◆ 【ブログ】の為に【ニュース】をチェックするクセが付くと、それまでは“興味ねぇ~~やぁ”って素通りしていた事柄にも、ふと眼を留めたりする。今日も一日御苦労様ぁ。(^0^)/
長い記事だけど一読の価値あり。ダイジェストで掲載致します。是を読むと“反戦の誓い”ってのは、九段に参るとか参らないとかって事じゃない気がする。軍国主義が迷惑を掛けた相手は、外国じゃなくて国民さ。其れがボクの感想。政府が国民を見ていない姿勢が
こう云う所に表れてる。
生産性は無いけれど、ひろく公益に帰することを行なうのが公務員の役目でしょ。
オヤスミなさい。

野口健はなぜ遺骨収集を始めたのか シンポ詳報
世界的なアルピニスト、野口健さん(36)は8000メートルを超すヒマラヤで、もう何日間も猛吹雪に閉じこめられていた。“命綱”の酸素は残りわずか…。野口さんは、ついに「死」を覚悟し、ひとりテントの中で遺書を書き始めた。4年前のことである。「オレも間もなくテントごと吹き飛ばされて、雪の中に埋もれてしまうだろう。でもせめて、だれかがオレの遺体を見つけて日本へ連れて帰ってくれないものか。帰りたいなぁ」。望郷の念はつのるばかりだった。
そのとき、野口さんの頭の中に浮かんだのは、先の大戦で、熱帯のジャングルやシベリアの酷寒の地で、愛しい妻子やお母さんを想いながら死んでいった日本兵のことだった。「彼ら(日本兵)も帰りたかったろうな。ひと目家族に会いたかったろう」と。約240万人の海外戦死者のうち、いまだ約半数は日本に帰っていない。洞穴や土の中に埋もれて、帰りを待ちわびている…。“山仲間”の橋本龍太郎元首相や元参謀だった祖父(ともに故人)から聞かされていた話が、自分の死を目前にしたとき、甦(よみがえ)ってきたのである。
幸いなことにヒマラヤから生還できた野口さんは、取り憑(つ)かれたように遺骨収集への取り組みを始めた。忙しいスケジュールを縫ってこれまでに4度、フィリピンへ渡り、遺骨調査・収集を行った。8月21日にも、1555体分の遺骨とともに帰国を果たしている。
野口さんが参加しているNPO法人「空援隊(くうえんたい)」(本部・京都市)は独自の情報ネットワークをフィリピンに築き、この半年間、驚異的なペースで遺骨を見つけ日本に持ち帰っている。それまで、国(厚生労働省)の派遣団しか認められなかった遺骨収集を、民間団体にも可能にする道も開いた。十数年、停滞していた遺骨収集事業が野口さんらの参加によって、再び息を吹き返したのである。「残された時間は少ない」(野口さん)。いまこそ、遺骨収集を「拉致問題」のような国民的な運動に広げたい。たくさんの人たち関心を持ってほしい…。こんな願いから、野口さんの発案で8月24日、東京・九段の靖国会館で「遺骨収集を考えるシンポジウム」(産経新聞社主催)が開かれた。
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祖父ちゃんに聞いた遺骨の話(野口)
野口健 僕の祖父ちゃんは元軍人でした。ビルマ(現ミャンマーの戦いに参謀として参加したが、部隊はほぼ全滅。そのとき戦死した部下のほとんど(の遺骨)がまだビルマに残っているんだ、と聞かされていたのです。祖父ちゃん宅へ泊まりにいくと、ふとんの中で耳元で「健、あのな、ビルマではな」と囁(ささや)かれる(笑い)。それが耳に焼き付いています。僕がヒマラヤで死にかけたとき、こんなことを想いました。日本兵が亡くなったときも、最期は「母ちゃんに会いたいな」とか、「子供に会いたいな」と思ったのではないか、とね。
堀江正夫 東部ニューギニア戦線の生き残りです。日本の2倍もある大きな島で、その東半分が、東部ニューギニア。満3年間も戦い続けた部隊です。この地区に投入されたのが、陸、海軍合わせて15万人。このうち内地の土を踏んだのが約1万人。途中で部隊が転用されたり、帰ってきたのが約1万人。3年間の間に、それ以外の13万人の尊い命がニューギニアの土になったのです。
