緊急入院。

本日午後4時45分、徳洲会病院に老母が入院した。3年前も、心臓の病で2週間入院したが、このブログには書かなかった。今回だけは、かなり厳しい状況。表面上は「老衰」の診立てだけど、血糖値が高いことが直接の原因と診られる。戸籍では“3月19日生まれ”と為っているが、ホントは私と同じ、2月11日生まれ。あと1週間で、93歳である。十分な時間さえあれば、介護生活は何の苦も無し。親のシモの世話をするのも、ペット亀を世話するのと変わらない。遅かれ早かれ、みんな同じ事態に直面する。親父の時と違って、もう何も戸惑うことはしない。鬱病持ちだった頃なら、とても無理だったかもしれんが、現在気力も充実している。父を看取ったように、母も看取る。不肖の息子であったが、。。。。19時24分、入院先から☎あり。意識は少し、ハッキリしてきたと。まだ「ここが病院である」ことは理解していないようだが。最後まで、認知症の兆候は無かった。元々天然が入った性格なだけ(苦笑)。意識が朦朧としているのは、高血糖のせい。万が一の延命措置は断った。静かに幸せ死なせてやりたい。

相田みつを

桐谷美玲が松坂慶子に見えてくる…『スミカスミレ』

青首大根革新的な芝居に挑戦

オリコン 2月5日6時0分配信

アゲ3 女優の桐谷美玲が見た目は20歳、でも中身は65歳の女性を演じるテレビ朝日系金曜ナイトドラマ『スミカスミレ 45歳若返った女』(毎週金曜 後11:15)がきょう5日から放送開始される。

同ドラマは、高梨みつば氏の漫画『スミカスミレ』(集英社『Cokohana』で連載中)が原作。主人公の如月澄は、幼い頃から家業の手伝いに追われ、青春らしい青春を送れず、その後も祖母に始まり父、母の介護に生活のすべてを費やし、気が付けば65歳になっていた。

母が亡くなり、一人ぼっちになった澄は、ふと思う。「もう一度若さを取り戻して、人生をやり直したい」と。そんな彼女に奇跡が起きる。家の屏風から飛び出して人の姿になった化け猫・黎(及川光博)の謎めいた力によって、目が覚めると20歳の姿に若返っていたのだ。澄は、如月すみれという新たな名とともに、行きたくても行けなかった憧れの大学に通い、青春をやり直していく。

このドラマの成否のカギは、65歳の澄を演じる松坂慶子と、45歳若返った姿の桐谷美玲が同一人物に見えるかどうかにある、と思われた。第1話の冒頭に登場する主人公は65歳。世間知らずなところがあっても礼儀正しく誠実な性格の主人公を、松坂が気取らないおっとりとしたしゃべり方で演じている。それが、ひと晩明けたら桐谷に変わるわけだが、ここで桐谷は“若返った松坂慶子”を演じるという革新的な芝居に挑戦。どことなく松坂に見えてくる演技力を発揮し、安心して観ていられる。

青春をやり直しているという“誰にも言えない秘密”を抱えたすみれにとって、先々には思いもよらない壁が立ちはだかる。果たして、“彼氏いない歴65年の女子大生”が身を投じる“やり直し青春ライフ”はどんな結末を迎えるのか…!?

【試写室】「スミカスミレ」すみれ女子ブームが到来?

アゲ32月5日(金)にスタートする、桐谷美玲主演の金曜ナイトドラマ「スミカスミレ 45歳若返った女」(テレビ朝日系)。松坂慶子演じる澄が化け猫の力を借りて65歳から20歳に若返り、青春を取り戻してキャンパスライフを送る。そんな夢のような物語を、一足先に視聴し、見どころを紹介する。

第1話のストーリーは、家業の手伝いや、祖父と両親の介護に追われ、恋愛や大学生活といった青春を一切経験することなく、65歳になった独身の如月澄は、長年介護した母を亡くし、天涯孤独の身となり、遺影の写真を探すため納戸へ向かう。

そこにあった黒猫とカキツバタの絵が描かれた古いびょうぶにうっかり指を引っ掛け、血で汚してしまう。ところが、血は見る見るうちにびょうぶへと吸い込まれ、跡形もなく消えてしまう。

不思議に思いながらも澄は納戸を後にし、アルバムを見ながら青春とは程遠かった昔を思い出し、後悔の念を抱いていた。

その時、黎(及川光博)と名乗る謎の男がカキツバタのびょうぶから飛び出してくる。黎は人に姿を変えた黒猫だという。どうやら先ほど降りかかった澄の血が、黎をびょうぶの中に縛り付けていた“封印”を解いたらしい…。

全くもって訳が分からず、澄は動揺していたが、黎に望みを聞かれ、彼女は突き動かされるように「人生をやり直したい」と答える。

すると、信じられないことに、目覚めた澄は黎の術によって20歳の姿に戻っていた。この日を境に、彼女は自分を「主」と呼んでかしずく黎に言われるまま、如月すみれと名乗り、自分の姿と新しい生活に戸惑いながらも憧れの大学へ通うことに…。

まずはすみれが大学に登校するシーン。65歳の如月澄として着ていた服をそのまま着て学校に行ったため、すみれの服装はレトロそのもの。うちの祖母(90歳)もあんな服を着ている気がするが、それすらもいい意味で違和感なく着こなしてしまう、桐谷のお人形さん的な美しさには驚きしかない。及川をして「等身大フィギュア」というのも分かる。

やはり、美人は何を着ても美人ということか。“SEKAI NO KIRITANI”は伊達じゃない。

見た目はともかく中の人は65歳ということで、言葉使いやところどころの動作は年配の人のそれだが、逆にいえば実に古き良き奥ゆかしさがあるのがこのすみれだ。

礼節を重んじ、きちんとあいさつし、真面目で男性の一歩後ろを歩くような雰囲気。レトロな服装も含め、このドラマが終わるころには“カープ女子”、“釣りガール”などに続き、“すみれ女子”がブームになっているかも…と思わせるほど、魅力的なヒロインだった。

個人的には「ピチピチしてる…」というせりふや「どっこいしょっと」と座る姿、そしてカラオケのシーンがたまらなくキュンした。

そしてもちろん少女漫画が原作とあって、イケメン王子様キャラも見逃せない。

今回は劇団EXILEの町田啓太がそれを担当するのだが、この町田演じる真白くんがまた好青年過ぎて、いや、フランクにいえばいいやつ過ぎて男でもニヤケが止まらない。

モテない男のひがみかもしれないが、何か裏があるんでしょ?とついつい粗探しをしてしまいがちだが、安心してください、100%好青年らしいですよ。

あんなやつおらんやろ、と思って見るのではなく、あんな人がいたらいいな、という気持ちで見れば誰もが老若男女に優しくなれるかも。

すみれ女子に続き、MD…もとい、真白男子も増加してほしいところ。

その真白のまっしろな心から繰り出される“ときめき爆弾”には、すみれだけでなく、全女性視聴者がノックアウト必至だ。

その他では、“Mr.ミステリアス”及川が演じる黎のハマリっぷりもいいし、真白の親友を爽やかに演じる竹内涼真、根っからの女王様なんじゃないか?と思わせる水沢エレナの嫌な女っぷり、小日向文世&高杉真宙が演じるクセモノ住職親子…と、いろんな角度から楽しめる。

総理大臣とばか息子の入れ替わりモノ、歴史に名を残す侍が現代へタイムスリップしたドラマに続き、今度は若返りの物語と、金曜ファンタジードラマ枠…いや、金曜ナイトドラマ枠は夢のある作品続きで、嫌なことがあっても忘れさせてくれる。

やはり、年を取れば取るほど誰もが一度は「若返って人生をやり直したい」と思うもの。25歳くらいの若い後輩におじさん扱いされる筆者もご多分に漏れずそうなので、実家の納戸に眠っているかもしれない、黒猫とカキツバタの絵が描かれたびょうぶを探してみようっと。

しかし、ヌッと現れた化け猫(大きい黒猫)が夢に出てきそうで本当に怖かったニャー。おっと、そんなダジャレを言っているからおじさん扱いされるのかニャ?