われわれにとって一番、心残りだったのは、「同志をそのままにして帰るわけにはいかない」ということでした。昭和19年4月に、連合軍が上陸して日本軍は孤立。その後から豪州軍の攻撃を受けました。そのとき、全部隊に期せずして「遥か故郷を思わざる」という歌が伝わってきたのです。こうして13万人が祖国を、故郷を思いながら、亡くなりました。
戦後、東部ニューギニアの遺骨収集が本格的に始まったのは、昭和44年からです。私は2回目の48年から参加しました。生き残った戦友が40人、学生の諸君が10人、そのほか計70人で1か月半の間、遺骨収集をしました。
ニューギニアは酸性土壌ですから、すでに土になった遺骨もある。せっかく見つけても大腿骨しかなかったというケースもありました。みんなで丁寧に掘り出し、頭蓋骨(ずがいこつ)を丁寧に手の上に載せるとつぶれてしまうことも。水はけがいいところはまだ骨が残っています。標高4000メートルを超える高地では、骨がしっかりしていました。頭に毛が残っているものさえあったのです。
こうして13万人のうち、これまでにお迎えできたのが、約5万人。まだまだたくさんの遺骨が残されているのです。私は94(歳)ですが、何とか命があるあいだに、1体でもたくさんのご英霊を日本に迎えたいと思っています。
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日本人は何をやってきたのか?(笹)
笹幸恵 小さい頃から戦争に関心を持ち、いつか戦地を訪れてみたいと思っていました。旅費と生活費を稼ぎなら、ようやく行けるようになったのが30歳のときです。現在は34歳で、両親も戦後生まれ。だからこそ、「あの戦争で何があったのかを知りたい」と思っていました。本を読んでもよく分からない。「飢えで死ぬ」とはどういうことなんだろう、と。
ソロモン諸島ガダルカナル島を訪れ、戦友会の方と各地をまわりました。「かつてこの地で戦った祖父の世代を弔いたい」という思いでした。ところが行ってみると、慰霊碑の脇に、遺骨が散らばっている。本当にびっくりしました。
パプアニューギニアのブーゲンビル島のゴヒ村では焼骨式が行われました。井げたに組んだ薪の上に頭蓋骨が乗っていました。歯だけは真っ白く残っていたのです。こんな現実を私は知らなかった。「ただ手を合わせればいい」というのは傲慢(ごうまん)な考え方だと気付きました。戦後60数年経って今なお遺骨が出てくる現実。日本人は「いったい何をやっていたのだろう」と思いました。私が生まれるまでの30年、生まれてからの30年…。戦後の繁栄を享受している1人として、とても腹が立ちました。
ただ、私のような一般人は遺骨収集は出来ません。(当時は)国の事業でしか認められなかったからです。「何とかして日本に戻せないか」と悶々としたことを思い出します。
ガダルカナル島のふもとで、国の収集団が帰った後、庭みたいなジャングルで5体分の遺骨を見つけました。遺骨の重さはイスくらい、持って歩けるくらいの重さです。物としては軽くない。けれども人間の命があったと考えればあまりにも軽い。そのやるせなさ、戦争の不条理、残された人が「声を上げることもかなわずここに眠っていたのか」と思うといたたまれない気持ちになりました。
赤木衛 JYMA日本青年遺骨収集団は、昭和42年、花園大学、駒沢大学など、仏教系の大学の有志が「戦没者を慰霊しよう」と集って出来た団体です。現在は、学生有志が毎年、国の収集団に40人~60人参加していろいろな場所へ遺骨収集に行っています。今どきの若者たちは、おかしな格好をしている子もいるが、心根は昔と変わりません。先輩からいろいろなことを教わり、一生懸命やっている学生が多いのです。
私が最初に参加したのはサイパンでした。そのときジャングルの洞窟から赤いランドセルが出てきたのを見たのです。サイパンでは民間人も巻き込んで激しい戦闘がありました。洞穴にランドセルを背負って逃げてきた小学生のことを考えました。そばには、細いボールペンくらいの上腕骨、櫛(くし)と簪(かんざし)も見つかりました。ちょうど僕の母親世代でしょうね。そういう人たちが被害を被った戦争だと思いました。
そのときの体験は強烈でした。まるで脳天を貫かれるような思い。死生観がひっくり返された気がします。
硫黄島の洞穴では、まるで時間が止まったようでした。横須賀-霞ケ関という定期券が出てきたり、「いまひとがんばりしよう」と書いてあるノートもありました。
いろいろなところを回りました。日本人の先輩たちは「われわれが太刀打ちできないようなすごい精神力で戦われたのだな」ということがよく分かりました。全長18キロメートルのも及ぶ地下壕を作ったり、ニューギニアでは1000メートル級の山の上までトラックを分解して担ぎ上げていたり…。この日本人の精神力には太刀打ちできません。完膚無きまでに打ちのめされた気持ちになりました。
遺骨をジャングルの中で見つけ、マニラ麻の袋を担いで、山を上がり降りしました。当時は、1回、山には入ると50や100の遺骨が見つかりました。その重さが背中にギシギシと訴えてくるのです。「まだ友達がそこにいるんだ」とね。
これまで、がんばってこられた先輩たちに代わって今度はわれわれが「前衛」を担っていけない時期だと思います。ここに来ているメンバーがまさにそういうメンバーでしょう。
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米軍はすべて持ち帰った(倉田)
倉田宇山 3日前に野口と一緒にフィリピンから1555体の遺骨と一緒に帰ってきました。その1555体はいったいどこへ行くんでしょうかね。いまは厚生労働省の安置室と呼ばれる倉庫に置かれています。来年5月の最終月曜日に千鳥ヶ淵の戦没者御苑の穴蔵に、もう一回焼いて、かさを減らして、缶詰にして入れられるんですよ。ここは靖国神社ですから遺骨はありません。これ、どこへ行くんですかね。
遺骨収集に関わったのは2005年8月からです。それまでフィリピンに足を踏み入れた事もなかったのに、いまでは私のパスポートはフィリピンのスタンプがぽこぽこ押されている。これまでに32回、今年に入って7回です。
われわれが探すまで、フィリピンで見つかるのは年間数十体だった。これで国家事業と言えますか。フィリピンで亡くなった方、そのひとり、ひとりに人生があった。私は、どのような人生であったかは知りません。でも、こうした現実があることを4年前に行くまで知らなかったのか。不明を恥じます。
私は本来、笹さんと同業のジャーナリストです。最初は「遺骨が山のようにある」と聞いても信じませんでした。
最初に行ったのはセブ島。フィリピン一のリゾート・アイランドです。そのセブ島の空港に着いて1時間半、車を降りて歩いて15分。一つの穴を掘っていた。スコップを入れるたびに出てくる。最初はなにか分からなかった。だって日本人の大半は「焼かれていない骨」を目にすることはないでしょう。
よく分からなかったから聞きました。「これ人の骨ですか?」「日本人の骨ですか?」。笑われました。「フィリピン人の多くはクリスチャンです。「クリスチャンはどんなに貧しくても、人が死んだらお墓に入れるんです」。
そして、「米軍は死んだ兵隊さんをみんな持って帰りましたよ」と。「あんたもメディアの人でしょ。日本ではこんなに大量の遺骨が出てきたら、ニュースにならないんですか」。私は答える言葉がなかったです。その怒りが私の遺骨収集の原点です。それからあとは日本人の骨であるという証言を撮影してまわり、厚生労働省にお願いしました。
お役人はどう言ったか。「ああすごいですねえ。こんなことは信じられません」。その挙げ句に、彼らは「こんな遺骨の映像をいっぱい撮ってくるのはやめてくださいね」「なぜですか」「遺骨にも尊厳がありますから」と。
私は怒りのあまり、「舐(な)めとんのかお前ら、こら」と怒鳴りつけていました。その後、厚生労働省からは「出入り禁止」となりましたが…。
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国のプライドのためにやるという意義付けがない(赤木)
――ここ数年、国の遺骨収集事業が停滞していた原因は何でしょう?