2010年12月19日 (日)

ホームレス川柳、出版へ。

◆ 本のタイトルは「路上のうた」。書店で見かけたら読んでみよか。生活に窮しても盗みや強盗働くワケでもない。生活保護の申請もしない。住所不定に為ると日本では 国民として当然の権利を受け取ることも出来ない。日本の路上生活者はメモ多く見積って1万5千人。大阪市の外国人生活保護受給者と ほぼ同数である。お疲れさん(^0^)/

給料もらった、ああ路上生活者の川柳が出版

2010/12/18 17:09

アゲ3 仕事した給料貰ったああ夢か路上生活を送る人たちがつくった川柳が1冊の文庫本になった食事や寝床の確保など厳しい暮らしぶりをユーモアでくるみ、路上にいるからこそ感じられる季節の移り変わりや、人のぬくもりを表現くすりと笑いを誘う作品がそろった

 本のタイトルは路上のうた6人の路上生活者や路上生活経験者がつくった300句を収録している。川柳づくりの中心となったのは、福岡市の菊池広(雅号・髭戸太)さん(52)

百円があれば安心2~3日現在は簡易宿泊所で暮らす菊池さんが、路上生活を思い返してつくった句だ百円玉一つで食パン数枚が買えた心境を込めた川柳づくりのこだわりは「ホームレスらしさを出すこと」仕事にあぶれ落ち込む気持ちや、路上だからこそ見える人の温かさをシンプルに表現する


生活保護受給の外国人、初の1万人突破 大阪市

 [ 産経ニュース 2010/06/14 00:13 ]

アゲ3 生活保護受給世帯が全国最多の大阪市で、外国人の受給者が初めて1万人を突破したことが13日、市への取材で分かった。10年前の2.2倍で、市内の外国人登録者の12人に1人の割合。最も多い在日韓国・朝鮮人で国民年金に加入していない「無年金世代」が高齢化したことが理由とみられる。保険料を納めた年金受給者よりも、生活保護受給者の方が国から多額の資金を受け取る不公平な実態も浮かび上がっている。

 市によると、4月現在の在日外国人の生活保護受給世帯は7268世帯で、受給者は1万35人。市全体の受給者(14万1672人)の7.1%を占める。3月末の外国人登録者(12万597人)を基に計算すると8.3%が受給しており、市全体の受給率(5.3%)を大きく上回った。平成13年度に市が実施した調査では、外国人受給世帯の92%は在日韓国・朝鮮人だった。同様の統計結果がない現在も、比率に大きな変化はないとみられる。

 外国人受給者が増加した要因の一つが、無年金者の高齢化と推測される。昭和36年から始まった国民年金制度では、57年に国籍条項を撤廃。国は61年、受給に必要な25年間の保険料納付期間に満たない外国人についても、57年以降に払った保険料に基づき将来的に年金を支払う救済措置を設けたが、その後も加入率は低水準で推移し、年々無年金者が増える形となっている。また、61年の時点で60歳を超えていた人は、制度上加入できなかった。

 大阪府立大などが70歳以上の在日韓国・朝鮮人300人を対象にまとめた生活実態調査(平成16年)によると、救済措置から外れて加入できなかった人は116人。救済対象だった139人も、大半が加入していなかった。救済措置の周知不足や低い受給額への不満などに加え、将来の帰国を考慮して加入しなかったケースもあるとみられる。

 一方、苦しい家計から保険料を納め、年金で細々と暮らす高齢者の中には、生活保護費を受け取る無年金者との「格差」を訴える声も少なくない。保険料を40年間納めたケースの老齢基礎年金は月約6万6千円(25年間納付では同約4万1千円)だが、65歳の人が生活保護を受ける場合は月12万1530円(住宅扶助含む)とほぼ2倍になる。近年増えている中国人などの外国人定住者でも国民年金の加入は進んでいないとみられ、今後も無年金による生活保護受給者は増加する可能性が高い。

アゲ3 無年金者が年老いることで年々増加している外国人の生活保護受給者。きちんと保険料を納めてきた年金受給者との支給額の逆転現象というモラルハザードも問題化している。

 学習院大の鈴木亘教授(社会保障論)は「眼前の困窮者は救済せざるを得ないが、日本にも本国にも保険料を払っていないのは問題」と指摘。「確信犯的に年金に加入しなかったケースは、一義的には本人の責任だ」とみている。一方、将来的な無年金者の増加を見越して制度を整備してこなかった国の怠慢ぶりも浮かぶ。鈴木氏は「問題解決には、2国間で年金の加入期間を相互に通算できる社会保障協定を早急に各国と結ぶしかない」と指摘。韓国との間では2004年に締結し、ブラジルとは09年から協議中だが「対応が後手に回り過ぎている」と批判する。

 「これ以上、安易に生活保護に『ただ乗り』させてはならない。保険料を払っていない人は強制的に帰国させるぐらいの仕組みが必要だ」と鈴木氏。「早く手を打たないと、外国人労働者らが集中する都市部で将来、大問題に発展する恐れがある」と警鐘を鳴らしている。


◆ 世知辛い世の中である。国が定める生活保護え 性善説に立った「一時的な援助に過ぎない」はず。以前にも書いたことがあるけど、ichigen-san の両親も15年間近く医療保護を貰っていた。親父はカリエス(脊髄結核)で療養生活してた期間時計 生活保護で命を救われたその後社会復帰した親父は、生活保護で貰った金額の1千倍以上納税返してるけどね(笑)。何らかの理由で働けない国民は 生活保護を受ける権利がある。生活状況が改善すれば、納税者として「頂いた分を返せばよい」だけだ。長期入院の為ガクリ 退院した後も身体障害者だった親父だけど、国から掛けて貰ったに十二分に報いたはずだ。マジ 誇り高い一人のニッポン人です。オヤスミなさい。

 

2010年4月23日 (金)

命の重さは悲しみの深さと比例する

◆ その一方、命は「平等の価値として扱わなければならない」建前が法律上明記されてる。身内の不幸に勝る不幸はないわけだが、自分の「親兄弟の命」も、見ず知らずの「他人の命」も「同じ価値とみなす」ことを理解させるのが社会科教育のイロハだ。まず殆どの人は是のことを、十二分に理解してると思います。オハヨーさん(^0^)/

 ボクも親が死んで初めて、人は死ぬものだと認識した。それまではテレビの中で伝えられる惨劇を目にしても、観念でしか受け止められなかった。あまり「悲しくないから」。「命の価値の現実」は、とても不平等で、どんな「有名人の不幸」より、我が家の「手乗りカメの最期」を悲劇として、受け止めている「正直な己の感情」がある。是は世の中一人の例外も無く同じだと思います。ペットロスから、後追い自殺する老人の例を笑えない。理性より感情が優先する個人の事情は「万人が陥りやすく」共感できるものだ、。。。。だからこそ、人間社会は法律を作ったのだろう。

 法律では、公益性が優先される。出来るだけ不平等を排することが建前である。自分の飼ってるペットよりも、アカの他人の命のほうが価値が有るのだと理解させなきゃいけない。是は「当然のこと」として、広く理解されてるワケだけど、時々受け入れられない人も一部にいて、事件が起こったりもした。社会性を失って暮らしている人達の中には、動物に対する異常な偏愛が見られる例が珍しくない。厄介なことに、同時に、人間社会への反抗と憎悪を募らせながら。

 排他的な「理性」というものはない。排他的なものは常に「感情」。異質なモノを容認し、自我と公益性のバランスを考慮しながら暮らす知恵は皆、子供の時分に教育によって身に付けたものだ。人間の感情には元々そういうものは生まれながらには備わっていない。親・家族、地域社会、そして法律によって、子供のうちに諄々と教え込まなきゃいけない。何故、やりたくないことを「しなきゃいけない」のかを。何故、やりたくても「しちゃいけない」のかを知らなきゃいけない。

 感情を優先すれば、公益性を損なうことが多いことを僕等は教わってきた。何が「公益か」をまず決めなきゃならないが、おのずと優先順位というものがあるだろう。自分一人なのか。家族か。地域社会か。国防か。政党の都合か。対米外交か。できるだけ多くの日本人が救われる道は、どれなのか。それを誰が判断するか。判断する政治家を信用できるのか。是だけのことを考えていたら、とても5月までに方針が決まるとは思えない。考えて考えて、悩みぬいた政治家の結論なら、ボクも初めて支持・不支持を言うことが出来る気がする。読者の皆さんは、どうでしょうか。いい一日を。

 

2010年2月19日 (金)

中村主水が ・・・・・・

◆ 藤田まことさんが お亡くなりに為ったのは あまりに突然で驚いた。ボクの好きな俳優さんの一人だった。「必殺シリーズ」は良く見てたな。時代劇だけど完全に現代劇のテイストで描かれているところが当時としては新しかった。

サラ金地獄とかネズミ講とか「当時の世相」を 逸早くストーリーに反映させるスタイルをボクは「クール」だと感じながら観てましたヨ。 病気してるって知っていたけど 早過ぎる。御冥福を お祈りします。m(_、_)m

このブログでもメモ何度も書いたことだけど、「人の一生って」本当 あっけない。終末の時に「何を思うのか」想像してみることは自分でもよくある。藤田まことさんは「傍目には」やり残したことは無いだろうと思うのだけど どうだろ。

嗚呼ぁかに座 そうかに座 そう、ボクは親父の形見の指環を嵌めて生活を始めました。今日で3日目。普段でも時計 指に嵌めて生活してます。キーボードを叩いてる時計 今でもね。訳を上手くメモ説明出来ないけど、気分としてそうしてます。


俳優の藤田まことさんが死去

2010/02/18 11:57

 テレビ時代劇「必殺」シリーズの中村主水(もんど)や「はぐれ刑事純情派」の安浦刑事などでお茶の間に親しまれ、舞台や映画でも個性的な演技を見せた俳優、藤田まことさん(ふじた・まこと=本名・原田真=はらだ・まこと)が17日、大阪府吹田市内の病院で死去した。76歳。東京都出身。

 昭和8年生まれ。父は無声映画時代の時代劇スター、藤間林太郎で、少年時代の多くを関西で過ごした。高校中退後、司会業などで地方を回り、大阪で喜劇俳優に。37年、テレビの時代劇バラエティー「てなもんや三度笠」であんかけの時次郎を演じ、一躍お茶の間の人気者となる。番組では白木みのる、財津一郎らとの掛け合いが笑いを誘い、提供CMのキャッチコピーもヒットさせた。

 その後、人気時代劇「必殺」シリーズで「ムコ殿」といびられる恐妻家の殺し屋・中村主水、「はぐれ刑事純情派」で人情肌の安浦刑事といったロングランドラマで個性的な主役を務めた。舞台や映画でも活躍。一方、事業失敗による多額の借金も話題になった。

 近年は健康面に不安を抱え、20年には食道がんで6月の明治座「剣客商売」を降板。入院して手術を受けた。その後、ドラマ「必殺仕事人2009」「剣客商売」などの収録に病院から通ったが、21年9月に慢性閉塞(へいそく)性肺疾患と診断され、ドラマ「JIN-仁-」を降板した。

 平成14年、紫綬褒章。主な著書に「人生番狂わせ」「年をとるのも悪くない」がある。

藤田まことさんを悼む 朝日放送顧問の山内久司さん

2010/02/19 00:07

 藤田まことさんの役者人生で大きな転機となったのは昭和48年から出演した「必殺」シリーズだった。その生みの親である朝日放送顧問の山内久司さんに藤田さんへの思いを寄せてもらった。

             ◇

  春まだ浅き戦線の古城にかおる梅の花-

 若き日の藤田まこちゃんがよく物まねした田端義夫の「梅と兵隊」の一節である。藤田まことという俳優は、桜の花のように絢爛(けんらん)豪華でもなかったし、牡丹(ぼたん)のように、富貴でもなかった。私は、目立たない所に、香り高く咲く梅の花のような印象を藤田さんに感じている。早春の2月。かぐわしい梅花一輪が散った。ご冥福を祈る。

 出会いは、2人とも20歳代であったと思う。藤田さんは、歌謡物まねが得意なタレントであり、司会者であった。私は駆け出しのラジオの制作部員で、歌謡曲を担当していた。昭和30年代の前半、ある歌謡ショウの司会を藤田さんに依頼した。ショウはきわめて明るく、いうなればあっけらかんと進行していた。私はふと舞台袖にひかえている藤田さんを見た。その表情と姿に、陰というか鬱屈したものを感じた。僕の勝手な思いであったかもしれない。しかし、その感覚がよみがえって、中村主水=藤田まことになったのだと思う。主水の二面性を藤田さんは予想をはるかに上回って演じてくれた。それから20年。高い視聴率を維持しながら続いた。必殺だけではない。「はぐれ刑事」「剣客商売」それに「てなもんや三度笠」。すべて大当たりのシリーズである。

 藤田さんはテレビから一日も離れたことがなかったと思う。他の俳優たちにとってはテレビは仕事の一部であるが、藤田さんは常に、テレビが本籍であり現住所であった。20歳代から亡くなる70歳代までシリーズの主役を続けた俳優は他にいない。日本で唯一のテレビ役者であるといってよい。藤田さんは俳優としての芸術的名誉や国際的名誉を、求めなかった。ひたすらに、テレビの視聴者や大衆を喜ばせようと、50年、頑張り続けた。これは容易なことではない。一部の食道楽に褒められる料理より、庶民が喜ぶ味を追求し続けたように思う。もっと言えば、美味しい米の飯を炊き続けた役者であった。重ねて言う。これは容易なことではない。

 来年、地上波はアナログ放送が終了し、デジタルのみになる。テレビは必ず変わる。藤田さんの死はその象徴的な歴史上の事柄になるような気がする。

 今夜は懐メロでも聴きながら、藤田まことさんと創ってきたアナログテレビのよき時代に思いをはせながら、独りで酒を飲みたいと思っている。


◆ 多くの人に惜しまれて終る人生が羨ましい。本人にしちゃどうでもいいことかもしれないけど、芸能界で大きな足跡を残された藤田さんは「一言で云って」良い人生だったと思う。時代劇の似合うスターが又 一人居なくなる。ボクは偶に、DVDで時代劇を観ることがあるんだけど殆ど昔のものばかり。今の若い役者の時代劇は「違う違う」って。(笑)

藤田まことさんはかお 替わりが居ないタイプだっただけに 正に「一代限り」。時代劇を是だけ成功 コミカルに演じられる役者さんは もう出て来ないだろう。ボクが テレビドラマから遠ざかるのは世間と合わなくなってきてるってことかな。でも社会に対してのえ 関心だけは持ち続けたいけどネ。「必殺仕事人」のテーマのように、。。。。好い一日を。

テレビ番組で共演した俳優で歌手の中条きよしさん

 俳優、藤田まことさんの訃報を受けた俳優で歌手の中条きよしさんは18日、テレビ「必殺仕事人」シリーズで共演したころを懐かしみ、「緊張していた僕に対して『若だんな』と親しみのわく呼び方をしてくれ、すぐにうち解けることができた。芝居にも表れた柔らかい人だった」と藤田さんを偲んだ。

 「周りを和ませるために気を使う方でした。テレビの『必殺仕事人』シリーズに参加するようになったばかりのころ、緊張していた僕に対して『若だんな』と呼んでくれたことは忘れられません。その親しみのわく呼び方のおかげで、すぐにうち解けることができました。それから一緒に飲んだり、食べたりするようになり、半年ほどたってから『きよしさん』という呼び方に変わりました。柔らかい藤田さんの人柄は、芝居にも表れていたと思います。そばで勉強させてもらいました。

「必殺仕事人」で共演した鮎川いずみさんの話

 時代劇「必殺仕事人」で藤田まことさんと共演した鮎川いずみさんは18日、藤田さんの訃報を聞き、「1年半くらい前に食事したときはとても元気そうだった。同じ必殺仕事人のシーンでもテレビと舞台では演じ方が全く違うことなどすべてのことを教えていただいた」とショックを隠せない様子だった。

 「1年半くらい前に藤田さんのご家族と一緒に食事したときはとても元気そうだったので、悲報はとてもショック。同じ必殺仕事人のシーンでもテレビと舞台では演じ方が全く違うことや、俳優を支える裏方さんへの気遣い、芝居を見に来てくれるお客さんにいい演技を見せるためには俳優は毎日の振る舞いが大切であることなど、俳優という仕事に関するすべてのことを教えていただいた。撮影の合間にいつもそばかうどんを、中村主水そっくりの風情で食べていらっしゃった姿が忘れられません」

藤田さんのアクションシーンを指導した上野隆三さんの話

 俳優、藤田まことさんの訃報を受けた藤田さんのアクションシーンを指導した京都市右京区の殺陣師、上野隆三さん(72)は18日、「(藤田さんは)形だけでなく、心で立ち回りのできるひとだった。本当に残念」と偲んだ。