赤木衛 厚生労働省が遺骨収集をやっている理由はなんでしょうか? なぜ防衛庁ではないのか? 旧帝国陸海軍が解体された後、復員省が出来た。それを管理しているのが援護行政を行っていた厚労省なのです。厚生省が遺骨収集をやっているのは、あくまで「遺族や戦友の便宜を図るため」にすぎない。本来は日本のためでしょう。ここが大きな問題です。遺骨収集の能力のないものがやるべきではない。志がそもそも間違っているのです。
米国のJPAC(戦争時の行方不明者や遺骨を探す組織)は、日本の10倍くらいの予算をつけて今でも世界中の未帰還兵をさがしています。でも日本では「遺族の便宜を図る」ために遺骨収集が行われています。日本では「遺骨収集を国家のプライドのためにやるんだ」という意義付けがなされていません。「無責任ではないか」という怒りを感じています。
笹幸恵 事業が進んでいない最大の理由の原因は、一般の人々の無関心です。私も数年前まで知らずにいたから人のことは言えませんが、メディアの責任も大きいでしょうね。(遺骨収集を担当する)厚労省の外事室のスタッフは20人くらい。それが行政機関のスタンスを表していると思います。もし何が何でも「国家の事業としてやらなければ」と思うなら、もっとできたはずでしょう。その間にどんどん国民の関心が薄れていく。
さらに、小分けにして申し上げると、記憶が風化していく。戦争体験者の方々は80代後半になっている。堀江先生のような方は失礼ですが奇跡だと思っています。「ここで戦った」「ここに野戦病院がある」「ここに友人の遺体を埋めた」という情報が少なくなった今は収集ができません。
もうひとつは現地の人とのコミュニケーションなんです。「畑仕事をしていたら(遺骨が)出てきた」と言うことがいまでもままある。ところが現地にネットワークづくりができていなかったらほったらかしにされてしまう。われわれが情報を吸い上げる努力をしなければならないのです。
3つめは自然環境の壁です。日本国内では川があれば橋がある。ところが、日本軍の将兵たちが戦った場所は川に橋がないのがほぼ当たり前。ジャングルに一歩、入ってしまったら右も左も全く分からなくなる。一緒にいた人の姿が見えなくなったら、自分がどの方向か来たか分からないのです。スコールがあれば、も決壊してしまう。あまりにも日本の環境と落差があるのです。
あとは、お金です。現地の人々がお手伝いをしてくれる。われわれとしては労働の対価として支払う。現地では失業率が8割くらい。現金収入は魅力です。「何とか日本兵の遺骨が収集したいのだ」と訴えても、若い人たちは、対価がないと協力してくれません。
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「必ず日本へ返す」という決意があればできる(野口)
野口健 決意の問題があるでしょうね。「必ず日本へ帰す」という決意があれば、あらゆる手段をとるでしょう。昨年までは民間団体による遺骨収集が認められていなかったので、現場に入って調査した結果を持ち帰って厚労省へ行くしかありませんでした。ただね、厚労省の方に当事者意識を持てと言うのがそもそも無理ですよ。日本軍は厚生省が派遣したわけではない。そもそも60数年前の話ですし、厚労省には、どだい限界があるのです。
フィリピンへ行き、灼熱(しゃくねつ)地獄のジャングルを歩いて、洞穴に入ると、おびただしい数の遺骨が残されている。その現場を見ると、平坦だった知識が立体化します。そして現実を知ると“背負ってしまう”。そのとき初めて決意、気迫の問題になると思うのです。
僕は最初、正直言って「これはなかなか進まないかな」と思っていました。ところがたった4年で、状況は大きく変わりました。これまで全世界で1年間で収集した総計の遺骨を遥かに上回る数をフィリピンだけで集めた。たった半年で4000体以上ですよ。
厚労省も変わった。フィリピンに関しては、空援隊が驚異的な実績を上げたことで、彼らが心を開いたというよりも、「いいといわざるを得ない状況」をつくったのです。国会議員もほぼすべての党が一緒にやってくれています。やるなら徹底してやろうと思っています。
――その驚異的な実績を上げている方法とは?