 「心の温かい人だった。立ち回りについては、形だけでなく、心で立ち回りのできるひとだった。心の底からその役に徹することのできるすばらしい人で、本当に残念です」

「必殺仕事人」で共演した村上弘明さんの話

 「必殺仕事人V」で藤田まことさんと共演した村上弘明さんは18日、東京・台場で開かれた自らの主演ドラマの会見の席で、藤田さんの悲報について語った。

 残念で信じられません。「必殺仕事人V」でレギュラーに入ったとき、右も左も分からない中、役者として、人間としてのたたずまいもすべて教わりました。他のドラマに出演するときも、藤田さんだったらどうこの窮地を乗り越えたのだろうと考えた。自分にとっては、この世界を生きていく上での道筋を作ってくれた師匠です。

 撮影現場ではよく怒られましたが、終わるとお刺し身屋さんに連れて行ってもらい、「さっきはゴメンな。山田五十鈴さんの前だったから…」と優しく声をかけてくれたことがあります。撮影現場には遅れたことはありません。周りが時間に追われている中でも、ゆったりと登場し、お話をされる人。自分のリズムを持っていました。人間のリズムを作るということはたやすいようで難しい。このリズムをとるということを教わりました。

 「大忠臣蔵」で初めて侍の役をさせてもらったとき、刀の使い方の練習をしていたら、「刀は武士にとっては魂。棒きれのように振り回してはあかん」といわれたことが、今も心の中に強く残っています。

松竹京都撮影所そばの喫茶店「スマート珈琲店太秦店」店長の話

 俳優の藤田まことさんの訃報を受け、藤田さんが30年来の常連客という喫茶店店長は18日、「いつも飾らずに本音で話をしてくれた。ショックです」と語った。

 「1人でいらしたり、お付きの方とみえたりしていました。あれだけの俳優なのに、いつも飾らずに本音で話をしてくれた。先月、仕事もないのに撮影所にあいさつに来られたと聞いた。忙しくてお会いできなかったが、そのときは食欲もあり顔色もよかったと聞いていたのでショックです」

「必殺」シリーズなどを担当した照明技師、林利夫さんの話

 時代劇「必殺」シリーズの中村主水役などで親しまれた俳優の藤田まことさんが17日に亡くなったことを受け、「必殺」シリーズなどを担当した松竹京都撮影所の照明技師、林利夫さん(66)は「スタッフを食事に連れていってくれたり、人間的に素晴らしい人」と寂しそうに語った。

 「スタッフを食事に連れていってくれたり、人間的に素晴らしい人だった。先週もプライベートで撮影所にいらして、『元気でリハビリしているから、また一緒にやろう』と話していた。ショックで言葉になりません」

 

2009年9月22日 (火)

遺骨収集事業に予算をぉ!!

◆ 【ブログ】の為に【ニュース】をチェックするクセが付くと、それまでは興味ねぇ~~やぁって素通りしていた事柄にも、ふと眼を留めたりする。今日も一日御苦労様ぁ(^0^)/ 長い記事だけど一読の価値あり。ダイジェストで掲載致します。是を読むと反戦の誓いってのは、九段に参るとか参らないとかって事じゃない気がする。軍国主義が迷惑を掛けた相手は、外国じゃなくて国民さ。其れがボクの感想。政府が国民を見ていない姿勢が こう云う所に表れてる。

生産性は無いけれど、ひろく公益に帰することを行なうのが公務員の役目でしょ。 オヤスミなさい。


野口健はなぜ遺骨収集を始めたのか シンポ詳報

 世界的なアルピニスト、野口健さん(36)は8000メートルを超すヒマラヤで、もう何日間も猛吹雪に閉じこめられていた。“命綱”の酸素は残りわずか…。野口さんは、ついに「死」を覚悟し、ひとりテントの中で遺書を書き始めた。4年前のことである。「オレも間もなくテントごと吹き飛ばされて、雪の中に埋もれてしまうだろう。でもせめて、だれかがオレの遺体を見つけて日本へ連れて帰ってくれないものか。帰りたいなぁ」。望郷の念はつのるばかりだった。

 そのとき、野口さんの頭の中に浮かんだのは、先の大戦で、熱帯のジャングルやシベリアの酷寒の地で、愛しい妻子やお母さんを想いながら死んでいった日本兵のことだった。「彼ら(日本兵)も帰りたかったろうな。ひと目家族に会いたかったろう」と。約240万人の海外戦死者のうち、いまだ約半数は日本に帰っていない。洞穴や土の中に埋もれて、帰りを待ちわびている…。“山仲間”の橋本龍太郎元首相や元参謀だった祖父(ともに故人)から聞かされていた話が、自分の死を目前にしたとき、甦(よみがえ)ってきたのである。

 幸いなことにヒマラヤから生還できた野口さんは、取り憑(つ)かれたように遺骨収集への取り組みを始めた。忙しいスケジュールを縫ってこれまでに4度、フィリピンへ渡り、遺骨調査・収集を行った。8月21日にも、1555体分の遺骨とともに帰国を果たしている。

 野口さんが参加しているNPO法人「空援隊(くうえんたい)」(本部・京都市)は独自の情報ネットワークをフィリピンに築き、この半年間、驚異的なペースで遺骨を見つけ日本に持ち帰っている。それまで、国(厚生労働省)の派遣団しか認められなかった遺骨収集を、民間団体にも可能にする道も開いた。十数年、停滞していた遺骨収集事業が野口さんらの参加によって、再び息を吹き返したのである。「残された時間は少ない」(野口さん)。いまこそ、遺骨収集を「拉致問題」のような国民的な運動に広げたい。たくさんの人たち関心を持ってほしい…。こんな願いから、野口さんの発案で8月24日、東京・九段の靖国会館で「遺骨収集を考えるシンポジウム」(産経新聞社主催)が開かれた。

祖父ちゃんに聞いた遺骨の話(野口)

 野口健 僕の祖父ちゃんは元軍人でした。ビルマ(現ミャンマーの戦いに参謀として参加したが、部隊はほぼ全滅。そのとき戦死した部下のほとんど(の遺骨)がまだビルマに残っているんだ、と聞かされていたのです。祖父ちゃん宅へ泊まりにいくと、ふとんの中で耳元で「健、あのな、ビルマではな」と囁(ささや)かれる(笑い)。それが耳に焼き付いています。僕がヒマラヤで死にかけたとき、こんなことを想いました。日本兵が亡くなったときも、最期は「母ちゃんに会いたいな」とか、「子供に会いたいな」と思ったのではないか、とね。

 堀江正夫 東部ニューギニア戦線の生き残りです。日本の2倍もある大きな島で、その東半分が、東部ニューギニア。満3年間も戦い続けた部隊です。この地区に投入されたのが、陸、海軍合わせて15万人。このうち内地の土を踏んだのが約1万人。途中で部隊が転用されたり、帰ってきたのが約1万人。3年間の間に、それ以外の13万人の尊い命がニューギニアの土になったのです。

 われわれにとって一番、心残りだったのは、「同志をそのままにして帰るわけにはいかない」ということでした。昭和19年4月に、連合軍が上陸して日本軍は孤立。その後から豪州軍の攻撃を受けました。そのとき、全部隊に期せずして「遥か故郷を思わざる」という歌が伝わってきたのです。こうして13万人が祖国を、故郷を思いながら、亡くなりました。

 戦後、東部ニューギニアの遺骨収集が本格的に始まったのは、昭和44年からです。私は2回目の48年から参加しました。生き残った戦友が40人、学生の諸君が10人、そのほか計70人で1か月半の間、遺骨収集をしました。

 ニューギニアは酸性土壌ですから、すでに土になった遺骨もある。せっかく見つけても大腿骨しかなかったというケースもありました。みんなで丁寧に掘り出し、頭蓋骨(ずがいこつ)を丁寧に手の上に載せるとつぶれてしまうことも。水はけがいいところはまだ骨が残っています。標高4000メートルを超える高地では、骨がしっかりしていました。頭に毛が残っているものさえあったのです。

 こうして13万人のうち、これまでにお迎えできたのが、約5万人。まだまだたくさんの遺骨が残されているのです。私は94(歳)ですが、何とか命があるあいだに、1体でもたくさんのご英霊を日本に迎えたいと思っています。

日本人は何をやってきたのか?(笹)

 笹幸恵 小さい頃から戦争に関心を持ち、いつか戦地を訪れてみたいと思っていました。旅費と生活費を稼ぎなら、ようやく行けるようになったのが30歳のときです。現在は34歳で、両親も戦後生まれ。だからこそ、「あの戦争で何があったのかを知りたい」と思っていました。本を読んでもよく分からない。「飢えで死ぬ」とはどういうことなんだろう、と。