倉田 これまでは「日本側の情報」がベースでした。戦友や遺族、厚労省が、旧日本軍の作戦記録などをベースに遺骨収集を行う。でもその情報は60数年前の情報なのです。どんな国もそうですが、60数年間変わらなかったものがありますか? そんなものはどこの国に行ってもない。ましてや発展途上国といわれる国では、山や川の地形すら変わっている。昔のままの地図では行き着かないのです。
われわれのやり方は「現地の人の情報」をもとにしています。その情報の集め方が大きく違う。フィリピンにおいて、われわれに情報提供してくれるのは現地のお年寄りやトレジャーハンター(宝探し)です。彼らは仕事がないと山へ入って宝探しをする。ハンターの存在を知って、「きっと遺骨を見ているはずだ」と思いました。さらにもう一つの情報源はゲリラです。フィリピンは山の中はほとんどがゲリラの支配地です。日本で言うゲリラとちょっと違い、どっちかというと山賊ですね。要するに、現金収入を得る術がない。そういう人がゲリラ化して縄張りをつくり、通行料をとって暮らしているわけです。
だから実際に銃を向けられることもあるし、葉っぱ(麻薬)を吸っている人もいますから、あまり楽しいところでもない(苦笑)し、行きたいところではない。マラリア蚊も飛んでくる。キングコブラもいる。われわれの仕事は言わば、マラリア蚊とコブラとゲリラと良い関係になることなんですね(笑い)。
現在は、フィリピン人スタッフ10人、コーディネーター150人が毎日、山に入って歩き回って情報収集をし、遺骨を持って帰っています。それを各地の集積所に集めている。「何でうち(空援隊)がやらなければいけないのか」と思いながらも、フィリピン各地に仮安置所を建設しました。
厚労省からは、「(遺骨の)保管料がかからないので助かります」と言われましたが、本来、そんなことは、民間のNPOがすることでしょうかね?
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国が真剣に取り組まねば(堀江)
堀江正夫 約40年間、遺骨収集を続けていますが、(空援隊の)倉田さんのお話を聞いて、「本当に生き残ったものとしてはありがたい」と心から敬意を表したい気持ちです。
ニューギニアについても共通している問題だと思っています。初期のころは、戦友がまだ元気でした。記憶も確かでした。その記憶に基づいて埋葬した場所、病院の跡を集中的に遺骨収集することができて成果も上がったのです。
もちろん、その時点で戦後30年近くたっていたから、お墓も作った所が浸食されて海になってしまっていたり、地形がすっかり変わって見つからないところもありました。60年以上たった現在ではなおさらでしょう。
政府の派遣団は、限られた人員が限られた日数で行く。計画はしたが、実際には行けなかったところもたくさんあるのです。厚労省の人たちも一生懸命やってくれているが、何分、スタッフも調査日数も限られている。現在は努力に対する成果が、あまり上がっていないのが現実です。ニューギニアでもフィリピンの空援隊に準じた方法をとれれば、成果があがるのではないかと思います。
そもそも、国は遺骨収集の問題をもっともっと真剣に考えなくてはなりません。(担当の)厚労省外事室は20数人しかしませんし、(厚労省内の)地位も低い。もっと、予算も人員も調査日数も増やしてもらわなければいけないのです。小手先の対応ではなく、もっともっと抜本的に増やしてもらわなければなりませんね。
ニューギニアではまだ1度も遺骨収集をやっていない地区がたくさん残っています。新たな情報も出て来ています。政府が民間に依存するのもいいが、政府が積極的に相手国政府と話してそういう情報をもらうべきなのに、やっていない。外務省との連絡が悪いんです。今後は遺骨収集のために、厚労省が在外公館に人を出すべきじゃないでしょうか。