 ソロモン諸島ガダルカナル島を訪れ、戦友会の方と各地をまわりました。「かつてこの地で戦った祖父の世代を弔いたい」という思いでした。ところが行ってみると、慰霊碑の脇に、遺骨が散らばっている。本当にびっくりしました。

 パプアニューギニアのブーゲンビル島のゴヒ村では焼骨式が行われました。井げたに組んだ薪の上に頭蓋骨が乗っていました。歯だけは真っ白く残っていたのです。こんな現実を私は知らなかった。「ただ手を合わせればいい」というのは傲慢(ごうまん)な考え方だと気付きました。戦後60数年経って今なお遺骨が出てくる現実。日本人は「いったい何をやっていたのだろう」と思いました。私が生まれるまでの30年、生まれてからの30年…。戦後の繁栄を享受している1人として、とても腹が立ちました。

 ただ、私のような一般人は遺骨収集は出来ません。(当時は)国の事業でしか認められなかったからです。「何とかして日本に戻せないか」と悶々としたことを思い出します。

 ガダルカナル島のふもとで、国の収集団が帰った後、庭みたいなジャングルで5体分の遺骨を見つけました。遺骨の重さはイスくらい、持って歩けるくらいの重さです。物としては軽くない。けれども人間の命があったと考えればあまりにも軽い。そのやるせなさ、戦争の不条理、残された人が「声を上げることもかなわずここに眠っていたのか」と思うといたたまれない気持ちになりました。

 赤木衛 JYMA日本青年遺骨収集団は、昭和42年、花園大学、駒沢大学など、仏教系の大学の有志が「戦没者を慰霊しよう」と集って出来た団体です。現在は、学生有志が毎年、国の収集団に40人~60人参加していろいろな場所へ遺骨収集に行っています。今どきの若者たちは、おかしな格好をしている子もいるが、心根は昔と変わりません。先輩からいろいろなことを教わり、一生懸命やっている学生が多いのです。

 私が最初に参加したのはサイパンでした。そのときジャングルの洞窟から赤いランドセルが出てきたのを見たのです。サイパンでは民間人も巻き込んで激しい戦闘がありました。洞穴にランドセルを背負って逃げてきた小学生のことを考えました。そばには、細いボールペンくらいの上腕骨、櫛(くし)と簪(かんざし)も見つかりました。ちょうど僕の母親世代でしょうね。そういう人たちが被害を被った戦争だと思いました。

 そのときの体験は強烈でした。まるで脳天を貫かれるような思い。死生観がひっくり返された気がします。

 硫黄島の洞穴では、まるで時間が止まったようでした。横須賀-霞ケ関という定期券が出てきたり、「いまひとがんばりしよう」と書いてあるノートもありました。

 いろいろなところを回りました。日本人の先輩たちは「われわれが太刀打ちできないようなすごい精神力で戦われたのだな」ということがよく分かりました。全長18キロメートルのも及ぶ地下壕を作ったり、ニューギニアでは1000メートル級の山の上までトラックを分解して担ぎ上げていたり…。この日本人の精神力には太刀打ちできません。完膚無きまでに打ちのめされた気持ちになりました。

 遺骨をジャングルの中で見つけ、マニラ麻の袋を担いで、山を上がり降りしました。当時は、1回、山には入ると50や100の遺骨が見つかりました。その重さが背中にギシギシと訴えてくるのです。「まだ友達がそこにいるんだ」とね。

 これまで、がんばってこられた先輩たちに代わって今度はわれわれが「前衛」を担っていけない時期だと思います。ここに来ているメンバーがまさにそういうメンバーでしょう。

米軍はすべて持ち帰った(倉田)

 倉田宇山 3日前に野口と一緒にフィリピンから1555体の遺骨と一緒に帰ってきました。その1555体はいったいどこへ行くんでしょうかね。いまは厚生労働省の安置室と呼ばれる倉庫に置かれています。来年5月の最終月曜日に千鳥ヶ淵の戦没者御苑の穴蔵に、もう一回焼いて、かさを減らして、缶詰にして入れられるんですよ。ここは靖国神社ですから遺骨はありません。これ、どこへ行くんですかね。

 遺骨収集に関わったのは2005年8月からです。それまでフィリピンに足を踏み入れた事もなかったのに、いまでは私のパスポートはフィリピンのスタンプがぽこぽこ押されている。これまでに32回、今年に入って7回です。

 われわれが探すまで、フィリピンで見つかるのは年間数十体だった。これで国家事業と言えますか。フィリピンで亡くなった方、そのひとり、ひとりに人生があった。私は、どのような人生であったかは知りません。でも、こうした現実があることを4年前に行くまで知らなかったのか。不明を恥じます。

 私は本来、笹さんと同業のジャーナリストです。最初は「遺骨が山のようにある」と聞いても信じませんでした。

 最初に行ったのはセブ島。フィリピン一のリゾート・アイランドです。そのセブ島の空港に着いて1時間半、車を降りて歩いて15分。一つの穴を掘っていた。スコップを入れるたびに出てくる。最初はなにか分からなかった。だって日本人の大半は「焼かれていない骨」を目にすることはないでしょう。

 よく分からなかったから聞きました。これ人の骨ですか?」「日本人の骨ですか?。笑われました。「フィリピン人の多くはクリスチャンですクリスチャンはどんなに貧しくても、人が死んだらお墓に入れるんです

 そして、「米軍は死んだ兵隊さんをみんな持って帰りましたよ」と。「あんたもメディアの人でしょ。日本ではこんなに大量の遺骨が出てきたら、ニュースにならないんですか」。私は答える言葉がなかったです。その怒りが私の遺骨収集の原点です。それからあとは日本人の骨であるという証言を撮影してまわり、厚生労働省にお願いしました。

 お役人はどう言ったか。「ああすごいですねえ。こんなことは信じられません」。その挙げ句に、彼らはこんな遺骨の映像をいっぱい撮ってくるのはやめてくださいねなぜですか遺骨にも尊厳がありますからと。

 私は怒りのあまり、「舐(な)めとんのかお前ら、こら」と怒鳴りつけていました。その後、厚生労働省からは「出入り禁止」となりましたが…。

国のプライドのためにやるという意義付けがない(赤木)

 ――ここ数年、国の遺骨収集事業が停滞していた原因は何でしょう?

 赤木衛 厚生労働省が遺骨収集をやっている理由はなんでしょうか? なぜ防衛庁ではないのか? 旧帝国陸海軍が解体された後、復員省が出来た。それを管理しているのが援護行政を行っていた厚労省なのです。厚生省が遺骨収集をやっているのは、あくまで「遺族や戦友の便宜を図るため」にすぎない。本来は日本のためでしょう。ここが大きな問題です。遺骨収集の能力のないものがやるべきではない。志がそもそも間違っているのです。

 米国のJPAC戦争時の行方不明者や遺骨を探す組織は、日本の10倍くらいの予算をつけて今でも世界中の未帰還兵をさがしていますでも日本では「遺族の便宜を図る」ために遺骨収集が行われています。日本では「遺骨収集を国家のプライドのためにやるんだ」という意義付けがなされていません。「無責任ではないか」という怒りを感じています。

 笹幸恵 事業が進んでいない最大の理由の原因は、一般の人々の無関心です。私も数年前まで知らずにいたから人のことは言えませんが、メディアの責任も大きいでしょうね。(遺骨収集を担当する)厚労省の外事室のスタッフは20人くらい。それが行政機関のスタンスを表していると思います。もし何が何でも「国家の事業としてやらなければ」と思うなら、もっとできたはずでしょう。その間にどんどん国民の関心が薄れていく。

 さらに、小分けにして申し上げると、記憶が風化していく。戦争体験者の方々は80代後半になっている。堀江先生のような方は失礼ですが奇跡だと思っています。「ここで戦った」「ここに野戦病院がある」「ここに友人の遺体を埋めた」という情報が少なくなった今は収集ができません。

 もうひとつは現地の人とのコミュニケーションなんです。「畑仕事をしていたら(遺骨が)出てきた」と言うことがいまでもままある。ところが現地にネットワークづくりができていなかったらほったらかしにされてしまう。われわれが情報を吸い上げる努力をしなければならないのです。

 3つめは自然環境の壁です。日本国内では川があれば橋がある。ところが、日本軍の将兵たちが戦った場所は川に橋がないのがほぼ当たり前。ジャングルに一歩、入ってしまったら右も左も全く分からなくなる。一緒にいた人の姿が見えなくなったら、自分がどの方向か来たか分からないのです。スコールがあれば、も決壊してしまう。あまりにも日本の環境と落差があるのです。

 あとは、お金です。現地の人々がお手伝いをしてくれる。われわれとしては労働の対価として支払う。現地では失業率が8割くらい。現金収入は魅力です。「何とか日本兵の遺骨が収集したいのだ」と訴えても、若い人たちは、対価がないと協力してくれません。

「必ず日本へ返す」という決意があればできる(野口)

 野口健 決意の問題があるでしょうね。「必ず日本へ帰す」という決意があれば、あらゆる手段をとるでしょう。昨年までは民間団体による遺骨収集が認められていなかったので、現場に入って調査した結果を持ち帰って厚労省へ行くしかありませんでした。ただね、厚労省の方に当事者意識を持てと言うのがそもそも無理ですよ。日本軍は厚生省が派遣したわけではない。そもそも60数年前の話ですし、厚労省には、どだい限界があるのです。

 フィリピンへ行き、灼熱(しゃくねつ)地獄のジャングルを歩いて、洞穴に入ると、おびただしい数の遺骨が残されている。その現場を見ると、平坦だった知識が立体化します。そして現実を知ると“背負ってしまう”。そのとき初めて決意、気迫の問題になると思うのです。

 僕は最初、正直言って「これはなかなか進まないかな」と思っていました。ところがたった4年で、状況は大きく変わりました。これまで全世界で1年間で収集した総計の遺骨を遥かに上回る数をフィリピンだけで集めた。たった半年で4000体以上ですよ。

 厚労省も変わった。フィリピンに関しては、空援隊が驚異的な実績を上げたことで、彼らが心を開いたというよりも、「いいといわざるを得ない状況」をつくったのです。国会議員もほぼすべての党が一緒にやってくれています。やるなら徹底してやろうと思っています。

 ――その驚異的な実績を上げている方法とは?

 倉田 これまでは「日本側の情報」がベースでした。戦友や遺族、厚労省が、旧日本軍の作戦記録などをベースに遺骨収集を行う。でもその情報は60数年前の情報なのです。どんな国もそうですが、60数年間変わらなかったものがありますか? そんなものはどこの国に行ってもない。ましてや発展途上国といわれる国では、山や川の地形すら変わっている。昔のままの地図では行き着かないのです。

 われわれのやり方は「現地の人の情報」をもとにしています。その情報の集め方が大きく違う。フィリピンにおいて、われわれに情報提供してくれるのは現地のお年寄りやトレジャーハンター(宝探し)です。彼らは仕事がないと山へ入って宝探しをする。ハンターの存在を知って、「きっと遺骨を見ているはずだ」と思いました。さらにもう一つの情報源はゲリラです。フィリピンは山の中はほとんどがゲリラの支配地です。日本で言うゲリラとちょっと違い、どっちかというと山賊ですね。要するに、現金収入を得る術がない。そういう人がゲリラ化して縄張りをつくり、通行料をとって暮らしているわけです。

 だから実際に銃を向けられることもあるし、葉っぱ(麻薬)を吸っている人もいますから、あまり楽しいところでもない(苦笑)し、行きたいところではない。マラリア蚊も飛んでくる。キングコブラもいる。われわれの仕事は言わば、マラリア蚊とコブラとゲリラと良い関係になることなんですね(笑い)。

 現在は、フィリピン人スタッフ10人、コーディネーター150人が毎日、山に入って歩き回って情報収集をし、遺骨を持って帰っています。それを各地の集積所に集めている。「何でうち(空援隊)がやらなければいけないのか」と思いながらも、フィリピン各地に仮安置所を建設しました。

 厚労省からは「(遺骨の保管料がかからないので助かりますと言われましたが、本来、そんなことは、民間のNPOがすることでしょうか

国が真剣に取り組まねば(堀江)

 堀江正夫 約40年間、遺骨収集を続けていますが、(空援隊の)倉田さんのお話を聞いて、「本当に生き残ったものとしてはありがたい」と心から敬意を表したい気持ちです。

 ニューギニアについても共通している問題だと思っています。初期のころは、戦友がまだ元気でした。記憶も確かでした。その記憶に基づいて埋葬した場所、病院の跡を集中的に遺骨収集することができて成果も上がったのです。

 もちろん、その時点で戦後30年近くたっていたから、お墓も作った所が浸食されて海になってしまっていたり、地形がすっかり変わって見つからないところもありました。60年以上たった現在ではなおさらでしょう。

 政府の派遣団は、限られた人員が限られた日数で行く。計画はしたが、実際には行けなかったところもたくさんあるのです。厚労省の人たちも一生懸命やってくれているが、何分、スタッフも調査日数も限られている。現在は努力に対する成果が、あまり上がっていないのが現実です。ニューギニアでもフィリピンの空援隊に準じた方法をとれれば、成果があがるのではないかと思います。

 そもそも、国は遺骨収集の問題をもっともっと真剣に考えなくてはなりません。(担当の)厚労省外事室は20数人しかしませんし、(厚労省内の)地位も低い。もっと、予算も人員も調査日数も増やしてもらわなければいけないのです。小手先の対応ではなく、もっともっと抜本的に増やしてもらわなければなりませんね。

 ニューギニアではまだ1度も遺骨収集をやっていない地区がたくさん残っています。新たな情報も出て来ています。政府が民間に依存するのもいいが、政府が積極的に相手国政府と話してそういう情報をもらうべきなのに、やっていない。外務省との連絡が悪いんです。今後は遺骨収集のために、厚労省が在外公館に人を出すべきじゃないでしょうか。

 戦友はまだ若干は残っていますが、もう90歳前後ですからね。それでも「ぜひ遺骨収集に行かせてください」というのが何人かいるのですよ。

内閣府に省庁横断組織を(赤木)

 赤木衛 笹さんが『諸君!』に書いたように、このままのペースでは800年たっても遺骨収集は終わりません。

 これをドラスティックに変えるには、まず、地域ボランティアを拡充しなければならない。「郷土の先輩をお迎えしよう」という人たちですね。京都のレイテとか、旭川のガダルカナルとか、地域の(部隊の)先輩をごっそり根こそぎ動員されているケースは多いんです。それを地域の後輩が迎えに行くのです。

 もう一つは内閣府に特別室をつくって各省横断で遺骨収集に取り組むことです。拉致問題も最初は警察の公安セクションがやっていましたが、現在は内閣府で担当するようになりました。防衛省外務省厚労省などが、霞が関の縄張り意識に囚われるのではなく、横断組織に変えなければダメです。ニューギニア、フィリピン硫黄島インドネシアなど主要な戦場には、現地に連絡室をおく。そういことをするべきだと思っています。

 また、私が学生の頃、政府の派遣団による遺骨収集は1カ月でした。人員も最低30人です。ところがいまは2週間です。トランジット2日、3日。そこへ「現地大使館表敬」などという無駄なことをやっている。日本人が日本人にあいさつしてどうするのですか。これでは実際に遺骨を探す時間が減るばかりですよ。

 日本という国は国家がやるべきことを、ボランティアが身銭を切ってやっているのが現実です。それを「あれはだめ」「これはだめ」と言っているのが役所なのです。いまこそオールジャパンでこの問題を考えていかなければならないでしょう(拍手)

時間がない、5年が限度(野口)

 野口健 僕はね、正直いってそれを国がやるとは思えないのです。われわれが現地で情報収集しているのは80歳以上の方々です。現地での感触は「あと5年で限界」なんです。情報がなくなれば終わってしまうわけですよ。だから国が動くのを待ってはいられません。

 繰り返しになりますが、僕には「国は動かない」というヘンな自信がある(苦笑)。ただ、待っていたって埒があかないから、まずは自分たちでできるのは「アクションを起こすこと」です。それから、国は動かないなら「予算を出してくれ」と。

 日本の遺骨収集における予算は現在約3億円。アメリカは約55億円です。せめて「予算を出してまかせてくれよ」というのが、現場で日々戦っている思いなんです。

 日本兵にとって、戦地に行って死ぬハードルは低かったのに、帰ってくるハードルがなぜこれほど高いのか?