戦友はまだ若干は残っていますが、もう90歳前後ですからね。それでも「ぜひ遺骨収集に行かせてください」というのが何人かいるのですよ。
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内閣府に省庁横断組織を(赤木)
赤木衛 笹さんが『諸君!』に書いたように、このままのペースでは800年たっても遺骨収集は終わりません。
これをドラスティックに変えるには、まず、地域ボランティアを拡充しなければならない。「郷土の先輩をお迎えしよう」という人たちですね。京都のレイテとか、旭川のガダルカナルとか、地域の(部隊の)先輩をごっそり根こそぎ動員されているケースは多いんです。それを地域の後輩が迎えに行くのです。
もう一つは内閣府に特別室をつくって各省横断で遺骨収集に取り組むことです。拉致問題も最初は警察の公安セクションがやっていましたが、現在は内閣府で担当するようになりました。防衛省、外務省、厚労省などが、霞が関の縄張り意識に囚われるのではなく、横断組織に変えなければダメです。ニューギニア、フィリピン、硫黄島、インドネシアなど主要な戦場には、現地に連絡室をおく。そういことをするべきだと思っています。
また、私が学生の頃、政府の派遣団による遺骨収集は1カ月でした。人員も最低30人です。ところがいまは2週間です。トランジット2日、3日。そこへ「現地大使館表敬」などという無駄なことをやっている。日本人が日本人にあいさつしてどうするのですか。これでは実際に遺骨を探す時間が減るばかりですよ。
日本という国は国家がやるべきことを、ボランティアが身銭を切ってやっているのが現実です。それを「あれはだめ」「これはだめ」と言っているのが役所なのです。いまこそオールジャパンでこの問題を考えていかなければならないでしょう(拍手)
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時間がない、5年が限度(野口)
野口健 僕はね、正直いってそれを国がやるとは思えないのです。われわれが現地で情報収集しているのは80歳以上の方々です。現地での感触は「あと5年で限界」なんです。情報がなくなれば終わってしまうわけですよ。だから国が動くのを待ってはいられません。
繰り返しになりますが、僕には「国は動かない」というヘンな自信がある(苦笑)。ただ、待っていたって埒があかないから、まずは自分たちでできるのは「アクションを起こすこと」です。それから、国は動かないなら「予算を出してくれ」と。
日本の遺骨収集における予算は現在約3億円。アメリカは約55億円です。せめて「予算を出してまかせてくれよ」というのが、現場で日々戦っている思いなんです。
日本兵にとって、戦地に行って死ぬハードルは低かったのに、帰ってくるハードルがなぜこれほど高いのか?
遺留品もたくさんあって、どうみてもこれは日本人のご遺骨だろうと思っていても、これまでは、政府が選んだ鑑定人のOKがなければ日本に持ち帰ることができなかったんです。ジャングルの洞窟で米兵やゲリラが集団自決しているハズがないでしょう。それなのに、いろいろな理由をつけて止めてきたのが国だったのです。
この問題に関して国に期待はしていません。けれども、諦めてもいません。予算については、厚労省だけを批判しても仕方のないのです。国民の全体の土台、意識が低ければ、ダメなんですよ。でも、世論を動かすことは出来るのではないかな。国民の中から、「税金を遺骨収集につかってくれ」という意見があれば予算がつくのではないかと思います。残り5年で、どこまでできるか。精いっぱいやっていきたいと思ってます。 [ 産経新聞
2009/09/19~22 ]