 遺留品もたくさんあって、どうみてもこれは日本人のご遺骨だろうと思っていても、これまでは、政府が選んだ鑑定人のOKがなければ日本に持ち帰ることができなかったんです。ジャングルの洞窟で米兵やゲリラが集団自決しているハズがないでしょう。それなのに、いろいろな理由をつけて止めてきたのが国だったのです。

 この問題に関して国に期待はしていません。けれども、諦めてもいません。予算については、厚労省だけを批判しても仕方のないのです。国民の全体の土台、意識が低ければ、ダメなんですよ。でも、世論を動かすことは出来るのではないかな。国民の中から税金を遺骨収集につかってくれという意見があれば予算がつくのではないかと思います。残り5年で、どこまでできるか。精いっぱいやっていきたいと思ってます。  [ 産経新聞 2009/09/19~22

 

2009年8月15日 (土)

そーか今日は★☆彡 戦争が終わった日。

◆ 平和な世の中に 感謝を捧げる記念日。戦争を知らないから、子供の頃から余り意識することも無かった。でも、一応ボクもiza!ブロガーだから何か書くべきかなぁ、。。。。 今日も一日御苦労様ぁ(^0^)/


【主張】終戦記念日 国家の心棒、立て直す時 鎮魂の日に思う難局の打開

2009/08/15 07:47更新

 64回目の終戦の日を迎えた。物心がついた、当時10歳前後の少年少女は今や、70代半ばにさしかかっている。あの戦争を知る人の多くは鬼籍に入った。いや応なく忘却が進む。だが、総力戦に敗れ、国の行く末を国民が深く憂え、同時に日本再建へ心を一つに立ち向かったことに思いを馳(は)せたい。

 日本はいま、多くの難題を抱えている。少子高齢化の進行、不況下での負担と給付、北朝鮮の核や中国の台頭…。これらの問題に正面からどの程度、立ち向かってきただろう。複雑化し、解を見いだすのは容易でないがゆえに放置されてきた。その拱手(きょうしゅ)傍観が危機をさらに深めてはいないか。

 ≪同じ「日本丸」にいる≫

 しかも問題の根本解決には党派を超えた枠組み作りが不可欠なのに、目前の利害と対決感情に身を置いてしまう。混乱と混迷からなかなか抜け出せない。激論、競争は民主主義を活性化させるが、行き過ぎては国益を損ねる。

 気付くべきは、同じ日本丸に乗り、運命を共にしているということだ。国家と国民の一体感を取り戻すことが、この国を救う。

 あの戦争の教訓も道標(みちしるべ)だ。世界の情勢を見極められず、自らの実力を客観的に把握しなかったことなどが、無残な破局を招いた。70年前の1939年、独ソ不可侵条約締結に対し、平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」と声明して総辞職した。国際情勢への無頓着さは昔の話ではない。

 日本の周辺環境は大きく変貌(へんぼう)している。21年連続で2けたの伸び率を示した中国の国防費に対し、米国防総省が今年3月、発表した「中国の軍事力」は「アジアの軍事バランスを変化させ、大きな不安定要因」と分析した。「中国は2020年までに複数の空母を建造する」との予測も加えた。

 そう遠くない将来、空母3隻を擁する一大海軍国が姿を現し、日本近海で空母機動部隊が遊弋(ゆうよく)する。中国海軍高官が米中で太平洋を東西に分割管理しようと提案したことが空想とはいえなくなる。日本の存立は危うさを増す。

 国連安全保障理事会警告を無視して核実験を続行し、弾道ミサイルを発射する北朝鮮はこれからも、国際規範を踏みにじっていくだろう。北が核爆弾の小型化技術獲得に成功した可能性について、米国防情報局幹部は今年3月、上院委で言及した。いずれ保持する核搭載ミサイルは日本に向けられる。日本はその備えを常時検証し、万全を期さねばならない。

 冷戦終結から20年、この地域はいまだに冷戦状況が色濃い。日本の平和と安全が直接脅かされているのに、あまり注意が向けられていない。防衛費の7年連続削減は、その証左である。

 戦後日本は経済中心主義を取ってきた。自衛隊は保持しているものの、国の安全保障を米国に依存してきた。その習いが甘えとなり、今もなお一国平和主義が消えない。厳しさから目をそむけ、安逸をむさぼるゆえんでもある。

 ≪戦後体制をどうする≫

 しかし、忘れてならないのは、北朝鮮による拉致事件が、国家の最大の使命である国民の生命と安全の確保をないがしろにしてきたことを明確にした点だ。国家の抑止力が機能していれば、工作員はあれほどやすやすと領土・領海を侵犯できなかったはずである。

 絶対的な無防備平和主義がまかり通ったのは、国家主権の行使を縛る憲法第9条によるといえる。「国のかたち」が不備だったことが悔やまれる。国家の機能を回復することが、戦後日本の大きな宿題であり続けている。

 総選挙の公示は18日だ。政権交代が声高に叫ばれている。自民党をこらしめるため、一度民主党に政権を任せようといった鬱憤(うっぷん)晴らしでは問題は片付かない。

 21世紀を生き抜いていける国家像、いわば戦後体制をどうするかを自民、民主両党は政権の選択肢として提示しなくてはなるまい。変えるものと変えるべきでないものを整理して示す必要がある。

 戦禍の廃虚から立ち上がった先人たちは豊かな国を見事に築き上げた。だが、肝心の国のかたちは抜け落ちてしまった。

 心を一つに力を合わせ国家の心棒を立て直すことが現在と将来の危機を乗り切る原動力となる。

 日本をよりよい国にすることが、あの空襲で犠牲になった多くの国民、戦陣に斃(たお)れた幾多の英霊への鎮魂につながっていく。300万を超える戦没者を深く追悼し、死者の思いを考える8月15日でありたい。


◆ 戦争体験は親の世代から聴いている。映画でもテレビでも映像の中では疑似体験は十分。でも骨身に染みるようなことは、何一つ分っちゃいない。自分を無にして共同体の為に生命を捧げる精神状態を ボクの中で理解出来ない以上、自ずと限界が有るわけさ。 観念主義的思考には、アレルギーが凄く在るし。(笑) たぶん を 懸けるって現実は、当事者の心情に一点の曇りでもあれば、無理腹を斬るようなものなのだろう ・・・・・・

無理腹を切らされたら、確かに戦争の犠牲者と謂える。でも、そんな人達ばかりだったのかそんな人間ばかりで、戦争を遂行し続けることが出来ると思うか。ふきだし・・・ 思わないでしょやっぱり日本を守る為に大多数の日本人が、あの戦争で命を捧げたんだよぉ。当たり前だが、昔の人も現代の人も、命は 一つっきり ・・・・・・

ボクは東京に20年近く住んでいたけど、一度も九段に行ったことが無い。しかしながら 国権を託されてる政治家ドモは、靖国参拝 行けよぉ。行くべきだろぉ。 国家防衛に命を捧げた数多の日本国民に降参 頭を下げて お願い 平和の誓いをしろ。 外国に気兼ねする気持ちを、尊い先人 に振り向けて頂戴。

 

2009年8月13日 (木)

たとえば ・・・ ボクが死んだら ・・・・・・

◆ 是の【ブログ】は墓標となる。この【ブログ】はボクの履歴であり社会と家族に向けた遺言でもある。 気晴らしでメモ 書いてるけど、いい加減な気持ちでメモ 書いては居ない。 同じ気持ちを共有するであろう全てのブロガーボクは降参 リスペクトしてます 自分もそうだって 仲間達に 乾杯。 本日も御苦労様ぁ(^0^)/


自分のブログ 死んだらどうなる? 訪問絶えぬ“墓碑”も

8月13日10時38分配信 産経新聞

 自分がこの世を去ったら、日々更新しているブログやSNSソーシャル・ネットワーキング・サービス)の日記はどうなるのか-。サービス業者によると、たいていは誰かが削除の依頼をしなければ、残り続けることになるという。書き込みが死後も消えないのは複雑な気持ちだが、残ることで訪問者が絶えない“墓碑”のような存在のブログもあるお盆だから、亡くなったあの人の書き込みを見てみよう」。そんな時代が来るかもしれない。(森浩)

 「自分が死ぬと、この愚痴の数々はどうなるのか」。東京都内の男性会社員(32)は、自分のブログを見ながらふと思った。「妻や会社の愚痴をつづっているSNSは『死んだら消してくれ』と、家族や同僚に頼むわけにもいかない」

 SNSやブログなどのサービス業者の多くは、利用者が死亡した場合、「依頼があれば削除する」というスタンスだ。SNS大手「mixi」(ミクシィ)は「遺族からの連絡で、削除するケースもある。一定期間更新がないからと言って、こちらから削除することはない」と説明する。

 故人がどんなブログを書いているか、家族が知らなかった場合、サービスが継続される限り、記述がネット上に残ることになるというわけだ。

 ◆ コメント1万超え

 一方、「生きた証し」としてブログが注目される例もある。

 「カオリにファンの方が、気持ちを伝えられる場として残しています」

 7月28日、乳がんのため死去したミュージシャン、川村カオリさんのブログ「川村カオリの調子はいいんだけど…。」は今も削除されていない。訪問者が絶えることはなく、死亡を伝えるエントリへのコメントは1万2千以上もある。

 所属事務所は「ファンのために」と存続を決めた。「思った以上に訪問者が多く、当面は存続させる方針」という。

 ◆ 生きた証し残す

 肺がんで「余命2年」と宣告され、平成17年に死亡したライター、奥山貴宏さんのブログ「32歳ガン漂流 エヴォリューション」も死後4年が経過した現在も存続し、コメントが絶えない。

 「死にたくないな」で始まる奥山さん自身の最後の書き込みへのコメント数は650件を超えている。

 現在のブログを管理するのは、生前の奥山さんと交流があった編集者ら。担当者は「お墓がネット上にあるようなものです。彼が生きた証しを残すことは意義があると考えました」と語る。

 総務省の推計によると、今年1月末のブログの登録者数は2695万人で、SNSの登録者数は7134万人。のべ1億人近い国民がサービスを利用していることになる。

 インターネットに詳しい関西学院大学の鈴木謙介助教(社会学)はサービス会社が永続するとは限らず、記述が永久に残るということはないただ、管理してくれる誰かがいれば、ブログは死者をしのぶ新しい手段になるかもしれない」と話している。


◆ 日本全国的に名を晒しても、別にメリットが有る訳じゃない。寧ろデメリットのほうが多いでしょう。ネット犯罪に対して脇が甘いと どんな落とし穴に嵌まるとも限らない。でも 自分を取り巻く小さな社会の中では【ブログ】の存在を明らかにしておいたほうが楽しいよぉ。何かと会話の取っ掛かりも見つけやすいしね。 自分というものを素直にネット上に 出せば、色んな反応が返ってくるし、人間関係の幅も広がることでしょう。お互いのブログを行き来するのも一興。 ボクのほうから【コメント】入れるばっかりで、ボクのほうへは全く 来ないんだけどさ。(笑)

毎日コツコツと更新している友人の【ブログ】を読んでいると、逢って話をするよりも、その人物の人間性を深く理解出来たりするんだよぉ。 『文章』って、匿名で書かれたものであっても意外と自分を偽れないものなんだ。品性が 出ちまうのさ。DASH! DASH! 自分の器がバレてしまう のが ふきだし・・・ 怖かったら、 誰にも【ブログ】の存在を教えないほうが えへ 良いかもねっ ふっ ふっ ふっ オヤスミなさい。

 

2009年4月21日 (火)

是も 記録に残しておきたい昭和!!

◆ 時代は流れていくんだねぇ~~。短波ラジオってのも懐かしいけど、アレって全く、株価情報 しか利用価値が無かったでしょう。 他に番組あったのぉ。 親父が元気だった頃、胸に抱えて聴いていたっけなぁ。耳が悪かった親父には、余程の集中力が無いと聴き取れなかったんじゃないのかな。 今、時代はネット・トレードに取って変わり、新聞、四季報、短波ラジオの時代は終わったんだ。静かに消え逝くって 訳なぁ。皆さん、今日も御苦労さま(^0^)/


赤字続きで存続困難…株価ラジオ番組終了

2009/04/21 18:02更新

 株価をリアルタイムで中継していた短波ラジオ番組が3月末で終了し、目の不自由な人や高齢者らリスナーから放送局に存続の要望が殺到している。問い合わせは約2週間で1000件を超えた。「ラジオだけが投資の窓口なのに」と、投資の機会が失われることを危惧する声が多いが、復活は難しい情勢だ。

 中継が終了したのは日経ラジオ社(東京)が短波放送で伝えていた「株価実況」。東証1部上場の全1700強の銘柄の株価を午前9時から午後3時までの取引時間中と終了後に読み上げるという内容。目の不自由な人やパソコンを扱えない高齢者、農作業や工場勤務で日中手が離せない投資家の間では根強い人気があった。いまなお40万人近くのファンがいるとされる。

 日経ラジオ社によると、システムの維持管理費に加え、東証へ納める株価情報提供料が収益を圧迫し、事業の継続断念を余儀なくされた。今後はパソコンなどを利用する投資家向けに、株価の分析や値動きの背景解説に力を置いた番組づくりを進めるという。

 株価中継はかつて、証券会社の協力金にも支えられていたが、経営難を理由に出資の打ち切りが相次いだ。その影響で2002年3月末にいったん放送中止に追い込まれたが、リスナーの強い要望で06年4月に復活した経緯がある。日経ラジオ社の担当者は「復活後も証券会社の協力は得られず、この3年間はほぼ持ち出しで赤字幅が拡大していた」と苦渋の決断だったと明かした。


◆ 半世紀以上、株式投資に親しんできた高齢者の為には、やはり残しておくべきだろ。でも、東証が株価情報提供料を取ってたなんて、知らなかったよぉ。證券業界も馬鹿だね。経営全体から見たら、僅かな出費でしか ないだろうにさ。

経費を切り易い所から切り捨てるのは、政府のやり方と極似してるなぁ。その効果は、雀の涙  だろってのぉ。

今いろんなことが 時代の転換点に来ているのだろう。テレビ局も経営の実態は、不動産業がメインだって謂うしね。パソコン一台あれば、ニュースショッピングも、病院の予約だって、指一本で事足りる時代。確かに便利な時代になったけど、その便利さを享受できない一部の人たちがいる。ボクはクルマの免許が遅かったから思うことだけど、高齢者がパソコン覚えるのって大変だろなぁ。高校の科目に 計算機数学 ってあったから、キーボードの叩き方は何時覚えたかすら、覚えてないよぉ。(笑) ブラインド・タッチだから、一切ストレスなし。若いとき覚えてて良かった。(汗)

まあ、今日は落ちナシ。皆さんも、いろんなことが或ると思うけど、メゲズに 頑張って。オヤスミなさい。

 

2009年3月11日 (水)

本日は、厄日なりぃ~ (*;*)>ポリポリ

◆ 嗚呼やっと、パソコンが帰ってまいりました。参りましたね、ホント。今日は、転回禁止の標識を見落として、減点1。罰金6,000円也。6,000円あれば、ハイオク満タン一回分だよ。(泣)

運が悪いことに、パトの待ち伏せに遭って、要らぬ出費を 致しました(^0^)/

 ゴールド免許の道は、近いようで遠い。帰り道では、子供が自転車で逆走してきて、ぶつかりそうになる しよぉうぉ。下り坂に任せて スピード出すんじゃないよ 危ないだろぉ~、子供じゃないんだから。(怒) いや、子供か、。。。。

目 ボクのパソコンは、ミラー化してある。ご覧の読者の皆さんも、週一回のバックアップか、レイド仕様を御薦めします。ハード・ディスクが壊れると、パニくるよ。クルマのブッ損事故よりも、絶対に怖いことさ。そして不幸は重なるもの。是にも、ちゃんと理屈が有って、ひとつ悪いことが起こると、普段の生活の隅々において、注意力が無くなるって事なんよ。マーフィーの法則は、今日も実証されたって事なのさぁ~~

明日からは又、気分を 変えて前進あるのみ。ボクが鬱病持ちだってことを 知って、この拙い【ブログ】を 欠かさず読んでる人も居るのだから、出来るだけ其の人達のチカラに為れたらと思っています。ボクは今日から、もうひとステップ先に行こうと思います。どうせ、どんな睡眠薬でも眠れないんだから、これから少しずつ薬の量を 少なくして開放されたい。薬を 飲まないと、朝の禁断症状が半端じゃなかったんだけど、最近は偶に冒険してワザと飲まない日があります。

なんとか耐えられる範囲だね。今夜は、【ニュース】にリンクせずに取り敢えずの決意表明

鬱病 で苦しんでいるまだ、文章が読めるだけでも、ずっとマシだよぉ。重度の鬱病を 克服したなら、この先どんな困難でも大したことないと思えるもの。軽いうちに治してね。ボクは、年間も失ってしまったぜっての。

自殺する前に必ず、ボクの【ブログ】を 読むように。自殺は、明日に しな ってのぉ。オヤスミなさい。

 

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